第9話 サータム人のお父さんと、アルヤ人のお母さん 2

 アナーヒタは目を真ん丸にして硬直した。


 ユースフの後ろからある男が駆け上がってきた。

 身なりのいい恰好からは彼が本来皇帝のそば近くに仕える将軍格の男であることを察せられた。帝国の上級武官のようだ。この場に同席を許されたということは近衛隊長かもしれない。

 そんな男が、腰の革帯に下げていた長剣を抜いてこちらに近づいてくる。


 時間が止まったかのように見えた。


 最初に反応したのはアナーヒタの一歩後ろにいたホスローだった。

 彼は迷うことなくアナーヒタとソウェイルの前に出た。


 左腕で男の剣を受け止めた。


 肉に刃がめり込む。

 深紅の血液が流れ出る。


 ホスローとほぼ同時にヴァフラムが駆けつけた。

 彼は横から男を蹴り、その場から退かせた。

 しかし男もこういう場に慣れているのだろうか対応が早かった。崩れた体勢をすぐに整えた。


 男が改めて剣を構える。


 ヴァフラムが腰に携えていた剣を抜いた。神剣の黄金の光があたりに散った。


 男の長剣とヴァフラムの神剣がぶつかった。


 金属音が鳴り響いた。


 剣だ。


 男の剣に血液がにじんでいる。

 ホスローの血だ。


 ソウェイルが呟くように言った。


「バハル……!」


 ヴァフラムの神剣が男の剣の力をわずかに払う。しかし男はすぐ剣を構え直す。


 また、刃と刃がかち合う。


 鉄の音。


 こわい。


 アナーヒタは喉の奥から悲鳴を振り絞った。


「姫」


 ホスローが何でもなかったかのような顔でアナーヒタを後ろに押しやる。


「下がってください。ここはヴァンがなんとかします」

「血が、血が――」

「大丈夫です、ちょっと切れただけです。切り落とされたとかじゃないからなんとかなります」


 ソウェイルがホスローの肩をつかむ。


「あいつバハルと同じ顔してる。もしかして――」

「もしかしなくてもそうだな。息子のカーヒルだ。ここで会ったが百年目だな」


 いつの間にかスーリがすぐそばまで来ていた。彼女も落ち着き払っているように見えた。夫であるホスローが怪我をしているというのに何でもない顔をしていて、強い力でアナーヒタの肩をつかんで控えの間のほうへ引きずっていこうとする。


「さ、姫様はこちらへ」


 でも恐怖で足が凍り付いていて何にもできない。


「カーヒル!!」


 ユースフが怒鳴る。


『どういうことだ!? どうしてお前がこんなことを』


 サータム語の声が響く。かろうじて聞き取れるが文脈がわからない。


『自分の務めを忘れたのか!』


 男が――カーヒルがヴァフラムと剣を合わせたまま主君である皇帝を怒鳴り返す。


『陛下はお恥ずかしくないのか!? このような辱めを受けて、これではまるで我々が二等国かのようではございませぬか』

『そのようなこと余が一度でも申したか! これは大陸のために必要なことだ、サータム帝国はアルヤ王国ととこしえのよしみを結ぶのだ! それが世界の平和であり神がまことに望まれるところで――』

『アルヤ民族は肥え太った豚だ!』


 カーヒルが叫ぶ。


『信頼するに値しない! こいつらは平気で異民族を踏みにじる邪教の豚だ!!』


 サータム帝国のほかの武官たちも剣を抜いた。ホスローや白軍兵士たちも剣を抜いて壇の下におりた。だが帝国の武官たちはアルヤ王国の武官のほうではなくカーヒルのほうへ向かった。カーヒルを止めるつもりのようだ。


