第5話 もう、解放してほしい
「あのさあ」
そう間を置かずに義兄ソウェイルが現れた。
黒軍の訓練場も蒼宮殿の中だ。彼の職場はすぐそこである。アイダンとユルドゥズが衝突してから誰か――おそらくスーリ――が告げ口しに行ったのだと思うが、二人が決闘をやめたくらいにはすでにいたらしい。ユルドゥズが完全に立ち上がったところで声をかけてきた。
いつも温厚な彼にしては珍しく、表情全体で不愉快を表明していた。
「俺がさ、十数年かけてさ、チュルカ人は蛮族ではないですよ、アルヤ人と同じ人間で同じ国に暮らす隣人ですよ、って言って積み上げてきたものをさ、自ら蛮族であることを見せつけるような行動を取るのはさ」
チュルカ人の関係者全員が黙った。
「俺の努力を水泡に帰すようなことを言い出したのは誰ですか」
そこで「申し訳ございません」と言ったのはギゼムだ。彼女より一回り年下のソウェイルが「いい加減にしろよ、あんた今年いくつだ」と口汚いことを言ったが、誰も口を挟めない。
「どうしてこんなことになったんだ」
オルティが枕詞のように「すみません」と告げてから説明を始める。
「蒼将軍家を相続するのにユルドゥズとアイダンが結婚したらいいんじゃないかという話になったんだが」
「話が混乱してるぞ。順を追って説明しろ」
身振り手振りを加えて、ソウェイルが問題を切り分ける。
「まず、蒼将軍家に跡取りがいない話。それから、ユルドゥズとアイダンが結婚する話。このふたつの問題の間に、蒼将軍家がユルドゥズを後継者にしたい、という話がある。ところがアイダンはユルドゥズが蒼将軍家の跡取りになるのも認めたくないし結婚もしたくない」
「ソウェイル……お前立派な大人になって……」
「俺も次の春で三十五なんですけどね。で、何だ。ギゼムやオルティからすると本当は蒼将軍家をアイダンに継いでほしいんだけど何かが引っかかっててそうできないから、ユルドゥズを間に挟みたいんだよな? 何が引っかかってるんですか教えてください」
場が静まり返った。
ソウェイルひとりが腕組みをしてチュルカ人一同を睥睨していた。
「恐れ入ります」
ギゼムが口を開く。
「大昔の話ですが、私ども夫婦がアイダンを養女として迎えたいと申し出た時に、サヴァシュさんに断られたのです。ですから、私は、アイダン自身の意思で我が家に入ってくれるというのでないといけないと考えました。それで、まずユルドゥズを養子に入れてから、ユルドゥズとアイダンが当人たちの意思で結ばれてくれたら、すんなりうちに来てもらえるのではないか、と」
「はい話がサヴァシュに飛び火しましたよ」
ソウェイルがサヴァシュのほうを向く。
「断ったの? そんなの俺聞いたことないんだけど」
サヴァシュは大きな溜息をついた。
「お前が王位を継承するしないで揉めていた頃の話で、ユングヴィが流産した時だ。そういうごたごたの中ナーヒドがのこのこやって来て能天気にもアイダンをくれと言うから、頭に来てな。しかもあのクソ野郎俺とユングヴィが育てるよりあいつがちゃんと教育したほうがいい人生送れるだか何だかそんなようなことを言いやがった」
「そうだな、ナーヒドはそういう奴だったな。目に浮かぶようだ」
「だが――」
サヴァシュの目がギゼムのほうを見る。ギゼムが縮こまる。
「今となってみれば、だな。結局のところ俺は自分の手元でアイダンをこの年まで育てられて満足したし、家はホスローが継いでくれたしな。ましてナーヒドの奴は死んだ。ギゼムを恨む理由はない。アイダンが自由意志で蒼将軍家に入ると言うんなら、今なら止めない」
少し間が開いた。
「さようですか」
そう呟くギゼムの目に涙が浮かんだ。
「アイダン、どうですか」
話を振られてから、ほんの少しだけ考えた。
アイダンにとって蒼将軍家は第二の自宅でギゼムは第二の母だ。ギゼムのもとでチュルカ人として生活できるのならむしろ願ったり叶ったりだ。
引っかかっていることがあるとすれば、自分がサヴァシュの子供でなくなることだろう。自分にとっての父親はこの世で唯一サヴァシュだけだ。
ナーヒドは知らない人で、いけ好かないアルヤ騎士とやらで、その男を父として仰ぐことはできない。だがもう死んでいて直接会うこともない。
自分はもう二十二年間サヴァシュの娘として生きてきた。これからどこに行こうとその関係は変わらないのではないか。
「兄貴」
ソウェイルがアイダンを見つめる。
「兄貴としてはどうなんだ?」
「何が?」
「蒼将軍家はアルヤ騎士の家系なんじゃないのか? アルヤ王国建国からある家だ。それをチュルカ人で女で戦士の私が継いでもいいのか」
彼はあっさり「いいぞ」と答えた。
「だから、そういうのをどうでもよくするために俺は十数年王様をやってきたんだってば」
「わかってる。確認したかっただけだ」
アイダンはやっと緊張がほぐれたのを感じた。
「じゃあ、私は蒼将軍家に入って、ギゼムさんの養女になる」
ギゼムが文字どおり胸を撫で下ろした。
これが、あるべき状態だ。
「――となると」
ソウェイルが溜息をつく。
「では、残念ながら、ユルドゥズ青年には用事はなかった、ということで」
