第2話 生みの母、育ての母
しゃん、しゃん、と規則的な音がする。金属の装飾品がぶつかる音だ。
アナーヒタは恍惚の息を吐いた。
まっすぐの長い黒髪は高く結い上げられ、艶やかに輝いている。その豊かな髪に六本の金の挿し櫛が取り付けられている。音の発信源はこの挿し櫛からぶら下がっている無数の金の房だ。
濃き緋に染められた絹の衣装には金糸で龍の刺繍が施されている。鬱金色の帯には紅の花のついた枝の刺繍が施されている。
首元には挿し櫛と同じ金の首飾りが下がっていて、大粒の
豪奢に飾り立てられたその身はアルヤ王家の財の豊かさを象徴していた。
象牙色の肌には薄く
切れ長の目、黒く長い睫毛に黒曜石の瞳は、目が合うだけで相手を威圧する。
彼女が廊下を歩くだけで、誰もが彼女にひれ伏す。
圧倒的な、存在感。圧倒的な、威光。
第二王妃リリ――アルヤ王国最強の女だ。
アナーヒタも彼女が通りすぎるのを頭を下げて見送ろうとしたが、彼女も列の最後に並ぶアナーヒタの姿に気づいたらしい。その黒い瞳でアナーヒタの姿をとらえた。
「アナーヒタ、そなた何をしておる。ともに参れ」
おゆるしが出た。
アナーヒタは「はい」と頷いて彼女の後ろを歩き始めた。
いよいよ
彼女はけして
彼女の養女として育ったアナーヒタは、年に一度のこの行事が好きだった。
アナーヒタにとってこの養母は父王に次ぐ強大な保護者であり、また見習おうにもけして追いつけない偉大な母であった。
大陸にその名を轟かす女王として彼女は完璧だ。
そんな彼女を宮殿に集う女たちに見せつける。こんな機会はそうそうない。
国中の高貴な女たちが彼女にひれ伏すのを見ることができる。
自分のことではないながらも、アナーヒタはゆがんだ充足感を得ることができた。
「地味な装いよの」
彼女は斜め後ろのアナーヒタをちらりと見やった。
「このような晴れの日は華やかな服を着て金銀を身に着けよと言うておる」
「申し訳ございません。ですがわたしが金のかかる女だと思われたくございませんので」
「誰にぞ」
「その……」
口ごもり、小声で答える。
「未来の姑に」
リリが声を上げて笑った。
「王女ひとり飾り立てられぬ甲斐性なしの家になどゆかぬでよい」
こんなことを言えるのはこの世でただひとり彼女だけだ。
「そなたはアルヤ王国の王女。わらわの娘ぞ。わらわの名代としてゆくのだということをゆめゆめ忘れることのなきようにな」
そう言われて、アナーヒタは慌てて背筋をただした。
自分はあくまでリリの娘として嫁ぐのだ。彼女の顔に泥を塗るようなことがあってはならない。
しっかりしなければ、と自分に言い聞かせる。
高貴な身分の人間の結婚は政治行為だ。自分は夫と政治的な交渉をするために嫁に行くのだ。父母の権威を笠に着てのうのうと夫にのぼせあがってはならない。
アナーヒタは夫に愛されることを望んでいた。父の選んだ男性とならそういう関係になれる自信もある。だが、最低限、アルヤ王家の威信を背負っているという意識は忘れてはならない。まして自分はこのリリに育てられた女で、自分の背後にはリリがいるということを大陸中の人間が知っている。
リリの娘と知って無体をはたらくような愚か者はいないだろうが――
そんなことを考えていた時だった。
廊下の奥に、さらに奥のほうへ向かって歩いていく女たちの群れの姿が見えた。
アナーヒタは胸の奥が冷えていくのを覚えた。
ほとんど黒と見まごうほどの紺の衣装は床に引きずるほど長く、女官が裾をつかんで持ち上げて歩いている。高めに作られた襟、飾り紐を縫い付けられた縁からは死体のように蒼白い肌が覗いていた。結い上げられた白金の髪に、衣装と同じく紺の小さな帽子をのせている。
リリが立ち止まった。
「どこへゆかれる?」
