第5話 18年分の清算

 旅立ちの日の前日、アナーヒタは意を決して後宮ハレムの西側の区域に向かった。


 これが最後の機会だ。今この時に決着をつけなかったらもう二度と会えない。


 清算しなければならない。

 この十八年間を整理して、何の憂いもなくこの国を出ていかなければならない。


 憂い、とは少し違うかもしれない。

 自分の中にある恐怖や不安と対決して、真の意味で大人になりたい。


 念のため信頼のおける女官を三人連れてきた。彼女らも、またリリやジャハンギルもやめておけと言ってきたが、アナーヒタはどうしてもこれを最後に片づけなければならないとかたくなに信じて出てきた。


 目指すは第一王妃の部屋――エカチェリーナの根城だ。


 角を曲がると、壁には油絵がかけられ、廊下の隅には猫足の台に透明な硝子ガラスの花瓶が置かれていた。小花柄の壁紙が貼られている。

 まるでここだけ遠い北国のようだった。ここだけアルヤ王国ではないかのようだった。


 怖い。


 物心がついてからは初めて立ち入る空間だ。こんな構造になっていることでさえ知らなかった。

 そのはずだった。

 自分は確かにここがどこかを知っている。自分はいつかわからぬ遠い過去にここで暮らしていたことを知っている。

 ふたをされた、封印された、絶対に思い出せないはずの小さかった頃の恐怖が、どこからともなく這いずり上がってくる。


 震える足を叱咤した。


 自分はアルヤ王国第一王女でありサータム帝国第一皇妃だ。恐れることなど何もない。

 それに、もし怖くなって逃げ帰ることになっても、自分には、行ける場所がある。


「アナーヒタ様」


 心配した女官が顔を覗き込んでくる。


「血の気が引いておられます。やはり無理することはないのでは」

「いいえ、何も言わないでください」


 拳を握り締めた。


「わたしにはなさねばならぬことがあるのです」


 やがて開けた空間に出た。


 百合の柄の入った重い窓掛けには金の房がついている。暖炉の前に脚の長い卓が置かれている。


 そして、卓の向こう側に、白い茶器で茶を飲んでいる女がいる。


 結い上げられた白金の髪、蒼白い肌、裾広がりの衣装――この部屋の氷の女王エカチェリーナだ。


 彼女はその氷色の瞳でアナーヒタを見た。それだけでアナーヒタは射すくめられたように足が動かなくなる。


「何か御用ですか」


 感情の揺れ動きのない、誰に対してもそう問いかけているのであろうとうかがい知れる声と言葉で尋ねてきた。


 アナーヒタは一瞬悩んだ。


 自分の、高い鼻、奥まった目、何より長い白金の髪は、そっくりそのまま彼女から受け継いだものだった。


 この女が、自分を産んだ女だ。


 はたして、母と呼ぶべきか否か。


「……エカチェリーナ様」


 結局、アナーヒタはそう呼びかけた。自分にとっての母親は、リリただ一人だ。


「わたしが結婚することになったのはご存知でしょうか」


 震える声で、だが最大限丁寧な言葉遣いで言う。


「いいえ」


 そう答えながらも、やはり、彼女の表情は動かなかった。

 父は彼女には何も言っていないのだ。それがこの世のすべての解であるように思われた。


「おめでとうございます」

「明日発ちます」

「そうですか」

「どこへ、かは、お聞きにならないのですか」


 エカチェリーナが目を細めた。


「聞いたほうがよいのですか」


 その瞬間、アナーヒタはやっと割り切れた。

 この女には何を言っても無駄だ。


「結構です。興味をお持ちになられましたら父上様にお尋ねください」

「あら、そう」

「お邪魔致しました。そのご報告だけでしたので、これにて失礼致します」

「はい」


 アナーヒタが軽く頭を下げると、彼女はこう言った。


さようならダスヴィダーニャ


 アナーヒタは、力強く、アルヤ語で返した。


さようならホダーハーフェズ


 もうあの女が自分の母親かもしれないと思い悩むことはない。彼女も一応自分が産んだものとして自分に愛情を抱いているかもしれないという幻想を考慮する必要はないのだ。


 悲しくはなかった。

 すっきりした。

 自分にとっての家族は、父ソウェイル、母リリ、三人の弟たち、そしてこれから家族になるユースフだけでいいのだ。






 その日の夜、ソウェイルがエカチェリーナを訪ねた。


 エカチェリーナは露台バルコニーで月を眺めていた。


