第12話 アルヤ王国の太陽は今日も蒼く輝いている

 それは蒼い太陽の輝くとても晴れた日だった。


 アナーヒタは空を見上げてあまりのまぶしさに目を細めた。


 自分が太陽を神々の中の至高の神と称える日はもう来ない。サータム帝国では神は唯一絶対の存在であり、この神において他に神はないからだ。皇帝の妻になる自分はそれを受け入れて聖地に向かって礼拝する日々を送るはずだ。それが結婚するということだ。


 だがアナーヒタは確信していた。


 ユースフは心を捻じ曲げてまで祈ることは強要しないだろう。アナーヒタが天を仰いで太陽を想っても責めないでくれるだろう。

 サータム人のみんなも何も言わないでいてくれるだろう。


 自分が火をつけられる日は絶対に来ないだろう。


 世界が溶け合う日はきっと来ない。大陸には大勢の大小さまざまな民族がひしめき合っている。


 だが、アナーヒタは否定されないし、否定しない。


 視線を目の前に戻す。


 タウリスの巨大な西門にタウリスの住民たちが詰め寄せている。みんな固唾を飲んで自分たちの王女の旅立ちを見守っている。


 旅はまだ続く。帝都で華燭かしょくてんを挙げるまでは父ソウェイルも三人の将軍たちもそばにいてくれる。

 けれどこの旅においてタウリスはアルヤ王国最後の都市だ。今夜はもうサータム帝国の土を踏むことになっていた。

 アナーヒタがここに戻ってくることはもうない。

 自分がアルヤ王国の土を踏むことは、おそらくもう二度と、ない。


 詰めかけた人々が蒼い旗を振りながらアナーヒタの名を呼ぶ。アナーヒタは「ありがとう、ありがとう」と言いながら手を振り返した。


「気が済むまで手を振ってやれ」


 ソウェイルが言う。そのかたわらには白軍兵士が用意した馬が待機している。


「みんなお前の前途を祝福している。元気な姿を見せてやってほしい」


 最後に、という言葉を、彼は使わなかった。だがアナーヒタはわかっていた。それでも旅立つ。

 まだ正式な婚姻は結ばれていない。けれど自分はもうサータム帝国皇妃だ。生まれ故郷であるアルヤ王国を忘れる日はけしてこない。でも心の一番大切な部分はもうここにはない。


 アルヤ王国第一王女である前に、サータム帝国皇妃だ。


 新しい世界へ、旅立つ。


「参りましょう」

「いいのか?」


 ソウェイルの蒼い瞳が、アナーヒタをまっすぐ見つめている。


「本当に、いいのか?」

「父上様」

「今日中には、アルヤ王国を出る。それで、本当に、いいのか?」


 アナーヒタは笑って頷いた。


 ソウェイルの手が伸びた。

 長い指のついた、男性のわりには華奢な手で、アナーヒタの頭を撫でてくれた。


「ずっとお前に謝りたかったことがある」


 意外な言葉に、アナーヒタは目をしばたたかせた。


「何でございましょう」


 自分はこの父に甘やかされて生きてきた。愛されて、可愛がられて、彼に対しては何の不満も抱くことなくやってきたのだ。


 だが、彼は言った。


「今も後悔している。時々夢に見るくらい悲しかったのを思い出す」

「何の話でしょうか」

「お前は二歳になるまでエカチェリーナの手元で育てられた。彼女はお前をアルヤ王国の女王にしてもいいくらい高貴に育てると言って厳しい教育を施そうとした。でも、あれは、赤ん坊にしてはいけない行いだった。お前はひどく虐待されていたんだ」


 養母であるリリからも聞いていた話だった。何をいまさら、と思う。だがそれは父を責める気持ちから出るものではない。ただ純粋に遠い昔の話というだけだ。


「何もおぼえていません」

「でも俺は一生忘れない」


 彼は、一音一音に思いを込めるかのように、「一生」と繰り返した。


「抱き締めることも許されなかった。でもだからといって腐って眺めてるだけだったなんて許されることじゃない。本当はリリがやったように力ずくで奪い取るべきだったのに。他でもなく、父親である俺が。本当に、すまなかった」

「わたしが生まれた時父上様はまだ十七歳だったとお聞きしました。今のわたしより年少です」

「忘れないでくれアナーヒタ」


 父の腕が伸びる。

 力強く抱き寄せる。


「傷ついたからといって傷つけていいわけじゃないんだ」


 当時の父は深く傷ついていたのだろうか。だから、自分もまたアナーヒタを傷つけたと思って、後悔しているのだろうか。


 アナーヒタは父を抱き締め返した。


「大丈夫です。傷つかないことは無理かもしれませんし、永遠に癒えない傷というものもきっとあるのでしょうが、良くも悪くも時は流れて状況は変わります。わたしが赤ん坊だった頃のことをすっかり忘れてしまったように」


 今度は後頭部を撫でられた。


 しばらく互いのぬくもりを感じ合ってから、ゆっくり体を離す。


 父は微笑んでいた。


「あと、まだ、少し気が早いかもしれないけど。アルヤ王国を出る前に、もうひとつ、約束してほしい」

「はい、何をでしょう」

「もしお前が将来子供を授かったら、その子をアルヤ人の乳母だけで育てようとはしないように。アルヤ人だけでなく、サータム人、チュルカ人、そしてロジーナ人も、大勢の人の手で育てられるよう手配するように。お前に、リリや、シーリーンや、十神剣や、他にも多くの女官や兵士たちが関わってきたように」

「気が早いです」

「アルヤ王国を出る前に、アルヤ人だけをひいきしないでほしいと言おうと思ったんだ」


 完全に手が離れた。


 歩み寄ってくる影があった。顔を上げるとユースフだった。


「まだ何か心配なことが……、お困りのことがおありでしょうか」


 アナーヒタが首を横に振ると、ソウェイルも「大丈夫だ」と言った。


「まあ、でも、これから先、帝国の街からタウリスまでの道のりをよく覚えておくんだぞ」

「はい、もちろん、わたしは皇妃なのですから、アルヤ王国の状況をよく見て――」

「そうじゃない。何かあった時に、ここに逃げ帰ってくるためだ」


 思わず笑ってしまった。


「いつでも帰ってきていい」


 平気で矛盾したことを言う。


「いつでも迎えに来てやる。いつでも」


 自分が出ていくことが、大陸の幸福のためなのに。


 でも、大丈夫。


 わかっている。


 この大陸の幸福は、自分自身の幸福。


「お前が生まれ育ったのは、この国だ」

「はい……!」


 ユースフが苦笑した。


「そんなことのないように、全力を尽くさせていただきます」


 アナーヒタは肩をすくめて「ごめんなさい」とおどけた。


「では、そろそろ、出発いたしましょうか」


 馬にまたがった状態で十神剣の三人が近づいてきた。


「あともう少し。姫様の新居まで、我々がちゃんと届けますので」

「よろしくお願いいたします」


 ユースフに導かれるまま、アナーヒタはここに来た時に乗っていたものと同じ輿に乗った。


 すだれを下ろす前に、太陽を見上げた。


 アルヤ王国の空には、今日も蒼い太陽が輝いている。





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