第10話 サータム人のお父さんと、アルヤ人のお母さん 3

 父に「一緒に来い」と言われた時、アナーヒタは最初恐ろしいと思った。


 目の前で繰り広げられた剣戟、大人の男性たちの怒鳴り声、ホスローの流血、何より自分自身もアルヤ人という異教徒として罵られた。

 他ならぬ自分が攻撃を受けようとしていたのだ。

 怖かった。


 だからまず第一声「嫌です」と言ってしまった。今の今まで父の言いつけに背いたことはなかったのに、人生で初めての反抗だった。


 温厚で子供には甘い父のことだ。普段だったら聞き入れてくれただろう。場合によってはアナーヒタを抱き締めて安心させてくれたかもしれなかった。

 けれど今回に限って、ソウェイルは譲らなかった。


「カーヒルの存在を直視することが、アルヤの王族の務めであり、サータムの皇族の務めだから」


 真剣な目でそう言われて、アナーヒタは下唇を噛みながら頷いた。

 これが公人であるということだ。


 宮殿を出てよその国に嫁ぐ。

 父王に守られていたゆりかごを出て、広い社会に羽ばたく。


 自由と責任は表裏一体だ。


「承知いたしました。参ります」


 アナーヒタは布団から這い出て、ソウェイルに連れられてカーヒルに会いに行くことにした。




 カーヒルはタウリス城の北西にある地下牢に入れられていた。


 地下牢は入る前から嫌な場所であった。まず地下に通じる階段の地点で暗くてじめじめしている。薄気味悪い。


 ヴァフラムの明るい声が場違いに響いた。


「だぁいじょうぶですって、俺がついてますから! なぁんともないっすよ、そんな緊張しないで!」


 アナーヒタは微笑もうとして頬をひきつらせた。

 ヴァフラムのことは信頼している。彼以外にも兵士たちがいるし、片腕を負傷しているがホスローもいる。武術の面では頭数に入らないが、スーリもぴったり寄り添ってくれていた。そういう意味では心配していない。

 でも、ただただ、気分が悪い。


 ソウェイルはユースフも呼んだ。

 彼の前では気丈な娘でいたかったが、今のアナーヒタは繕えなかった。

 ユースフはそんなアナーヒタに声をかけなかった。彼が今何を思っているのか、アナーヒタにはわからない。

 気まずい。


 サータム帝国とアルヤ王国の間に、大きな溝がある。


 重い鉄の扉が開いた。ぎぃ、という嫌な音がした。


 こんなに広い地下空間があるとは知らなかった。


 錆びた鉄格子の臭いがする。換気されていないらしく空気が薄い。人間が長居するところではない。


 しかしカーヒルはアルヤ王を暗殺しようとした人間だ。裁くこともなく即日絞首刑になってしかるべきだった。こんなところでも生きてつながれているだけまだマシだろうか。それとも、すぐにでも殺されたほうがマシだろうか。


 牢の中には他に誰もいなかった。一番奥にカーヒルが放り込まれているだけで、今は他の罪人はいないらしい。

 ここはもとは政治犯を収容する場所だったのだそうだ。開かれた政治を目指し不敬罪を形骸化させたソウェイル王の治世で集会や言論を理由に投獄される人間はいない。


 奥の牢に向かう。


 突き当たりは一番広い部屋だった。けれど特に上等な設備があるわけではない。部屋の隅に用を足すための穴が開いているだけで布団すらもなかった。もちろん窓はない。兵士たちが持っている松明だけが灯りだった。


 牢の中で、カーヒルは向かって右側の壁に背中をつけて座り込んでいた。こちらを向こうとはしなかった。足音や話し声で人が近づいてきているのはわかっているだろうに、強情な男だ。


「カーヒル」


 ユースフが鉄格子をつかむ。


「どうしてこんな馬鹿なことを。こんなことのために苦労して近衛隊長まで上り詰めたのか」


 わざわざアルヤ語で言ったのは何の配慮だろうか。アナーヒタは苦いものを感じた。


 カーヒルはそっぽを向いたまま「そうです」と答えた。


「軍人として出世街道を行けば父の仇と直接戦う日が来るかもしれないと思っていたので、最初は将軍を目指しました。しかし十年前戦争がなくなってしまった。こうなっては皇帝陛下のお傍付きになってアルヤ王国にお出かけの際に随行するのが一番早いと思ったのです」


 ユースフが溜息をついた。自分の額を押さえる。


「この二十五年間、アルヤ王国にどうやって復讐するかばかり考えていました」


 カーヒルが淡々と述べる。


「父が死んだのはアルヤ王国の軍人になったからでした。アルヤ王国に近づかなければずっと家族でつつましく静かに暮らしていけるはずだった。母もです。母もアルヤ人でなければ火をつけられることはなかった。アルヤ人であることは罪なんですよ」


 疑問に思ったアナーヒタはぽつりと「火をつけられるとは?」と呟いてしまった。

 カーヒルがこちらを見た。目が合った。

 牙を剥くように、罵るように言われた。


「文字どおりの意味だ。油をかけて火をつけるんだ。生きながら焼かれて、全身に大火傷を負って、のたうち回りながら焼死するんだ」


 吐き気がする。

 スーリがアナーヒタの肩を抱きながら「なんてむごいことを」とこぼす。


「信仰を偽ったせいだ。太陽を崇めていなかったらそんな死に方をすることはなかった。邪教の人間はそうして浄化するしかないんだ。貴様らにとっても都合がいいんだろう? 太陽の生み出す炎は神聖なものなんじゃないのか」

