第22章:大河の女神は円かなる陽の中で愛を知る

第1話 姉と弟、または大河の女神と世界の覇者

「――ヒタ。アナーヒタ!」


 名前を呼ばれていることに気づいて、アナーヒタは窓枠にもたれていた上体を起こした。

 部屋の出入り口を見る。

 扉は開け放たれていて、居室と廊下は背の低い衝立ついたてで隔てられていた。

 その衝立の向こう側から、異母弟のジャハンギルが顔を見せている。


「あなたはいつもぼーっとしていますね」


 ジャハンギルが苛立ちをあらわにした声で言う。


正月ノウルーズの支度はできているのですか」


 アナーヒタは口を尖らせた。


「おあいにくさま、わたしには大した仕事はございません。忙しいのはお前と双子だけです」

「いいえアナーヒタ、父上が今年こそはと意気込んでいます」

「何をですか」


 ジャハンギルが衝立を退け、部屋の中に入ってくる。

 至近距離まで近づいて、小さな声で言う。


「あなたの嫁ぎ先ですよ」


 アナーヒタは目を真ん丸にした。


「あなたも今年で十八です。そろそろ出ていってもいい頃合いです」


 思わず息を吐いた。

 だがそれはけして負の感情から出たものではない。


 ここはアルヤ王国の王の後宮ハレムだ。王のために作られた女の園であり、王の妃たちとその世話をする女官たちがあまた暮らしている。

 そしてその妃たちが産んだ子供らも住んでいる。

 現在の後宮ハレムには、第一王妃エカチェリーナの産んだ長女アナーヒタ、第二王妃リリが産んだ長男ジャハンギル、次男シャーザード、三男シャーダードの四人がいる。上から順番に、十八歳、十四歳、十歳の双子だ。


 アナーヒタは唯一の王女だ。王位継承権はない。その時が来たら確実にどこか異国の地か家臣の家に嫁ぐ身の上だ。


 だがアナーヒタ自身がそれを悲観したことはない。

 父王ソウェイルを信頼しているからである。


 アナーヒタにとって結婚は解放だ。この狭い後宮ハレムを出て新天地に行ける。しかもその手を引いて未来に導いてくれる夫は父が選んだ信頼のおける男性だ。


 父が連れてくる男性にはずれはないだろう。父はきっとアナーヒタを幸せにしてくれるという確信をもって娘婿を選定するはずだ。それも、社会的な信用があって経済的にも安定していて年もアナーヒタと近いくらいの、に違いない。何せこの大陸にはアルヤ王ソウェイルより強い富と権力をもつ者はない。彼は娘婿を選びたい放題なのである。


 今の生活に不満はない。衣食住はきっと下々の者からしたら驚くほど贅沢なのだろうし、養母のリリや異母弟である三兄弟、仕えてくれる女官たちとの関係も悪くない。けれどアナーヒタはなぜかいつも息苦しさを感じていて、少しでも早くここから出ていきたいと考えていた。


 それを、物語に出てくる王子様のような男性が手を引いて、というのを想像する。ひとつの夢だ。


「どこに未来の姑がいるかわからないのですから、それなりの身なりをしてくださいよ」

「わかっています」


 いくら国を挙げての祝祭日とはいえ、女のアナーヒタが表舞台に立つことはない。しかし行事に使う講堂には女性専用の二階席があり、アナーヒタは毎年そこでリリとともに階下で進行する儀式を見守ることになっていた。そこに貴族の各家の貴婦人たちも集うので、ジャハンギルはそういう社交の場でしっかりしろと言いたいのである。


 アナーヒタは社交の場が苦手だ。もともとおしゃべりが好きな気質ではなく、リリの隣で目を伏せて沈黙していることのほうが多い。


 だが、今回の正月ノウルーズは、と気を引き締める。


 もしかしたら、父が呼んだ招待客の中に未来の夫の母がいるかもしれない。


 今年こそうまく立ち回らなければならない。蒼い瞳の王族である以上婚家で風下に置かれるということはないだろうが、嫁姑関係はいいに越したことはない。


「――うらやましいです」


 気がついたら、ジャハンギルが目の前に座っていた。


「あなたは進路が決まっているのですね」


 弟の姿を眺める。


 東方から来た母に似て、象牙色の肌に切れ長の目をしている。瞳の色は父から受け継いだアナーヒタとも同じ蒼だが、髪は真っ黒な直毛だ。


 アナーヒタは白磁の肌に彫りの深い顔立ち、細く高い鼻筋をしている。何より長く伸ばした髪は月光のように明るい金だ。同盟国から嫁いできた東方系のリリとは違って敵対国から嫁いできた西方系の生母に似ているわけだ。


