第7話 花嫁行列

 大陸でもっとも富める国アルヤ王国の唯一の王女の嫁入りだ。贅を凝らした行列になる、とは聞いていた。

 しかしアナーヒタは輿――四方をすだれに囲まれた金の屋形の中で震えていた。

 前後数百人ずつの付き人がらくだや馬の背に荷物を載せて練り歩いている。ちょうど中間地点の輿の中にいるアナーヒタからは先頭も最後尾も見えない。


 時折こっそりすだれを上げて外を見た。

 どこであっても沿道には花嫁行列を見物に来た農民たちがいて、輿が通りすぎる瞬間には頭を下げてアナーヒタを見送ってくれる。


 産まれてから一度も蒼宮殿を出たことがなかったアナーヒタがこんなに大勢の人間に注目されたことはない。


 しかし、こうして注目を浴びることも王女の務めだ。

 輿の中なので誰からも見えないはずだが、アナーヒタはときどき自主的に背中をただした。

 自分はアルヤ王家の威信を示すためにここにいるのだ。王にとって恥ずかしい娘であってはいけない。堂々としていなければならない。当たり前のものとして受け止めていなければならない。


 行列が止まった。


「姫様」


 外から声をかけられる。柔らかな女の声はスーリのものだ。


「お食事休憩のお時間です」


 アナーヒタが「はい」と答えると、輿が地面に下ろされる感じがした。まだ浮遊感に慣れないアナーヒタは自分の足が地についた気がして安心した。


 外からすだれを巻き上げられる。


 すぐそこにホスローが立っていて、手を差し出してくれた。


 この男は目つきの悪さやわざと乱された髪の印象に反して紳士だ。アナーヒタが輿の乗り降りをする時は必ず手伝ってくれるし、女官たちより細やかに荷物の上げ下げをしてくれた。


 遠慮なく彼の手を取る。力強く、それでも痛みを感じることのない程度に優しく引っ張ってくれる。アナーヒタは遠慮なく握り締めて地面に足をつけた。


 すぐそばにスーリも控えていて、彼女はアナーヒタの服の乱れを整えてくれた。


 行列はいつの間にかどこかの農村の中に入っていた。


 村の有力者の屋敷であろうか、目の前に大きな邸宅がある。

 門のところに家人一同が並んでいて、アナーヒタたちに向かって頭を下げている。


「この家でお食事を召し上がっていただくことになりました。で、その後は、暑い時間帯にございますから、日暮れまで一刻半ほど午睡の時間を取られるよう陛下から申しつけられております」


 こうして休み休みなので旅はなかなか進まない。タウリスまでの道のりは、成人男性が馬で行けば二週間程度の距離らしいが、今回の旅は一ヵ月程度が見込まれていた。


「父上様は?」

「陛下は村長の屋敷に行かれました。何か御伝言などございましたら今私が伺いますが」

「いえ、特には。お近くにいらっしゃることがわかれば何も」

「さようでございますか。大丈夫でございますよ。すぐお呼びできる距離におられますし、姫様には私たちがそばについておりますから」


 アナーヒタは嬉しくなってしまった。

 失礼かもしれないので口には出さずにいるが、スーリの言葉には訛りがある。言葉の上っ面こそエスファーナ方言でも、発音の仕方に独特の抑揚があるのだ。これが西部方言か、と思うと、中央の音に慣れたアナーヒタにとっては新鮮で、彼女が特別可愛らしく思えてくる。


 スーリが先導して屋敷の中に入っていく。


「ご安心くださいませね」


 後を追いかけつつ、アナーヒタは「はい」と頷いた。


 宮殿を出てからのこの数日の間で、アナーヒタはスーリ、ホスロー、そしてヴァフラムの三人をすっかり気に入ってしまった。三人とも気のいい大人で、今までアナーヒタの周りにはいなかった気質の人間だが、恐ろしいとはこれっぽちも思わなかった。


 礼を失しない程度に親しくしてくれるのがよかった。


 先日、父は彼らを「叔父や叔母だと思って接するように」と言っていた。

 父には血のつながった兄弟がない。リリも親類はみんな実家でアルヤ王国に嫁いで以来一度も会っていない。したがってアナーヒタには「叔父」や「叔母」の感覚がわからなかった。だが、父がそう言うのだから、きっとこんな感じなのだろう。親戚づきあいもいいものだ。


「お食事だけ俺らもご一緒してもいいっすかね。横になられるときは出ていきますんで」


 ヴァフラムがそう言ってきたので、アナーヒタは「喜んで」と返した。


 家の中に入ると涼しい前面開放広間イーワーンにすっかり食事の支度ができていて、あとは主賓のアナーヒタが座って食べるだけの状態になっていた。


 誰に言われずとも上座につく。その周りに、スーリ、ホスロー、ヴァフラムが陣取る。向かいに屋敷の主人が座り、王女を迎え入れることのできた栄誉にあずかって云々と口上を述べた。


