第7話 そして、アルヤ王国に爛漫の春が来た

 そして正月ノウルーズの日が来る。


 ソウェイルの三十五回目の誕生日の朝、サヴァシュは草原へ旅立った。


「じゃあな」


 まるですぐそこまで出かけるかのような顔で、彼はそう言った。


 しかし馬の背に積んだ荷物は長旅のための荷物だ。


 もともと遊牧民でそんなにたくさんのものを所有することのない彼に大荷物は必要ない。数日分の着替えと食糧、それからいくらかの現金があれば十分だった。あとは行く先々で調達する寸法だ。


 サヴァシュとともに行く娘たちも、父に倣ってそんなにたくさんのものを持っていこうとはしなかった。ただ、同じく騎馬民族の娘として生まれ育ったギゼムの勧めで、持っていけるだけの金銀の装飾品を身につけた。これを少しずつ換金すれば路銀になる。


 サヴァシュとユングヴィの間には八人の子供がいた。

 十五歳以上の六人はすでに進路が決まっていて住む場所も生業なりわいも決まっている。この六人にアルヤ王国を離れるという選択肢はない。

 だが下二人、十二歳の三女と十歳の四女はまだ未成年で親の庇護が必要な年齢だ。


 サヴァシュはこの二人を草原に連れていくことにした。


 二人は喜んだ。


「お父さんの生まれたところを見てみたい!」


 父にチュルカ人としての名前をつけられ、チュルカ人の民族衣装を着て、チュルカ語を教えられて育った二人の娘たちは、父について遥かなる大草原へ旅立つことを望んだのだ。


「約束だからな」


 馬の鼻面をとらえて、サヴァシュが言う。


「子供たちをよろしく頼むと言われた。全員十五になるまで俺が世話をする。でもかみさんはそれをどこでどうやってとまでは指定してなかったからな」

「確かにな」


 母からその約束を承ったホスローが、苦笑しながら頷いた。


「ま、大丈夫だろ。当人たちがチュルカ平原を見たいっつってんだから」


 サヴァシュが頷く。


「向こうに親戚もいるし、嫌になったら帰れるだけの技術は教えたつもりだ」


 小さな娘たちが「嫌になんかならないよーだ」と言いながら飛び跳ねた。


「すごい楽しみ! どんな生活になるかな」

「羊をいっぱい育てたい! それから幕家ユルトの隅から隅まで刺繍をするの」


 二人はどこまでも無邪気だ。


「地平線を見たい。見渡す限り何にもない草原を見たいの」


 スーリが泣き出した。


「あかん。笑顔でお見送りするんやって決めてたのに。ごめんなさい」


 そんな彼女の肩をホスローが抱いた。


 ホスローはあくまで冷静だった。

 家長だからだ。

 彼は、今この家の先頭に立つ者として、かつてこの家の先頭に立っていたサヴァシュを、送り出す。


「心配しないでくれ」


 次にそう言ったのはソウェイルだ。


「この国は俺が守る。サヴァシュはもう自分の好きなように生きてくれ」

「言われずとも」


 サヴァシュは、爽やかな顔をしていた。すっきりした顔だった。

 ようやく重い荷物を降ろせた者の顔だった。


 とうとうこの時が来た。


 彼はこの日をどれだけ待ち望んでいたことだろう。

 何年前からだろうか。

 妻が死んだ十年前からだろうか。妻と結婚した二十五年前からだろうか。アルヤ王国に来た三十七年前からだろうか。

 彼の思いが、今、解き放たれる。


 アルヤ王国には、もう、大陸最強は必要ない。

 そういう時代が、来た。


「お父さん」


 アイダンが呼ぶと、サヴァシュは手を伸ばして、頬を撫でてくれた。


「あんまユルドゥズやホスローと喧嘩すんな。特にホスローはお前の兄ちゃんだろ」

「努力する」

「頼んだぞ」


 空が抜けるように蒼い。


「空はつながってる」


 サヴァシュが言う。


「太陽はどこでだって輝いてる。アルヤ王国にもチュルカ平原にもな」


 全員が、頷いた。


 誰も口には出さなかったが、気づいていた。


 サヴァシュにとってはこれが人生最後の旅だ。

 彼は永遠にアルヤ王国に戻ってこないだろう。故郷の草原で果て、骨を野に晒して最期を迎えるだろう。

 でも、言わない。

 笑顔で、送り出す。

 それが、長い間最強としてこの国を守ってきてくれた男への、最後の賛辞だ。


 もう、引き留めない。


「忘れ物はないな」


 娘たちが「はーい」と笑顔で言った。もしかしたら彼女たちは何も気づいていないのかもしれないし、ひょっとしたらこの家に戻ってくることもあるかもしれない。けれどそれはまた別の物語だ。誰しも自分の物語を持っているものだ。


「お父ちゃんは? もう全部持った?」


 娘に問われて、サヴァシュは自分の胸元に手をやった。


 服の襟の中から、革紐に吊るされた小瓶が出てきた。


 小瓶の中には、白い小指の骨が一本分と、赤い髪の切れ端が入っている。


 少し眺めてから、彼はそれを愛しそうに胸元に戻した。


「俺に必要なのはこれだけだ」


 アイダンは十年ぶりに母を想って泣いた。そのアイダンの肩をユルドゥズが抱こうとしたので、思い切り足を踏んだ。


 サヴァシュが馬に乗る。娘たちも飛び乗るようにして馬上に移動した。


「じゃ、達者でな」

「そっちこそ」


 蹄の音がする。


 少しずつ、遠ざかっていく。


 弟たちは駆け出していったが、アイダンはその場から動かなかった。


 自分が黙って見送ることこそ、父を一番安心させることだと思った。


 どうぞお幸せに。


 人にはそれぞれの物語があるのだ。


 最強が、今、ここで人生の幕を下ろした。


 三人の姿が完全に見えなくなってから、ソウェイルが言った。


「さて、祭典の準備だ」


 家族全員が頷いた。特に、ホスロー、スーリ、ユルドゥズ、そしてアイダンは、しっかりとソウェイルを見据えた。


正月ノウルーズだ。俺の治世で初めて、十神剣が全員揃った正月ノウルーズを迎えられるぞ」

「はい!」






 アルヤ王国に、爛漫の春が来た。






「赤将軍ホスロー」

「橙将軍アーレズ」

「黄将軍ヴァフラム」

「緑将軍アフサリー」

「空将軍エルナーズ」

「蒼将軍アイダン」

「紫将軍ラームテイン」

「桜将軍スーリ」

「黒将軍ユルドゥズ」

「白将軍クバード」


「我らアルヤ王国を守護する者」





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