 この姿かたちを、アナーヒタは忌まわしく、呪わしく思っていた。


 黒髪のジャハンギルがうらやましい。


 豊かな黒髪は美人の証拠だ。本当はジャハンギルやリリのような直毛ではなく女宰相シャフルナーズのように軽く波打つ髪をこそ美しいというのだが、それでもみどりの黒髪が狂おしく妬ましい。


 染めてしまえたらどんなに楽だろう。


 金の髪、白すぎる肌、大きな乳――なんと軽薄でふしだらな見た目だろう。未来の旦那に頭や尻の軽い女だと思われたらどうすればいいのか。


 アナーヒタはいつも分厚い布を頭からかぶり、分厚い生地の服を着て、背中を丸めて過ごしていた。


 それもこれも全部あの女のせいだ。

 あの女の娘に生まれたから、こんなに苦しまないといけない。

 自分もリリの産んだ子だったら、どんなに幸せな人生だっただろう。


「……アナーヒタ? 僕の話を聞いていますか?」


 名前を呼ばれて我に返った。


「ごめんなさい、何だったかしら」

「興味がないのならば別に構いません」

「申し訳ありません、そのようなことはおっしゃらないで。お前の話を聞きたいです」


 ジャハンギルが深い溜息をついた。これはぼんやりしている姉を嘆く吐息で、負の感情まみれだ。


「僕の進路の話です」


 アナーヒタは目をまたたかせた。


 それは非常に気にかかる。


 彼の将来は国中の一大懸案事項だ。上から下までみんながいろんなことを噂している。後宮ハレムでも、リリの手前大きな声では語れないが、女官たちがああでもないこうでもないと予想を立てているのは知っていた。


 ジャハンギルは黒い髪をしている。

 しかし弟のシャーザードとシャーダードは蒼い髪をしている。

 弟たちの髪が蒼いということは、ジャハンギルの王位継承権など吹けば飛ぶようなものだということだ。


「父上様は何かおっしゃっていましたか」


 身を乗り出して問うと、彼は頷いた。


「十五になったら後宮ハレムを出て地方総督をさせるつもりのようです。見習いのようなもので、正式に任官するわけではないとおっしゃっていますが」


 胸の奥が痛む。


 後宮ハレムは王の妃のものだ。王の直系の息子であるジャハンギルが今日明日に出ていかなければならないということはないが、男子が成人しても居座るというのはあまり芳しいことではない。


「地方ですか」

「東部州で内定でしょうね」


 アルヤ王国には、エスファーナを中心とした中部州、タウリスを中心とした西部州、ティラチスを中心とした南部州、メシェッドを中心とした東部州、そしてレイを中心とした北部州の合計五つの行政区分があり、それぞれに代官と司祭の長である将軍をおいている。


 南部州の将軍であるアーレズは今王都で教育中、北部州の将軍であるアフサリーはすでに高齢、西部州の将軍であるエルナーズはちょっと信用ならないところがある、とくれば、安泰なのは東部州のヴァフラムのもと、ということになる。ヴァフラムは十神剣の中でもとりわけ陽気で面倒見の良い男なのでみんな安心だろう。誰もが予測しえた進路だ。


 ジャハンギルがうつむく。


「そのまま一生メシェッドで暮らすのかもしれません」


 何とも言えなくなって、アナーヒタも一緒に沈黙した。


 母后であるリリはジャハンギルの即位を望んでいる。

 性格的にも特に他人と衝突するでもなく、文武に優れ、健康に恵まれた彼は王の責務に耐えうると思う。

 それでも、髪は黒い。


 ままらない。


 この国の王の子たちは、髪の色ひとつで将来が決まる。


「王子」


 廊下から女官の声が聞こえた。


「ギル王子、どちらにいらっしゃいますか」


 ジャハンギルが立ち上がった。


「つい長居しました。失礼しました」

「いえ」


 出入り口のほうへ向かうのを見送る。


「もうこうして姉弟で会話する機会も何度もあるわけではないかもしれませんし」


 そう言うと、彼はちょっと振り向いて笑った。


「結婚するのがよほど楽しみだと見えます」


 アナーヒタは少し恥ずかしくなってまたうつむいた。





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