「そんなわけあるか」


 そう言ったのはソウェイルだ。


「悲しい亡くなり方をしたな。バハルがいれば止められたんだろうか」

「そうだろうな。父さんだったら母さんを連れて逃げてくれたはずだ」

「バハルは優しかったもんな」


 ソウェイルがしゃがみ込み、座り込んだままのカーヒルを目線を合わせる。


「優しい人だった。今もおぼえてる。いつ話しかけても笑顔で応対してくれた」


 カーヒルの表情がゆがんだ。


「俺は内気で室内遊びが好きだったからあんまり一緒に何かしたっていう思い出はないけど、俺の弟とはよく取っ組み合って遊んでた」

「それが何だって?」

「まさか俺たちと年の近い息子がいるなんて知らなかった。教えてくれていたらみんなで知恵を絞ったのに」

「いまさら」

「そう。いまさらだ。今バハルの話をしても不毛なだけだ。だからこれからのことを考えるぞ」

「これから?」


 カーヒルの手が鉄格子をつかむ。

 腕の一本も通らないほどの狭い間隔で備え付けられた檻だ。彼の手がソウェイルに届くことはない。それでもヴァフラムが一歩前に出て剣の柄を握り締めた。ソウェイルが腕を伸ばして制した。


「俺はいつ処刑される? 今首を刎ねるのか? 明日? 明後日?」

「そう焦るな」

「残り少なくなったからと言って悔い改めて命乞いするなんて思うな」

「わかってる。でもその前にひとつ教えてくれ」

「嫌だと言ったら?」

「無視して聞く。答えたくなかったら聞き流せ」


 ソウェイルの目が、ちらりとこちらを向いた。正確にはアナーヒタではなくアナーヒタのすぐそばにいるスーリを見たようだった。目が合ったらしく、スーリが「私ですか」と呟いた。


「彼女を見て、自分の母親を思い出した?」


 カーヒルの目も、スーリのほうを見た。


 次の時、彼の顔がくしゃくしゃになった。

 今にも泣き出しそうだった。


「俺の母親も、西部訛りのアルヤ語を話した」


 声が、震えている。


「あんたと同じ口調で話してた。三十年近く前に死んだのに、久しぶりに母さんの声を聞いた気がした」


 スーリが自分の口元を手で覆った。ややして、彼女の瞳からぽろりと涙がこぼれた。


「泣くなよ」


 カーヒルの声から、力が抜けていく。


「もう殺してくれ。これ以上話したくない」


 今度はホスローが鉄格子に手を伸ばした。驚いたらしくカーヒルは目を丸くした。


「俺は助けてもらいました」


 真剣な声で、ホスローが訴えるように言う。


「俺のお袋はバハルさんに救われました。あの時俺がお袋の腹の中にいたって。そういうお袋をバハルさんはすごく気遣ってくれたって親父が言ってました」

「……やめろよ」

「俺に何かできることがあったら言ってください」

「ない」


 カーヒルの手が、鉄格子から離れる。


「何もない。いまさら何かしてくれたって、父さんは戻ってこない」


 そして、「でも」と付け足す。


「父さんが死んだ年に生まれた赤ん坊が普通の大人になってしまうくらいの年月が流れてしまったんだな」


 十八歳のアナーヒタには、二十五年の重みはわからなかった。想像を絶する。そんな長い期間うらみつらみを募らせて生きてきた人間に二十五年も生きていない自分たちが何を言えるだろう。


「……もう死なせてくれ」


 カーヒルは確かにアルヤ語を話している。


「もうやめたい。でもやめたら他に何もない」


 少しの間、その場にいた全員が沈黙した。


 最初に口を開いたのは、ソウェイルだった。


「何も起こらなかった」


 その瞳は、少なくともアナーヒタの目には、慈愛に満ちて見えた。


「あんたは今回の皇帝のタウリス行きについてこなかった。あんたは今帝都にいる。俺たちは会っていない。何の会話もしていない、誰もけがはしていないし、怖い思いはしていない。……それでいい」


 ユースフが「陛下」と語りかける。ソウェイルが「黙っていろ」と命令する。


「ですが――」

「俺が赦す。この国では俺が法だ」


 カーヒルが言った。


「それで感謝すると思っているのか?」


 ソウェイルは首を横に振った。


「二十五年――いや、バハルが将軍をやっていた期間もあわせると三十三年間か」


 落ち着いた、優しい声だった。


「申し訳なかった」


 カーヒルは両手で自分の両目を覆った。ややしてすすり泣く声が聞こえてきた。

 ソウェイルが踵を返して「もう行くぞ」と言うので、アルヤ人の一同は頷いて彼の後に続いた。


「ユースフ。お前もだ」

「しかし――」

「何度も言わせるな。何も起こらなかったんだ」


 ユースフが「ありがとうございます」と頭を下げた。





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