「そばに行ってもいいか」


 ソウェイルがそう尋ねると、エカチェリーナは首を横にも縦にも振らずに答えた。


「私が何と言おうとも貴方はそばに来るのでしょう」


 ソウェイルが苦笑する。


「バレたか」


 二人が並んで露台バルコニーに立つ。


「陛下は図々しくなられました」

「大人になったと言ってほしい」

「今まで私を恐れて近寄りもしなかったのに、今日になって急にこんなふうにお越しになる」

「いろいろと思うところがあるんじゃないかと思って話を聞きに来たんだ」

「何もございませんよ」

「本当に?」


 エカチェリーナがソウェイルのほうを向くと、ソウェイルもエカチェリーナのほうを見ていたので、二人の目が合った。


「アナがあなたを訪ねてきたと聞いた。あの子がそんな気合の入ったことをするとは思っていなかった。もっと気弱であなたにおびえたままなのかと思っていたけど、強気に出たな」

「そうですね。今朝、あの子が私のもとを訪ねてきました」

「アナは――あなたの前ではアナスタシアと呼んだほうがいい?」


 エカチェリーナが目を細める。


「こだわりはありません」

「そうか? あなたがつけた名前だ」

「今は皆様あの子をアナーヒタと呼んでいると聞きました」

「話は聞いているんだな」

「いろんな者が私に告げ口をしに来ます」


 視線を前に――月に戻す。


「ですが、興味をもてないのです」


 彼女の声は淡々としている。


「誰も彼も口さがなく言います。あなたの姫君なのに、あの女に奪われて。あの子とともに政治の実権をすべてあの女に握られてしまったと。あの子を取り返して、自分の娘として教育し直すべきだと。そして政治の実権も改めて握るべきだと。それができない私を臆病者だとそしる者もあります」


 ソウェイルは首を横に振った。


「苦痛だっただろう。もっと早く言ってくれれば俺が対応したのに」

「いいえ、別に」


 少し間が開く。


「私はおかしいのですよ」


 ぽつりと、彼女はこぼした。


「私は本当に、情というものがない女なのです。自分で産んだ我が子だというのに、あの子を愛しいと思えない。何か欠落した女なのでしょう。それに、陰口を叩かれても、正面を切って罵られても、私の心は動きません。私は人並みに傷ついているのでしょうか? それすらわかりません」

「カーチャ……」

「私は普通の人間のように物事に感動できない自分を欠陥品のように思います。情というものがまるでない。そのような自分を恐ろしいと思えたらどんなによかったことか。周りからひとが減っていっても、その先どう嘆いたらいいのかまったく想像がつかないのです」


 また、少しの間、二人は沈黙した。


「――益体もないことを言いました」

「いや。聞かせてくれて嬉しい。ありがとう」

「そうですか。恐ろしい女だと思いませんでしたか」

「もっと早く相談してくれたら嬉しかったな、とは思う」


 ソウェイルは「まあいい」と答えた。


「あの子を盾に権力を握れば父は喜ぶかと思いましたが、あの女が男の子を産んだので、それまで。もう誰も私には用事はないし、私も誰にも用事はない。――それが私にとってこの十数年のすべてでした」

「俺はそんなに長い間あなたをそのままにしてしまったんだな」

「はい。そうなのです。ですがそれだけです。そこに大きな意味はないのですよ。いまさら貴方を責めても何にもなりません。私ももうあの娘に興味をもてないのですし、どうしようもない」


 ソウェイルの腕が伸びた。

 エカチェリーナの肩を抱いた。


「冷たい母親ですね」

「いろんな母親がいるものだ」

「私も誰かを愛してみたかったです。そうしたら変われたのかもしれません」

「別に変わる必要はないと思うけど。そうならそうで、そういう対応をするだけだから」

「どういう対応ですか。追放しますか」

「いや」


 彼は首を横に振った。


「今度こそ。今なら。もう一度、俺があなたと話をしてみたい」

「……」

「明日から、少しの間、宮殿を留守にする。アナーヒタを帝国に送ってやりたいんだ。帰ってきたら、あなたともう一度会話をさせてほしい。どうすればあなたが生きやすくなるのか、一緒に考えよう」


 エカチェリーナは「わかりました」とだけ答えた。





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