第11話 強くなれると信じているから
その日の夜、アナーヒタはユースフに呼び出された。
といっても後ろ暗くふしだらな意味合いはない。きちんとソウェイルを通じてのことだ。お目付け役として十神剣の三人もついてきている。万が一のことが起こることはないだろう。
ただ、どうしても、今日のうちに話をしたい、と言われた。
アナーヒタは彼と向き合うのを恐れていた。あんなに恋い焦がれていた相手で、昨日まで一緒に過ごす時間を待ち望んでいたというのに、今はすっかり真反対の気持ちでおびえていた。
それでも逃げられない気がした。
地下牢に行く直前の、父の言葉が頭から離れない。
――カーヒルの存在を直視することが、アルヤの王族の務めであり、サータムの皇族の務めだから。
地下牢できちんとカーヒルに向き合えず終始スーリの背後に隠れていた自分を、ユースフは、どう思っただろう。情けない王女だと、皇妃に足る女ではないと、そう思ったのではないか。
正面を切って罵られることはないに違いない。彼は紳士で優しい人だ。だが呆れられたのではないか。叱られるのではないか。
恐怖が全身にまとわりつく。
いったい、何の話をしたいのだろう。
指定されたのは中庭の噴水のそばだった。回廊に囲まれた中庭だ。
気をつかった三人は廊下の柱の陰に隠れていてくれるというので、雰囲気的には二人きりということになる。
あんなに望んでいた状況なのに、今はアルヤ人の誰かにそばにいてほしい。
否応なしに思い知らされる。
彼はサータム人で、自分はアルヤ人だ。
そう間を置かずにユースフが現れた。彼は昼間と変わらぬ服装の上に防寒具になる外套を羽織っていた。乾燥した高原の夜は寒い。アナーヒタも分厚い肩掛けをまとっている。
アナーヒタが緊張して硬くなっているのにすぐ気づいてくれたようだ。
「ほら、ご覧ください」
彼は微笑んで頭上を見た。
「満天の星空です。美しいですね。天の川が流れています」
アナーヒタも空を見上げた。
王都の宮殿は街中なので、周辺が明るくて星空は少々かすんでしまう。けれどタウリス城はタウリスを見下ろす山の中腹にあるので、星空が近くに見えた。
アナーヒタは噴水を囲む石に腰をかけていた。そんなアナーヒタの隣に、ユースフも腰を下ろした。
しばらく、二人とも黙っていた。
心臓が爆発しそうだ。
耐え切れなくなってアナーヒタから口を開いた。
「何のお話でしょうか」
震えぬように、気丈で高貴な姫君であれるように、わざと冷たい声を出す。
「わたしからは特にお話ししなければならないことはございません。時が来るまで静かにお待ちするだけです」
ユースフはアナーヒタのほうを見なかった。アナーヒタもユースフのほうを見なかった。ただ星空から真正面に視線を戻しただけだ。そこには柱が並んでいるだけで何もない。
「恐ろしい思いをさせましたね」
ユースフが言う。アナーヒタの心臓が跳ねる。
「サータム帝国を怖いところだと思いはしませんでしたか。アルヤ人を排斥するような、異教徒に冷たい国だとは思われませんでしたか」
図星だった。何も答えられなかった。
「今頃、あなたは敵中に放り込まれるような孤独感を味わっているのではないかと、それが不安で」
おっとりとした、落ち着いた態度の彼の口から不安という単語が出てきたのがおかしかった。
「やはり婚約を破棄して宮殿に帰りたいとおっしゃるのではないかと思ったのです」
「できないことはご存知でしょう」
本当は泣きそうなのに、自分の口から出る声は冷たい。
「すべてあなたのおっしゃるとおり。わたしたちの結婚は大陸の平和のためにあるものです。たとえ何があろうともなされるべき婚姻なのです」
いまさらになって、これが政略結婚というものなのだということを悟った。どれだけ愛していても、政治的な戦略の上で結婚するならこういう危険が伴う。
あんなに恋い焦がれていたのに――今でも隣にいられるのが嬉しいのに、アナーヒタの喉からは甘い言葉が出てこない。
しかしユースフは動じた感じではなかった。
「大丈夫ですよ」
あくまで、落ち着き払っていた。
「あなたがどうしても恐ろしいとおっしゃるなら。今だったら、なかったことにできます」
アナーヒタは弾かれたように顔を上げた。
やはり、ユースフは優しく微笑んでいた。
「まだ。今ならば取り返しがつきます」
「どういうことですか」
「ソウェイル陛下とお話をさせていただきました。陛下はやはりあなたのことを案じておいでです。あなたがどうしても嫌だとおっしゃるならば再考するとのことです」
そして苦笑する。
「カーヒルを怖がって布団の中で丸まっていたとお聞きしました」
恥ずかしい話をされてしまった。アナーヒタは頬が熱くなるのを感じた。それは余計なことだ。
「私も陛下もあなたが無理をすることは望んでいません」
