第3話 小川がさらさらと流れるこの世の楽園

 正月ノウルーズ初日の儀式は、アナーヒタは講堂の二階席から十神剣を眺めているだけで終わってしまった。

 一応何人か高貴な身分の夫人と挨拶を交わした。けれど誰が未来の姑なのかはついぞわからぬままだった。リリがずっとそばにいたが、彼女は何も言わなかった。


 途中でシャフルナーズが様子を見に来てくれた。彼女は宰相として公的にも男たちと伍する存在だが、女性の身であることをうまく利用してこういう場にもたまに潜り込んでくる。


「陛下からアナーヒタ殿下に御伝言をお預かりしております」


 彼女はいつもと変わらぬ感情のない声と顔で言った。


「儀式が終わってもすぐに後宮ハレムに戻られませんよう。あちらの――」


 講堂の窓の向こう側すぐそこ、南の中庭のほうを見る。


「あの庭のどこか日陰になるところで休んでお待ちくださいますよう」


 アナーヒタは高揚するのを感じた。

 とうとう父から直接お言葉を賜るのだ。きっと結婚についてに違いあるまい。


「承知致しましたとお伝えください。どこか柱の陰でお待ちしております」


 そう答えると、シャフルナーズは軽く頭を下げて階段をおりていった。




 アナーヒタにとって父ソウェイルは偉大な存在だ。太陽であり、神であり、大陸に名だたる王である。


 誰かにそうと言い聞かせられたわけではない。

 ソウェイルとアナーヒタの関係には、リリは口を出さなかった。

 リリの産んだ三人の弟たちはソウェイルを普通の父親だと思って気安く接するので、姉のアナーヒタは冷や汗をかかされることもしばしばだ。三兄弟にとってはただの親だというのに、自分だけが彼を崇拝している。


 ひょっとしたら、精神的に距離が遠いからかもしれない。異性の親だからだろうか。

 そういえば、一人だけ女の子のアナーヒタは公務に出たことがない。したがって父との接点はさほど多くない。だからこそ、彼を人間としてではなく何かとてつもなく大きな存在として認識しているのかもしれなかった。


 父に声をかけられるのが嬉しい。自分が選ばれた特別な存在であるような気がしてくる。本来後宮ハレムで埋もれ時が来たら嫁ぐだけの王女に目をかけてくれる王はありがたい父親だ。


 大小五つの噴水のひとつ、講堂から見て右側の噴水の近くにある柱のそばに腰をかける。


 アルヤ高原は乾燥しているので、日向は多少暑くても日陰は涼しく過ごしやすい。まして宮殿には贅沢なほどに流水が使われ、柱のすぐそばにもアナーヒタの足が入るくらいの幅の水路がある。この世の楽園とはよく言ったものだ。


 屋根の下から太陽を見上げる。まぶしい。眼球が焼け焦げそうだ。しかしあれこそが偉大なる父の象徴で、空が蒼いのは太陽が蒼いからなのだ。


 まぶしさに耐えかねて視線を落とす。小川がさらさらと流れている。


こんにちはサラーム


 不意に声をかけられた。若い男性の声だった。


 アナーヒタは顔を上げ、声のしたほう、講堂のほうを向いた。


 そこにサータム風の服装をした青年が立っていた。

 丈の短い胴着ベストに筒袴、腰の帯には短剣ジャンビーヤをさげている。頭はしっかりとした丸いターバンで覆われていた。肌は日に焼けている。一見すると細身だが、しっかりした首や大きくごつごつとした手から彼も武術を修めていることがうかがい知れた。


 肌の日焼けも、外で運動してきたからかもしれない。


 いでたちこそサータム人だが、アナーヒタは彼の顔立ちに違和感を覚えた。


 高い鼻筋、奥まったまぶた、そして何より瞳は翠色をしている。


「あなたがアナーヒタ王女でいらっしゃいますか」


 彼は流暢なアルヤ語を話した。アナーヒタも教養としてサータム語を学んでいたが、実践の場で使ったことはないのでありがたい。


 彼は自分が何者であるかを知っている。


 何か用事があるのかもしれない。


 アナーヒタは立ち上がった。座ったまま向かい合うのは失礼だと思ったからだ。


「どうぞこちらにおいでになって。そちらは暑いでしょう。焼けてしまいます」


 アルヤ人の高貴な姫君らしく最大限余裕ぶって言った。内心は緊張で爆発しそうであった。何せアナーヒタは女だらけの後宮ハレム育ちで男性と接する機会はない。せいぜい衛兵である白軍兵士と挨拶をする程度で、父や弟以外の男性と一対一になった経験はないのだ。もしかしたら声は震えていたかもしれない。


