第4話 歴史の転換点

 父と二人で柱廊を歩く。

 こうして肩を並べて行動するのなどいつくらいぶりだろう。


 いつからかアナーヒタは後宮ハレムでただ座って待つだけの女になっていた。それがおしとやかで奥ゆかしいということだと思っていた。


 否、今でも思っている。


 女官たちや乳母からそういう古い価値観を刷り込まれたから、ということもあるかもしれない。

 けれどどちらかといえば、アナーヒタ自身が自分の派手な容姿を嫌ってできる限り目立たないように振る舞ってきたから、のほうが強いかもしれない。

 それはリリやシャフルナーズといった新しい女たちが打ち壊してきた女の姿だ。彼女らの娘である自分がこんな態度なのは時代に逆行することであり申し訳なくもある。


 強くなりたい。


 金の髪に翠の瞳の彼を思う。


 金の髪を誇れる自分になりたい。


「アナ」


 優しい声で愛称を呼ばれた。こういう呼び方をするのはこの世でただ一人、父ソウェイルだけだ。


 顔を上げ、背の高い父の顔を見上げる。

 彼は少し楽しそうに微笑んでいた。


「ユースフはどんな印象だった?」


 照れくさくて、アナーヒタは目を逸らした。しばし無言で歩き続ける。


「優しそうな方ですね」

「そう。気が優しい。優しすぎて少し押しに弱いところもあって心配だったけど、最近はちゃんと自己主張もできるようになってきた」

「品のいい方でした」

「小さい頃は荒れ放題の宮殿にいたっていうんでちょっと心配だったんだけどな。でも教育はちゃんと行き届いている。それから、俺はこういうのはあまり好きじゃないんだけど、血筋もな。血統がいいから、諸外国に変な言いがかりをつけられる心配はない。本当は、そういうのは自力で跳ねのけてほしいんだけど、まあ、しなくてもいい苦労ならしないほうがいい」

「アルヤ王国に好意的なようで安心します」

「それは、そう。そうなんだ」


 ソウェイルが小さく笑う。


「でもいいんだ、何も知らないで放り出されるよりは。俺は、ユースフが即位した年頃には、王国が帝国の植民地だったけど、帝国から来た総督たちにそれなりのしつけを受けた。お返しした。それだけだ」


 アナーヒタは反応に困った。少し間をおいてから、おそるおそる問いかけた。


「父上様は、サータム帝国がお好きですか」


 ソウェイルは即答しなかった。ゆっくりとした口調で、曖昧な言い方をした。


「好きか嫌いかで言ったら、好きじゃないんだろうな。サータム帝国との戦争で俺はすごく大勢大切な人を失った」

「そうですか」

「でも、親身に世話をしてくれたサータム人もいた。それに戦争の後に大人になったユースフたち若者には関係ない」

「そう……なのですか?」

「王国も変わっていくし、帝国も変わっていく。一瞬一瞬の関係は本当に一瞬一瞬のものでしかないし、一人一人の関係は本当に一人一人のものでしかない」

「そういうものですか」


 父の言葉は勉強になる。噛み締めるように聞きながら、アナーヒタは頷いた。


「これからも変わっていく」


 父の目が前を向いた。

 口元は笑っているが、蒼い瞳は真剣そのものだ。


「その流れに、アナに加わってほしい」


 とうとうこの時が来た。


「ユースフと結婚してくれないか」


 唇を引き結び、息を飲む。


「帝国と王国はこの何十年も対等な関係じゃなかった。いや、何十年どころか、もしかしたら何百年も、大陸で覇を競い合ってきた」


 一音一音確かめるように語る。


「それを、俺は俺の時代で変える」


 アナーヒタも高揚する。


「俺が育ててきたユースフと、俺が育ててきたアナーヒタが、結婚する。しかも帝国より優位にあった王国側からあえて王女を差し出すことになる。これが歴史の転換点だ」


 その瞬間を、何百万、もしかしたら何千万もの民が待っているに違いない。


「俺はこの婚姻を機に帝国と平等な条約を結び直すつもりだ。両国が対等な立場で政治をし、経済を回す。これから先、この大陸に何が起こってもいいように。何かが起こった時、帝国と王国が手を取り合って課題に向き合えるように」