噴水が水を噴き上げる音がする。
「サータム帝国を恐ろしい国だと思わせてしまったのはその頂点にいる私の責任です。私がしっかりしていないからこういうことになる。私を責めてください。そして、そんな野蛮な国には行きたくないと」
下唇を噛んだ。
「サータム人を野蛮な民族だとおっしゃってください」
その痛みこそ、アナーヒタがたった今感じていた痛みだった。
アルヤ人が憎まれているように、自分もサータム人を憎むのか。
サータム人であるカーヒルの父親とアルヤ人であるカーヒルの母親はどうしてカーヒルを生み出したのだろう。
愛し合っていたからではないのか。
サータム人とアルヤ人の対立を乗り越えて結ばれたからではないのか。
アナーヒタ個人がユースフ個人に恋をするのと同じように。
「あなたは、わたしに、自分の金の髪を貶めないように、とおっしゃいました」
ぎゅ、と服の腿のあたりを握り締めた。
「あなたも、サータム人であることで自分を貶めないようにしてください」
夜の空は静かだ。星は瞬きが聞こえてきそうなくらいに輝いているのに、人間の声はアナーヒタの分とユースフの分しかなかった。
「わたし、参ります」
初めて、声が震えた。
「怖いけれど、参ります。とても恐ろしいけれど、わたしは信じます。サータム人は皆が皆アルヤ人を憎んでいるわけではないと。あなたのようにわたしを慮ってくれるサータム人もいるのだと信じます。それがアルヤ王国の王女の責務だと思います」
ここに自分の意思がある。
ただ布団にくるまって震えていただけの自分ではいたくない。
「あなたを信じます。サータム帝国の皇帝であるあなたを。その責務を果たされるであろうあなたを」
「つらくはありませんか。あなた個人がないがしろにされているとは思いませんか」
「わたし個人とアルヤ王国第一王女アナーヒタは不可分です」
こんなことを断言したのは初めてかもしれない。
「そして、わたしは――」
初めて、彼のほうを向いた。
彼の翠色の瞳が松明の炎に照らされて輝いていた。
「サータム帝国皇帝であるユースフ様をお慕いしています。それも、不可分です」
ユースフは黙ってアナーヒタを見つめていた。
どれくらいの時が過ぎたことだろう。
「お守りします」
彼は、はっきりと言った。
「どんなに恐ろしいことからでも。私があなたをお守りします」
心の強張りが溶けていく。
「ひとつ嘘をつきました」
「何をですか」
「陛下は婚約を破棄しないでくれとおおせになりました。今までに一度も見たことのない悲痛なお顔で。とても苦しまれていた様子ですが、それでもあなたを帝国に送り出したいとおっしゃったのです」
アナーヒタは「まあ」と微笑んだ。
「それはきっと父上様がわたしを信頼してくださっているからですわ。わたしが真の意味でサータム人やサータム帝国を憎悪することはないとお考えになったのですわ」
すべてが一本につながった。
「きっとそうですよ」
ユースフの手が、アナーヒタの手を握る。
「あなたには、サータム人のすべてを恐ろしいと言い切らないほどの強さがある、と。陛下はご判断されたのですよ」
誇らしかった。アナーヒタは胸を張った。
「ご心配なさらないでください。あなたが思うとおり、サータム人にもいろんな人間がいますよ。怖い人もいれば優しい人もいます」
「あなたみたいに?」
「そう言ってくださると嬉しいのですが」
やっと表情をくつろげることができた。もしかしたら微笑むことができていたかもしれない。ユースフも緊張を解いてくれたらしく、頬の強張りが溶けているように見えた。
「何に替えてでもあなたをお守りしてみせます。この世のすべての恐ろしいことから」
「ありがとうございます。でもわたしも強くなります。この世のすべてを恐ろしいとは思わなくなれるように」
ユースフは突然アナーヒタを抱き締めてきた。
ほんのわずかな時間のことで、それ以上のことは何にもない、口づけすらない清らかな抱擁だったけれど、アナーヒタは口から内臓が飛び出るかと思うくらい驚いたし、照れ臭かったし、そして、嬉しかった。
つい彼の肩に頬を寄せてしまったが、彼のほうが我に返ったのかすぐアナーヒタを引き剥がした。
「申し訳ございません、先走りました」
そう言い残すと、「では」と言って立ち上がった。
「ごきげんよう。おやすみなさい。お疲れの出ませんように」
アナーヒタも手の平を見せて「ごきげんよう」と返した。
彼が柱廊のほうへ歩いていく。
入れ違うようにスーリやホスローやヴァフラムが出てきた。三人が三人とも意地悪く微笑み「いい感じでしたね」と言ってきたので、アナーヒタはいまさら二人きりではなかったことを認識して赤面した。
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