向こうも、立ち止まった。
「そちらは
女が、振り返った。
高い鼻、彫りの深い二重まぶた、そして、背中が凍てつくほど冷たい氷色の瞳が見えた。
アナーヒタは寒気がするのを覚えた。
こわい。
「
第一王妃エカチェリーナだ。
その氷色の瞳を見るだけで足がすくむ。息苦しい。背筋が冷える。手が震える。
そんなアナーヒタに気づいたのか、リリは一歩下がってアナーヒタの背中を撫でた。長く伸ばされた赤い爪を器用に持ち上げ、手の平だけで優しく触れる。
「私は結構です」
エカチェリーナは感情のない平坦な声で言った。
「ご遠慮致します。自分の部屋に引っ込ませていただきます」
「そうおおせになりますな。アルヤ王の第一王妃は貴女様でございまするぞ」
「心にもないことはおっしゃらないことです」
リリの言葉に、エカチェリーナは細く息を吐いた。呆れだろうか。それにしても感情の動きの少ない女だ。
「私は貴女の権威を傷つけませんよ。どうぞお好きになさって」
それだけ吐き捨てるように言うと、彼女は踵を返し、ロジーナ語で自分の女官たちに何かを告げた。
歩き出す。背中が遠くなっていく。
たったそれだけのことだ。ほんのわずかな時間のことだった。
それでも、アナーヒタは汗をかいた。
震えが止まらない。
どうしてこんなに恐ろしいのだろう。
あの女が自分の生みの母であるのに、どうしてここまで彼女を恐れなければならないのだろう。
自分は彼女に声をかけられなかった。
彼女もまた、自分に声をかけてこなかった。
今日もだ。
昨日も、一昨日も、昨年も、一昨年も、だ。
アナーヒタには彼女に声をかけてもらった記憶がない。
自分の娘ではないのか。
生き写しの顔をしているというのに、彼女は何も感じないのか。
だが声をかけられてもアナーヒタには何も言えないだろう。
なぜかわからないが、彼女のあの氷色の瞳で見つめられると全身が震える。
「アナーヒタよ」
リリが耳元で囁いた。
「何も考えるでない。そなたはわらわの娘ぞ。わらわのことだけ見ておればよい」
その言葉に、安堵のあまり全身の力が抜ける。
へたり込み、座り込んだアナーヒタに、女官たちが慌てて「お気を確かに」「しっかりなさいませ」と言って群がってきた。
リリはそんなアナーヒタを感情の読めない瞳で見つめていたが、アナーヒタはリリのことは恐ろしいと思わなかった。
「あのロジーナ女、今年の
リリの取り巻きの女官が「そのようでございますわね」と言う。
「まあ、よい。王の正室はわらわひとりでよい」
そう言った瞬間、リリは唇の端を持ち上げた。ぞっとするほど美しく、邪悪な笑みであった。
しかし彼女はすぐさまそんな笑みをひそめて、アナーヒタに歩み寄ってきた。
「大事ないか。少し休むか」
アナーヒタは慌てて立ち上がって「いえ」と答えた。
「なんだか恐ろしくなってしまって。母上様にお声掛けいただいて落ち着いてまいりました」
リリが鼻を鳴らす。
「あの女は赤子の頃のそなたをそれはそれは恐ろしいほど虐待しておったのだ。記憶はなくとも体がおぼえているのであろう」
何度も何度も語り聞かせられたことだった。二歳になる前のことらしく本当にまったく記憶にないのだが、リリが言うのだから間違いはないはずだ。
「情というものがないのだ。おぞましい女。あのような女など母だと思わなくてよい。わらわだけを母と呼ぶのだ」
深呼吸をしてから、「はい」と返事をした。
だが、否応なしに意識させられてしまう。金の髪も白い肌も、自分は怖いくらい彼女に似ているのだ。どこからどう見てもリリの子供であるジャハンギルがうらやましい。
「ゆくぞ、アナーヒタ。そなたは
「はい」
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