ようやく名前を呼ばれたユルドゥズが、肩を落として「はい……」と頷いた。
「ギゼムさんの後を継ぐ話もなくなり、アイダンちゃんは俺と結婚する気もなく……。俺は何も得られずすごすごと引き下がるってわけですね……」
「そう聞くと可哀想になってくるな」
ソウェイルも一緒になってユルドゥズの境遇に溜息をついてくれる。
「今何か仕事してる? してないなら黒軍に入れよ。副長に王様の口利きで来ましたって言え、入隊試験なんかしなくてもアイダンと渡り合えるってなったら嫌がらないだろ」
「いえ、陛下のお手を煩わせるわけには――いやいいのかな、本気で無職だし、馬に乗るのは好きだし……やろうかな、黒軍兵士……」
そこで、だった。
いつの間にかサヴァシュがユルドゥズの隣に立っていて、急に彼の肩を抱いた。
「まあ、黒軍兵士と言わず、お前、黒将軍やれや」
空気が一瞬硬直した。
場を代表して、オルティが「何言ってるんだ」と突っ込んでくれた。
「黒将軍?」
サヴァシュが頷く。
「こいつが気に入ったんでな。俺はこいつに神剣を譲りたい」
アイダンは動転した。思わず怒鳴ってしまった。
「意味がわかんない! 黒の剣は父さんのものだ!」
「いや、違う」
サヴァシュの声に迷いやためらいはない。
「この国のものだ」
彼がそう言うと、みんな動きを止めた。
ゆっくり、一音一音確かめるように、言葉を紡いでいく。
「十五の時から、三十七年。気が遠くなるくらい、この国のために戦ってきた。全身全霊をもって。武器を持ち続けてきた」
ソウェイルの蒼い瞳が、サヴァシュを見つめている。
「嫁のためだった。あいつがこの国を守ってほしいと言ったから。この国を――子供たちの未来を」
みんな、黙って聞いている。
真剣な気持ちで、サヴァシュの言葉を聞いている。
「ソウェイル」
「はい」
「お前は、立派な王様になった。ユングヴィが求めていたような、な」
誰も何も言っていないのだが、サヴァシュはひとりで頷いた。
「お前にはもう俺はいらない――などと投げやりなことを言うつもりはないが、事実として、俺が身を挺して守ってやる必要はなくなった」
ソウェイルも、呼応するように頷いた。
「この国は、ユングヴィが産んだ子供たちが自由に自分の未来を選択して生きられるくらい、平和で安全な国になった。ソウェイル、お前の力だ。お前の努力の結果だ」
また、一拍間を置く。
「憶えてるか」
「何を?」
「お前がまだ九歳の時の話だが――お前が王様になったら、俺を将軍という立場から解放してくれると言った」
ソウェイルははっきりと頷いた。そして、微笑んだ。
「サヴァシュのためにも立派な王様にならなきゃと思った」
「今がその時だ」
「そうか」
「今だ。……解放してくれ」
アイダンの胸が冷えていく。
それを察することなく、男たちの間で話が進んでいく。
ソウェイルが両方の手の平を空に向けた。
手の平の上に、雲のようなものが浮かんだ。
闇、だった。
黒い闇が少しずつ
闇の中から、何かが姿を見せた。
神剣だった。
黒い神剣が、ソウェイルの手の平の上に浮かんだ。
それは、ずっとアイダンの家にあったものだった。
アイダンが生まれた時からアイダンを見守ってくれていた剣だった。
「嫌だ」
アイダンのそんな小さな声など誰も拾わなかった。
宙に浮かんでいた剣を、ソウェイルの手がつかむ。
そしてサヴァシュのほうに差し出す。
「最後に一回抜いてくれ」
サヴァシュが「わかった」と言って受け取った。
柄を握る。引く。
漆黒の闇を凝縮したような刃が姿を見せる。
「ユルドゥズ」
ソウェイルがユルドゥズのほうを向いた。
「どう?」
「どうって、何が」
「このままだとお前が将軍になっちゃうけど、いい?」
ソウェイルの笑顔に、ユルドゥズが笑顔で返した。
「もちろん! 俺、チュルカ人だけど、アルヤ国民なんで! 光栄です!」
反対しているのはもはやアイダンひとりのようだ。
「やめて!」
そう叫んだアイダンをホスローが後ろから羽交い絞めにした。
手を伸ばす。けれどホスローの力が強すぎて届かない。
「やだ!」
「落ち着け」
「それは父さんのだ」
「アイダン!」
サヴァシュの手が、ユルドゥズの右手に剣を、左手に鞘を持たせた。
本来の持ち主であるはずのサヴァシュの手を離れても、剣は消えなかった。
「一回納めてみて」
ソウェイルに促されるがまま、ユルドゥズが剣を鞘に戻す。
「抜いてみろ」
ユルドゥズは剣を抜いた。
黒い刀身が、何も引っかかることなく、すんなりと抜けた。
「おめでとう、黒将軍ユルドゥズ」
ユルドゥズの顔いっぱいに笑みが広がった。
サヴァシュがユルドゥズの肩を叩いた。
「よろしく頼む」
その声が明るい。
「俺が三十七年守ってきたこの国を、今度はお前が守ってくれ」
ユルドゥズはあっけらかんとした顔で頷いた。
「はい!」
見ていられなかった。
ホスローの腕を振り払った。
「アー!」
現実を直視したくなかった。
アイダンはその場から逃げ出した。
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