 軽く挨拶をしてから、今日のために用意したという羊の肉団子を食べた。おいしい。


「たんと召し上がられませね」


 水を給仕しながらスーリが言う。


「ここでいただくのはこの村の特産品で一番贅沢な郷土料理なのですから」


 アナーヒタははっとした。

 この旅は、宮殿から出たことのなかったアナーヒタが王国内部を見学するための旅でもあるのだ。


「ありがとうございます」

「何がです?」

「わたしはぼんやりしていて大事なこともすぐ忘れてしまいます。あなたがこうして話をしてくださることで目が覚めることがあります」

「はあ、御過分なお言葉です。私は何もしてません。姫様が謙虚なお方でおられる」


 ホスローとヴァフラムが「うめえ、うめえ」とちょっと下品なエスファーナの下町言葉で話しながら食事をしている。それを微笑ましく思う。


「あと三週間もすれば、わたしは帝国の女になるのですものね。王国のことをよくおぼえておかなければ」

「よいお心がけです」


 脳裏にユースフの顔がよぎっていく。


 彼の妃になる。


 旅に出るまではただただ楽しみだった。

 でもここ最近、不安がどんどん増してくる。

 王国の王女として、王国を代表することとは――帝国の皇妃として帝国を代表することとは。

 何も考えていなかった自分が恥ずかしい。


 シャフルナーズのことを思い出した。


「スーリ」

「はい、何でございましょう」

「シャフラは大丈夫でしょうか」


 スーリが長い睫毛をしばたたかせる。


「シャフラさんが? 急に、どうしました?」

「いえ、王都を出る時、たいへん体調が悪そうにしていたので」


 正確には、精神的に、だろうか。顔色も良くなかったが、アナーヒタは彼女の異常な情緒不安定が目に焼き付いて離れなかった。鉄の女と呼ばれていた彼女があんなに泣くなど、妊娠すると女はどこか壊れてしまうものなのだろうか。


 スーリの表情が少し強張った気がした。アナーヒタは違和感を覚えた。けれどスーリが唇の端を持ち上げたままなので気にすることなく話を続けた。


「まあ、オルティさんがついてはるから大丈夫だと思います。つわりが収まったら落ち着くのか、生まれるまでああなのか、生まれてもしばらくはああなのか、は、ひとによるかと思いますが。陛下がこの旅にお出になっている間ずっとフォルザーニー家のお屋敷でお休みになられると聞いています」

「さようですか」


 肉の油で汚れた指先を水で軽く洗う。


「それが、どうしましたか?」

「思い出すとなんだか恐ろしくなってしまうのです。わたしも皇帝の妃になる以上は子を産まねばならぬ務めにあるのだろうと思いますので。妊娠出産とはどれだけ大変なことなのかと、いまさらになって考えるのです」


 スーリのほうを向く。


「スーリはホスローと結婚して何年になるのでしたっけ。子はあるのですか?」


 少し、間が開いた。その沈黙の意味がアナーヒタにはわからなかった。何か聞いてはいけないことを聞いただろうか。

 だがホスローとスーリは仲がいい。

 ソウェイルとリリも仲がいいほうだと思うが、ホスローとスーリといると本物の夫婦愛とは何なのか考えさせられる。

 常に寄り添い、何でも話をして、目と目を合わせ、時々笑い合う。

 そんな夫婦の姿を、アナーヒタは美しいと思った。

 こうでありたい。


 そんな二人なのだから、子供が二、三人いてもおかしくないと思ったのだ。


「……そうですね」


 スーリの声が震える。


「結婚して十年になりますけど――」

「あんま気にすることないっすよ」


 急にヴァフラムが割って入ってきたので、アナーヒタは彼のほうを向いた。

 口元に米をつけたまま、ヴァフラムは能天気な声で言った。


「うちのかみさん子供二人産んでるけどめちゃめちゃけろっとしてますよ。マジ個人差っすね。毎回俺が心配するだけ損してる」


 アナーヒタはふと息を吐いた。


「クバードの嫁は吐きすぎて妊娠する前より痩せたって話聞いてやべーなって思ったけど――」

「それは言わんでええわ、不安になるやろ」

「子作りなんて行き当たりばったりっすわ。今から心配してもしょうがない。嫁いでから考えてください」


 そして「子作りそのものは何にも替えがたいくらい楽しいっすよ」と付け足してホスローに「王女の前だぞ」と後頭部をはたかれた。アナーヒタは久しぶりに声を漏らして笑った。


「そう、あんまりご心配されなくても大丈夫です」


 ホスローが言う。


「万が一に備えて、陛下はユースフ帝の弟君を二人残しています」


 言い方にちょっと気になるものがあったが、その違和感の正体はアナーヒタにはわからなかった。とにかく、ユースフには弟が二人いるらしい。


「だから、もし姫様とユースフ帝の間にお子ができなくても、サータムの帝位は弟君が継がれます。御家の断絶とかは心配されずともよろしい」

「そうだったのですか。父上様ったら、そこまで気を回してくださったのですね」

「はい。あの人、姫様には甘い父親なんです」


 ホスローが穏やかに微笑むので、アナーヒタもなんとなく微笑みを返した。


 穏やかな午後を過ごす。


 アルヤ王国でこうしていられるのも、あと三週間だ。




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