第6話 蒼将軍家は武門の誉れ

 どこに行けばこの苦痛から逃れられるのかわからない。


 今まで信じていた世界ががらがらと音を立てて崩れていく。


 何をどうすればこの不安を打ち消せるのだろう。


 アイダンは蒼宮殿の仕組みをよく知らなかった。興味がなかったからだ。

 十神剣である兄や義姉は頻繁に出入りしているようだったが、アイダンには関係がなかった。蒼宮殿の敷地の一角にある黒軍の天幕テント群に行ければ他はどこにどんな施設があろうと何でもよかったのだ。


 したがって、みんなのいる黒軍の訓練場から距離を置ければ何でもよく、逆に言えば何にもよくない。


 人一倍体力のあるアイダンだ、多少走ったくらいで息が切れるということはない。けれどそれでもどうにも息苦しさを感じて、南の棟のどこかよく知らない廊下で立ち止まった。


 周囲には誰もいなかった。正確には警備のために巡回している白軍兵士がいるようだが、アイダンに注目していない。もしかしたら彼もアイダンがサヴァシュの娘であることを知っていて警戒すべきとは思っていないのかもしれない。


 見知らぬ場所にいることに気づいてから、冷静にならなければ、と思った。落ち着かなければならない。


 別にいいではないか。アイダンが好きなのは父であるサヴァシュであって黒将軍であるサヴァシュではない。ユルドゥズは気に入らなかったが、結局結婚しなくてもよくなったのだからいいだろう。

