第21章:無双の黒馬と蒼色の鷹

第1話 父さんより弱い男と結婚する気はない

 差し出された薔薇の花束を眼前にして、アイダンは頬をひきつらせた。


「結婚してください!」


 アイダンが受け取らずにいると、彼は花束をアイダンのほうへとさらに突き出した。

 ちまたでは恐れを知らぬと謳われているアイダンも、さすがに後ずさった。


 基本的に、アイダンには怖いものがない。

 苦手な食べ物もなければ、苦手な動物もいない。妖魔のたぐいも信じていなかったし、権力はこの国の頂点が自分を可愛がってくれる義兄である以上むしろ笠に着るほうだ。

 何より、アイダンは、自分は強いと自負していた。

 武術では、誰にも負けない。兄のホスローにでさえ負けない。この国には武勇でアイダンの右に出る人間はいない。


 そのアイダンが初めて、こいつはヤバい、と思ったのがこの男だ。


 薔薇の花束を抱えて、彼――ユルドゥズは悲しそうな顔をした。


「どうして受け取ってくれないの?」

「私が受け取ると思ってたのか?」

「あ、ひょっとして恥ずかし――」

「それはない」


 食い気味に否定した。

 しかしユルドゥズは負けない。へらへらとした笑みを浮かべて、彼はこんなことを言う。


「照れちゃって、可愛いなあ」


 気持ちが悪い。


 ここはアイダンの家の玄関先である。使用人の女性に客だと言われて呼ばれ、自分を訪ねてくるような奴があったかといぶかしみながら出てきてみれば、これだ。


「呼んでねぇよ」

「呼ばれてないけど来たよ」

「図々しい奴だな」

「男はちょっと強引なほうがいいって言うでしょ」


 こめかみをひきつらせて「は?」とにらんだが効果はまったくない。


 アイダンとこの男ユルドゥズが出会ったのは、数日前、蒼将軍家でのことである。


 アイダンには母親が二人いる。生みの母であるユングヴィと育ての母であるギゼムだ。


 ユングヴィはアルヤ人の女だ。

 子供に甘く、いつもにこにこしていたが、何事も白黒つけたがるアイダンからしたらイライラする女であった。しかも、アイダンに娘であることを押しつけ、口癖のように、おしとやかにしなさい、可愛い女でありなさい、と言い続けた。アイダンが弓を取ることに否定的で、口に出してはっきりだめだと言ったことはなかったものの、いつもなんとなく嫌がり、刺繍や裁縫をするのを求めた。


 彼女はアイダンが十二歳の時に死んだ。

 寂しいと思わなかったわけではない。彼女の遺体を前にして、彼女に死をもたらした戦争というものについて思いを馳せなかったわけではない。

 だが、アイダンの人生観を大きく変えるものでもなかった。


 アイダンの人格形成にもっとも大きな影響を及ぼしたのは、ユングヴィではなくギゼムのほうだ。


 ギゼムは平原チュルカ人の女だ。


 事情を知っている周囲の人間たちが言うには、ギゼムとアイダンの出会いはアイダンが二歳の時にさかのぼる。


 その時代、遠く北東のチュルカ平原という大草原で、遊牧民族チュルカ人の戦士たちと凍土の地に生まれ育ったロジーナ人兵士たちが覇を競っていた。

 競り負けたのはチュルカ人のほうだ。個々の武勇では引けを取らなかったはずだが、ロジーナ人の圧倒的な物量と人海戦術に押し負け、草原にあった数々の小王国が滅んだ。


 グルガンジュ王国もそのうちのひとつで、王の子であったギゼムとオルティの姉弟もアルヤ王国への亡命を余儀なくされた。


 そしてその二人をかくまったのがアイダンの父であるサヴァシュであった。


 それからなんやかんやで――この辺はアイダンはよく知らないしサヴァシュもギゼムも語りたがらないのだが――アイダンはたびたびギゼムに預けられることになる。


 アイダンはギゼムが好きだった。草原の戦士として生まれ、尚武の気風の中で育ち、女でありながら弓と刀剣を奮って戦ってきた彼女を、アイダンは尊敬していた。彼女もアイダンには惜しみなく馬や弓を教え、立派な黒軍兵士として育ててくれた。


 ユルドゥズは、その、敬愛する義母ギゼムの弟の息子、つまり甥らしい。


 先日、彼は突如としてギゼムの邸宅に現れた。


 そして、一目惚れだと言ってアイダンを追いかけ回すようになった。


 本当に、心底気持ちが悪い。


 いつの間にか周りにわらわらと兄弟たちや使用人たちが群がっていた。どいつもこいつも面白そうだ。今までアイダンを訪ねてくる男など――まして求愛してくる男などいなかったからだろう。


 妹のうちのひとりがこんなことを言ってきた。


「結婚してあげれば?」


 アイダンがにらみつけると、彼女は兄――アイダンからすると弟――の後ろに隠れた。しかしもぐら叩きだ。この妹ひとりを黙らせたくらいでは家族全員を黙らせることはできない。