 そこで、ソウェイルは突然立ち止まった。


「でも」


 アナーヒタも立ち止まり、改めてソウェイルの顔を見た。

 優しい、父の顔だった。


「お前が嫌なら考え直す。俺はこの国を結婚したくない女の子をむりやり結婚させる国にしたくない」


 そんな父が、アナーヒタは好きだ。


 はっきりと答えた。


「お受けします」

「本当に? 本心から言っている? リリがよく言うみたいに、王女だから国のためになんたらかんたら、ではなく?」

「いいえ。優しそうで、上品で、アルヤ人であるわたしに親切にしてくださいそうだからです」


 ソウェイルがゆっくり息を吐いた。

 アナーヒタは、無言で大きく、頷いた。


 次の時だ。


 蒼い袖をまとった腕が、伸びてきた。


 強く、強く、抱き締められた。

 ほのかに香る、優しい父の匂いがした。


「よかった」


 後頭部を撫でられる。


「幸せになってほしい」




「――ということになりました」


 後宮ハレムに帰ってまず、アナーヒタはリリの部屋に直行した。ソウェイルは後宮ハレムの手前にある王の間で着替えてから来るというので、とりあえず一人で自分からリリに話をすることにしたのだ。


 案の定リリは知っていたようで、大して驚きはしなかった。ソウェイルとリリはこういうところでも深く通じ合っている。父がしようとしていることをこの養母が把握していないはずがない。


 リリは脇息にもたれたままアナーヒタの顔をまっすぐ見つめ続けていた。アナーヒタが話している間、ずっと、だ。

 だがアナーヒタはいつものように視線を逸らすことはしなかった。見つめられることを受け入れ、背筋を伸ばして話し続けた。


 自分は嫁いでいく身だ。

 大人になったのだ。


 まだ正式な婚約も済んでいないのに、アナーヒタの気持ちはすっかりサータム帝国皇妃で、ユースフに迷惑をかけないような振る舞いでなければならない、と思うようになっていた。


 朝と今とのほんの数刻の間にとんでもない変わりようだが、リリは笑わないでくれた。


「まあ、よい」


 アナーヒタが話し終えたところで、リリがようやく口を開く。


「そなたは王女である。親の望むところに輿入れするのが道理というもの。わらわはそのためにおなごを育てたいと思っていたのだ。わらわの名代として輿入れさせるために、だ」


 上っ面だけ聞くと王が言ったことをすべて引っ繰り返すような物言いだが、わかっていたのでアナーヒタは反発心を覚えなかった。

 言葉尻こそこうでも、リリが言いたいのは望まぬ政略結婚をせよということではないと思う。きっと、大陸の女王たる彼女の威光を利用して、堂々と政治の世界を歩め、ということだと思うのだ。それが今のご時世に女の身で戦うということだ。


 自分は強い女に育てられた。

 強い女になりたい。


 リリが、はあ、と息を吐く。


「しかし、遠いな」

「何がでございましょう」

「サータム帝国の帝都が、だ」


 アナーヒタはまたたきをした。


「わざわざ帝国なんぞに貴重な姫を嫁がせぬでも、王国のここらの高官に降嫁させてもよかったのではあるまいか。何せこの国より富める国などないのだ、卑屈になって王女を捧げ奉る必要などない」


 思わず小さく笑ってしまった。


「わたしが遠くに行くことを、母上様は寂しく思ってくださいますか」

「当然であろう」


 それでも彼女は堂々としている。


「近う寄れ」


 そう言われて、アナーヒタは膝立ちをして彼女のそばに移動した。


 白く華奢な手が伸びる。

 長く伸ばした爪で肌を傷つけないよう、指の腹で優しく揉むようにアナーヒタの頬を撫でる。


「知っておるか。帝国の皇帝は正室をもたぬのだそうだ」

「えっ」


 つい声を上げてしまった。


「そうでなければ正室の親戚が強大な発言力を持つからだ。そなたもこの国で感じておろう、わらわの実家とあのロジーナ女の実家がどれほどこの国の政治に口を出してきたかを。帝国はそういうことを避けるために代々正妃をもたずにおったと聞いた。帝国の後宮ハレムはそれはそれは多くの側女を囲い込んで皆奴隷のように扱ってきたのだ」


 てっきり自分は第一皇妃として、つまり正妃として迎えられるものだと思っていたのだ。いまさら動揺してしまう。他の妻たちと一緒くたに扱われるのか。


 どうやら違うらしい。


 リリが意地悪く笑う。


「そこをソウェイルが捻じ曲げてくれる気のようだぞ。ユースフにはそなたを正式な第一皇妃として迎えさせ、そなたのほかに妃をもたせぬと。そなただけがこの時代で唯一絶対の皇妃になるのだ」


 頬が熱くなるのを感じた。


「そなた一人が寵愛を受けられるようにな」


 なんという親馬鹿か。

 だがこれほどありがたいこともない。自分は夫に他の女と比べられることなく生きることができる。


「満足かえ?」


 問われて、アナーヒタは無言で頷いた。

 リリがまた笑う。


「わらわはそなたの幸福を望んでおる。遠く離れても母は永遠にそなたの母ぞ。たまには文を書いてよこすのだ。よいな」

「はい!」




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