 今は蒼将軍家のことだ。義兄から家を継いでもいいと言われた。それがすべてではないのか。


 自分の人生はどうなるのだろう。


 漠然とした不安に襲われる。


 自分には怖いものなど何もないと思っていた。


 ――大丈夫。


 誰かが言う。


 ――大丈夫、アイダン。そんなに戸惑わないでほしい。


 頭の中に、心の中に、誰かの声が響いてくる。


 ――恐れることは何もないよ。他の誰がどう変わっていっても、君がナーヒドの後継者であることに変わりはないのだから。


 顔を上げた。


 すぐそこに扉があった。両開きの扉だ。


 周囲を見回す。


 自分は南の講堂の近くにいるらしかった。講堂の東側に辿り着いたようだ。


 蒼宮殿の南の棟で一番大きな講堂のすぐそばにあるわりには、小さな部屋だった。控え室か何かだろうか。控えの間にしては隠れていない。


 何の部屋だろう。


 不思議と心惹かれるものがあった。なぜか、中を覗いてみたくなった。


 何かに導かれている。


 ――こちらに来るんだ。


 呼ばれている。

 求められている。


 扉を開けた。


 外側から見た印象とは違って、内側の壁は豪華に作られていた。壁の全面に蒼い石片タイルと金箔の星に似た幾何学模様が施されていた。

 扉から見て正面、北側の壁には、祭壇のような出っ張りがあり、大小いくつかの金属の器が置かれていて、蝋燭が二本と山盛りの果物が供えられている。


 祭壇の上方、壁に十対で合計二十個の金の突起がついている。


 そのうち一対にだけ、剣が置かれていた。


 蒼い色の神剣だった。


 もっとも『蒼き太陽』に近い色、本来は太陽そのものであるべき色。王都の守護神、王国の守護神。


 初めて見る剣のはずなのに、なつかしい感じがする。


 一歩、また一歩と祭壇に近づいた。


 声をかけられているような気がした。


 ――蒼将軍家は武門の誉れ。


 手を伸ばした。


 ――国の興りし時より戦い続けて過ぎる年月は幾星霜。


 鞘ごと、剣をつかんだ。


 ――誰よりも武人である君に。


 そうしなければならない気がした。


 ――戦士でも騎士でもいい。誰よりも武人であった彼の娘である君に。


 左手で鞘をつかんだまま、右手で柄を引いた。


 ――僕を与えたい。


 少しずつ、刀身が見えてきた。


 太陽の光が、あたりに広がった。


 完全に抜き去った瞬間、アイダンは頭の中に今までどこにもなかったはずの記憶が頭の奥底から湧き出てくる感じを覚えた。


 抱き締めてくれた温かく大きな手。ほのかに漂う葡萄の甘い香り。甘えて頬を寄せた胸の筋肉はしっかりとしている。小さな手を伸ばしてつかんだ黒髪は長くつややかだ。


 知らないはずなのにひどくなつかしい。


 ――アー。


 ささやく声が優しい。


 ――お前は俺の子だ。


 そして、眠るまで頭を撫でてくれた。


 ――俺を父と呼んでくれないか。


「ああ」


 遠い、あまりにも遠い、幼すぎて何もわからなかった頃の記憶が、確かにここにある。


「そうか」


 なぜか涙が溢れた。優しく温かな記憶はそれでもどこかが何となく物悲しく、アイダンはめったに感じることのない切なさというものが胸に込み上げてくるのを感じた。


「あなたは私の父親になりたかったんだな」


 そのあなたが誰なのかすら思い出せないのに――アイダンは知っている。


「蒼将軍家は、武門の誉れ。国の興りし時より戦い続けて過ぎる年月は幾星霜」

「どこで」


 声が聞こえてきたので振り返った。

 走ってきたのだろうか、荒い息をしたギゼムが立っていた。


「どこでその詩を覚えたんですか」


 アイダンは小首を傾げた。


「なんかよく聞いてた気がするけど」

「いいえ」


 ギゼムが首を横に振る。


「ナーヒド様が亡くなられてからは誰も口にしていませんよ」


 その名前がひどく懐かしく、心を揺さぶられる。


「そのナーヒドって人、私は知らない人だと思ってた」


 ギゼムは笑った。


「そんなことを言われたら、あの人は泣いてしまうかもしれませんね。繊細な方でしたから」


 ギゼムの後ろからいろんな人が顔を出した。関係者一同勢揃いだ。アイダンは少し恥ずかしくなってしまった。


「その剣」


 言いながらギゼムが静かに歩み寄ってくる。


「何年でしょう? 二十年くらいぶりでしょうか」


 手を伸ばす。

 蒼い神剣を握ったままのアイダンの右手を、両手で包み込む。


「その剣を抜く人がふたたび現れるとは、思っていませんでした」


 次の時、ギゼムの瞳からほろりと一粒涙がこぼれ落ちた。どんな時も勇猛果敢で豪放磊落な彼女からそんな切ない涙が出てくるとは思っていなかった。アイダンは時の流れを感じた。自分は彼女に涙を見せてもらえるほど大人になったのだろう。


「もう永遠に。少なくとも、私が見ることはないのだと」


 手が、震えている。


「それが太陽に背いた天罰であり、我が家に下された宿命なのだと思っていましたよ。家を継ぐ人間は現れても剣を継ぐ人間は現れないのだと」

「大袈裟だ」


 言ったのはソウェイルだ。彼はいつの間にかすぐそばまで歩み寄ってきていた。


「アイダンは蒼将軍家の跡取りなんだから、その剣も継ぐべきだ」


 アイダンの中で話がすべて一本につながった気がした。


 脈々と続いてきた蒼将軍家が、自分の中でひとつになる。


 自分は、優しく不器用なあの男の正統な後継者として、王にも剣にも認められたのだ。


「私が貰ってもいい?」


 ソウェイルに尋ねると、笑って額を小突いてきた。


「この十数年絶対誰のものにもなりたくないと言っていたその剣がお前ひとりを選んだんだ。誇ってくれ」


 そして、大きく息を吐いた。


「それから、ありがとう」

「何が?」

「見てくれ」


 ソウェイルが祭壇の上を指さす。


 その上にある十対の金具は全部空になっていた。


「十神剣が全部、全員、持ち主を見つけた」


 次の時、


「十神剣が二十五年ぶりに全員揃った」


 その場にいた全員から、歓声が上がった。


「アルヤ王国が、完成したぞ」




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