「おい、面白そうじゃねぇか、俺にも見せろよ」


 人だかりを掻き分け、兄夫婦が顔を出す。


「うわ、すっげー花束だな。全部薔薇か? 気合入ってんな」

「なんぼやった? 高かったやろ」


 使用人のうちの一人がうっかり「旦那様、奥様」と呼ぶので、ユルドゥズが「お義兄にいさん、お義姉ねえさん」と言い出す。


「俺、本気なんです。結婚を前提に真剣にお付き合いをさせていただきたいと思ってるんで――」

「いいぜ」

「話が早くて助かります!」


 アイダンが「ホスロー!」と怒鳴ると、兄は真顔で首を横に振った。


「いいじゃん、とりあえず付き合ってみれば。だめならだめでいいんだし」

「何事も経験やで」

「テメーら面白がってねぇよな」


 ホスローとスーリが忍び笑いをした。アイダンは舌打ちをした。


「私は結婚なんかしない。誰が好き好んで自分より弱い男に抱かれなきゃならねぇんだ」


 ユルドゥズがなおもへらへらとした笑みで言う。


「今時男だから強くなきゃいけないとか女だからか弱くなきゃいけないとかないでしょ」

「いや、ここは俺だって本気出せば強いとか言えよ」


 次の言葉に、アイダンはかっとなった。


「そうは言ってもソウェイル王のこの太平の世だよ。今のご時世、強いとか弱いとかある?」


 アイダンは腕を伸ばした。

 ユルドゥズの胸倉をつかんだ。

 薔薇の花束が地面に落ちた。


「テメエ、今何つった?」

「えっ? 俺何か変なこと言った?」

「今のご時世、私ら黒軍は――」


 その時だ。


「おい」


 後ろから低い男の声がした。


「何揉めてんだお前ら」


 使用人の娘が「ご隠居」と明るい声を出した。


 ユルドゥズの胸倉をつかんだまま振り返ると、そこに父サヴァシュが立っていた。背中を丸め、無数の灰色の三つ編みは下ろしているが、落ち着いたその足取りにはかつての威厳が残っている。


 アイダンはほっとした。

 彼こそこの国の力の象徴だ。強さこそがすべて、力こそがものを言ってきた時代を生きてきた。アイダンにとって理想の戦士そのもので、ユルドゥズのようにグルガンジュ族という草原の戦闘民族に生まれながら落ちぶれた弱い男とは違うのだ。


 これもまた平和の象徴みたいな義姉スーリが朗らかなようでいて少し意地の悪い声で言う。


「聞いてお義父とうさん、彼な、アーちゃんが好きなんやって」


 ユルドゥズが「アイダンちゃんのお父さん?」と呟くように言った。


「なんだ、すごい話になってんだな。それでこんな御大層な花束か」

「お義父さん!」


 アイダンを押し退けるようにしてサヴァシュの前に出る。


「初めまして! 俺はメストの息子のイルバルスの息子のイッキの息子のユルドゥズです! グルガンジュ族の者で、ギゼムさんとオルティさんの甥に当たります」

「ほう。俺は黒将軍サヴァシュだ」

「で、さっそくなんですけど娘さんとの結婚を認めてくださいませんか?」


 ホスローが「さっそくもさっそくだな」と呟いた。スーリが拳を握り締めて見守っている。


 サヴァシュはしばらく黙ってユルドゥズを眺めていた。


 認めるはずがない。

 遊牧戦士でありながら堕落した男であるユルドゥズを、戦士の中の戦士であるサヴァシュが、婿として受け入れるわけがない。


「アー」


 アイダンは真面目な顔をして「はい」と返事をした。


「お前としてはどうなんだ」


 はっきり答えた。


「私は父さんより弱い男と結婚する気はない」


 サヴァシュがふと息を漏らす。


「そんなこと言ってたらお前一生結婚できねぇぞ」

「しなくていい。自分より弱い男のもとに嫁ぐなんて屈辱だ」

「俺は別にいいと思うんだがな」


 目を真ん丸にしてしまった。


 一同が静まり返った。


 視線がサヴァシュに集中する。


 サヴァシュひとりが平然とした顔をしている。


「冗談だ。俺ももう五十二のじいさんだぞ、もう最強の座にしがみつく気はない」

「父さん?」

「俺の目が黒いうちに身を固めてくれるというんなら、まあ、それはそれで」


 感動したらしいユルドゥズがサヴァシュに近づこうとする。そのユルドゥズを後ろから羽交い絞めにして首を絞める。ユルドゥズが「苦しい苦しい」とアイダンの腕を叩く。


「でも……私……」

「懐かしいな」


 サヴァシュが遠くを見る。


「お前はちっちゃい頃大きくなったら俺と結婚してくれると言ってくれたな。俺はその思い出だけで満足だ。今までありがとうな」


 ホスローが「いやそれも気が早くねぇ?」と突っ込む。


「てことは、俺たちの結婚を認めてくれるんですね?」

「ああ」

「やったー、俺うれし――ぐえっ」


 アイダンはユルドゥズの首を絞めながらしばし呆然とした。




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