 彼がまじまじとアナーヒタを見つめているので、何か失敗しただろうかと不安になる。早く何かするなり言うなりしてほしい。


「では、失礼致します」


 ややしてから、彼はゆっくり近づいてきた。

 柱の陰に入る。

 そして、アナーヒタと歩幅三歩分開けたところで立ち止まる。


 節度、というものが頭に浮かんだ。

 若い男女が二人きりで並んでいるのははしたない。

 自分で言っておきながら、アナーヒタは恥ずかしくなって縮こまった。


 二人揃って噴水のほうを見る。沈黙が重たい。


「何かわたしにご用だったのではございませんか」


 おそるおそる尋ねると、彼は「いえ」と答えた。


「ソウェイル王がここに行くようにとおおせになられました。王女殿下がいらっしゃることは存じ上げませんでした」

「父上様からご用が?」

「さあ。ソウェイル王は深謀遠慮のお方ですから、私のような若輩者にはわかりかねるところがあります」


 アナーヒタはつい笑ってしまった。確かに、父には何を考えているのかわからないところがある。それをこうも婉曲的で美しい言い方で表現できるこの青年を頼もしく思った。


「お名前をうかがってもよろしいでしょうか」


 そう問いかけると、彼がアナーヒタのほうを見た。


 目が合った。


 不思議な翠色の瞳をしている。


 サータム人みたいな恰好で、西方系の顔立ちをしている。


「私はユースフと申します」


 聞いたことのある名前だった。アナーヒタは驚きのあまり両手の指を開いた。


「サータム帝国第二十七代皇帝です」


 小川がさらさらと流れている。


 しばらくの間、言葉を失っていた。


「……お若いのですね」


 言うに事を欠いてそんなことを言った。


「二十歳です」


 彼――ユースフは明るい声で答えてくれた。


「十年前、十歳の時に、ソウェイル王のお力をお借りして皇帝に即位しました。私がこのような身分にあるのはすべてアルヤ王ソウェイル陛下のおかげです。偉大なるソウェイル王に神のご加護があらんことを」


 十年前というとアナーヒタは当時八歳なので細かいことは思い出せないが、確かに父はサータム帝国相手に独立戦争を繰り広げていた。結果としてサータム皇帝は敗戦処理に恐れをなして逃亡したと聞いている。その後釜に父は自分にとって都合のいい子供を据えたわけだ。


 これが自分の父親でなかったら恐ろしいと思ったところだろう。だが、父の尽力の結果、我らがアルヤ王国が親アルヤ派の皇帝とよしみを結んだことになる。それも自分の傀儡にできるわずか十歳の幼い皇帝だ。実質的に帝国は王国の支配下にあったのだ。


 しかしそれをユースフが憂えている様子はない。彼はただ純粋にアルヤ王を慕っているように見える。


 サータム人の神は異教の神であるところのアルヤ王に加護を与えてくれるものだろうか。


 自分は面白い時代に生きている。


「――驚かれませんでしたか」


 アナーヒタは自分の頭を覆う布を持ち上げた。さすがに頭全体をさらすのは破廉恥なので避けたが、金の髪がこぼれ出た。


「わたしは父にはまったく似ていないのです。ご幼少のみぎりは邪悪なほどの美少年と謳われた父に似ていれば多少は美しく育ったかと思うのですが……しかもご覧のとおり、こんな派手な色の髪で」


 すると彼は苦笑した。

 そして、自分のターバンに手を伸ばした。


 固く巻かれていたターバンをするすると解く。

 出てきたのはアナーヒタの白金の髪より少し濃い、だがやはり金としか言いようのない髪だった。


「私も同じです」


 金の髪を掻く。


「サータム帝国では、後宮ハレムには西洋の女を入れるものなのです。サータム人である父方の血はどんどん薄まっていきました」


 アナーヒタは嬉しくなった。

 けれど同時に、申し訳なくなった。

 自分が自分の髪を派手な色だと思っているということがすなわち、彼の髪の色をも派手だと言っているということにもつながる。


「申し訳ございません、わたしったら何も知らずに無礼なことを」

「いいえ、あなたは黒髪のアルヤ人の間でお育ちになられたのでしょうから」

「あなたもでしょうか? あなたも黒髪のサータム人に育てられたのですか」

「はい、そのとおりです」


 それでも、彼はアナーヒタに微笑んでくれた。


「もう、ご自身を卑下するようなことはおおせにならないでください。あなたは十分魅力的な方です。あなたが貶められると私が悲しい」


 講堂のほうから近づいてくる人影があった。蒼い髪は見間違えようもない、ソウェイルのものだ。アナーヒタは思わず「あ」と呟いてしまった。ユースフも振り返ってソウェイルのほうを見る。


「少しは会話できたか?」


 ソウェイルが尋ねてきたので、ユースフが「はい」と答えた。

 途端、恥ずかしくなってきた。

 自分は年の近い男性と一対一で会話をしていたのだ。はしたない。

 しかしソウェイルはそんなアナーヒタをなじらないでくれた。


「俺はこれからアナーヒタを後宮ハレムに送る。ユースフは先ほどの控えの間に戻るように」


 彼は端的にそう命令した。ユースフは素直に「承知しました」と言い、軽く頭を下げてから南のほうへ歩き出した。





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