『カーヒルを捕らえよ!』


 ユースフが号令した。帝国の武官たちが『応』と答えた。


 カーヒルがヴァフラムと剣を合わせたままユースフのほうを見る。


「おっと、ナメてもらっちゃ困るぜ」


 ヴァフラムがカーヒルの腹に蹴りを入れた。カーヒルが「ぐっ」と低くうめいた。


「あんたがバハルさんの息子か」


 カーヒルが一度歯を食いしばってから唸るように言う。


「その神剣」


 アナーヒタの予想に反して、カーヒルも流暢なアルヤ語を話した。


「貴様が次の黄将軍か」

「そうだ。黄将軍ヴァフラム。親しみを込めてヴァンちゃんって呼んでくれてもいいぜ」

「強いな」

「せっかくだからアルヤ王国で一番の剣士だと思ってくれ。大して役に立ちはしないけど」


 カーヒルが表情をゆがめて笑う。


「大陸最強はどうした。老いぼれたか。貴様が後を継いだのか?」


 ヴァフラムは「いや」と軽く首を横に振った。


「アルヤ王国はもう最強が必要ない時代になった」


 その言葉を聞いた途端、カーヒルは目を丸くした。


「あの人はもう将軍じゃない」

「どういう意味だ」

「将軍を辞めたがってたから辞めた。そして残った俺たちは好きで将軍をやってる」


 カーヒルが唇を引き結ぶ。


「俺は強いつもりだけど自分が最強かどうかを確かめる気はない。たぶんアルヤ王国の誰にもない。今はもう将軍は強くある必要すらない。やる気のあるなしだけだ」

「何を言って――」

「アルヤ王国はもう将軍になりたい奴が将軍になって将軍を辞めたい奴は将軍を辞める国になった。最強は去って、戦後に育った俺たちが残った」


 カーヒルの手が、止まった。


 ヴァフラムは彼らしくなく落ち着いた声音で、でも彼らしい優しい目で、続けた。


「あんたが恨んでるアルヤ王国はもうここにはない」


 カーヒルの手が震える。


 帝国の武官たちが走ってくる。王国の武官たちも向かってくる。

 ヴァフラムと向き合って突っ立っているだけのカーヒルに手が伸びる。


「……でも」


 カーヒルは剣を構え直した。


「ここで止まったら俺は何のために生きてきたんだよ……!」


 ヴァフラムが相手をしようとした。

 だがカーヒルはヴァフラムを見ていなかった。

 彼の目はまっすぐソウェイルのほうを向いていた。


「邪教の王!!」

「陛下っ」


 王国の兵士たちがソウェイルの周りを固めようとした。

 そこに、アナーヒタのそばにいたスーリも駆け寄っていこうとした。


「あかん」


 しかし、


「触らせへんわ」


 スーリがソウェイルの前に飛び出した、その時だった。


 カーヒルの手から、剣が、落ちた。


 カーヒルが、ひざまずいた。


 アナーヒタは自分の目を疑った。アナーヒタ以外の人間も、きっと王国側の人間も帝国側の人間も同じように混乱しただろう。


 カーヒルの目から、涙が溢れ出た。


「母さん」


 腕を伸ばした。


 膝立ちになったまま、スーリの腰に腕を回し、彼女の臍のあたりに顔を埋めた。


「母さん……」


 異様な光景だった。


 床が血に濡れ、剣が鈍く輝き、大勢の男たちが周りを取り囲む中、三十代も半ばを過ぎたサータム人の男が、二十代半ばで年下の若いアルヤ人の女にすがりついて、泣いている。


 嗚咽が聞こえてきた。


 スーリはしばらく戸惑っていたようだが、ややして、男の頭を撫でた。


「どうしたん。何がそんなに悲しいの」

「母さん」


 悲痛な声が、する。


「ごめんなさい」

「何謝ってるの……?」

「俺は母さんを守れなかった」


 誰も何も言わずに、見守っていた。


「本当に許せなかったのは自分で――」


 ここには、アナーヒタの知らない歴史があった。


「それでも、アルヤ人だった母さんが好きなんだ」





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