第6話 わたくしほど賢く美しく地位も財産もある女はほかにおりませんわよ

 ユルドゥズはいい子で、少し人の顔色を窺う傾向があるようだが、基本的には明るく素直でほんのりひょうきんなところのある青年だ。

 そういう彼を平和の申し子のように感じた。

 ギゼムやオルティのような荒武者が活躍する時代はもう終わり、彼のように落ち着いた人間関係を望む青年が生きる世になったのだ。

 そう思うと、ユルドゥズがなんとなくソウェイルにも似ている気がした。


 ユルドゥズを家に泊め、ギゼムとオルティと三人で酒を飲みながらひと晩語り明かす。イッキやその長男の話を聞き、また、オルティたちが今までどのように生きてきたのかを話す。

 姉は弟のイッキの最後の日々に涙を浮かべていたし、オルティ自身も込み上げてくるものがあった。イッキも無念だっただろう。だが善行を積んだ彼は死んだ妻子に会えたに違いない。それにユルドゥズやその兄はもう手が離れた。心配することはない。


 そうこうしているうちに、オルティは、自分のこれから先は老後なのだ、ということを悟った。


 いろんなものから解放された。仕事も終わったし、血筋もユルドゥズたち兄弟に託した。自分にはもうすることがない。


 それを、前向きに捉えていいのではないだろうか。


 今から新しいことを始めてもいいし、趣味として武芸を続けるのもいい。どこに住んでもいいし、新たな仕事を見つけてもいい。


 ――生きて失う名誉は一代限りのもの、死んで失う名誉は子々孫々のもの。


 自分の名誉はもはや次の世代のものになった。これから先は自分自身の名誉を取り戻すために生きる。だがその名誉を為すのはもはや武勲でも御家の再興でもない。焦ることはない。ただ、平和に生きて死ぬ。




 そんなことを考えながら、今日の夕方である。


 シャフラと会う約束をしていたが、何について話そう。今後の身の振り方について相談するつもりだったが、今は白紙になったことを清々しく思っていて、ある意味結論は出ている気もする。いまさら彼女に何を投げかけるというのか。


 会話はしたかった。とりとめのないことを話したかった。

 自分たちの関係がどうであれ、とにかく二十年弱交流を続けてきた相手であることは確かだ。縁を切るつもりもないが、それとなくひと区切りをつけるために思い出話をしたい。


 フォルザーニー邸に彼女を迎えに行く。


 今日の彼女は、白い裾広がりのひとつなぎの服の上に伝統的な臙脂色の上着を着て、薄い絹の垂れのついた円筒形の帽子をかぶっていた。

 久しぶりに長い黒髪を下ろしている。緩く弧を描く豊かな黒髪は古き良きアルヤ美女の象徴だ。


「どちらに参りましょう」


 尋ねられてから目的地がないことに気づいた。


「まあ、その辺をぶらぶら散策したら、適当に展望台にでも登るか」

「貴方にしては無計画ですね」

「たまにはこういうのもいいだろう。お前だって働き詰めで疲れていないか?」

「さして考えたこともございませんが、言われてみればそのような気がするようなしないような」


 そんなことを言いながら二人で歩き出した。


 市場の絹布通りを巡る。特に用事はない。色とりどりの布を眺めて、彼女が服を仕立てるための布を探すのに付き合う。深いことは考えず、彼女に合うかどうかだけを意識して買い物をする。新鮮だった。


 屋台で買った肉を食べる。高貴な身分の彼女は買い食いなどしないようで、小さな口の周りを汚してかじりつくさまは幼くさえあって可愛らしく、オルティは笑いながら拭いてやった。


 寺院にも足を運ぶ。


 この国の寺の中、礼拝堂には、かつてはアルヤ系と言われるアルヤ人しか入れなかった。

 今は、チュルカ系でもサータム系でも、礼拝や儀式を邪魔しない限りは、自由に入っていい。


「時代が変わったな」


 靴を脱ぎ、絨毯の上に腰を下ろして、蔓草紋様の彫られた白い天井を眺める。


「チュルカ人の俺なんかには入れなかったところがたくさんあった」


 その隣で、彼女も膝を揃えて座り、一緒に天井を見上げた。


「それもこれも陛下の御世だからですわね。陛下はこの国を観光立国にしようとお考えです。東西から大勢の人が押し寄せて、悠久のアルヤ文明のなんたるかを味わうことでしょう」

「楽しみだな」

「ですが――」


 彼女の顔がオルティのほうを向く。


「それもこれもすべて貴方が陛下を支えてこられたからです。貴方がいらっしゃらなかったらどうなっていたか。陛下が生きておいでだったかさえわかりません」

「大袈裟だ」

「いいえ、貴方は救国の英雄です」

「ずいぶん優しくなったな。お前の毒舌に慣れたから褒められると不安になる」

「なんと失礼な。わたくしだってひとを褒めることぐらいございます」


 二人で笑った。さざ波のような笑い声が天井に響いた。


「救国の英雄か」


 ふと、息を吐く。


「俺が死んだら国費でエスファーナのいいところに墓を建ててもらえないだろうか」


 すると、シャフラが黙った。


「シャフラ?」


 彼女のほうを向くと、彼女は大きな瞳を真ん丸にしてオルティを見つめていた。


「墓、ですか」

「ああ。墓」

「もう墓など考えておいでですか。それもエスファーナに」

「そう。まだ二十年は先のことだと思うが、これからもこの辺で暮らすんだろうからな」


 次の時だ。


 オルティも目を見開いた。


 シャフラの下まぶたに、透明な液体が宿った。


 何も言えずに見つめていたら、その雫が彼女の頬を伝っていった。


「どうした」


 彼女が泣くのを見るのはどれくらいぶりだろう。もしかしたらなかったかもしれない。記憶にない。

 彼女はけして泣かない女だった。鋼姫はがねひめのあだ名にたがわず――もはや宰相まで上り詰めた彼女を姫と揶揄する人間もいなくなったが――彼女は鋼鉄製で何があっても感情の動きなど見せない女だった。


 泣かせてしまったのだろうか。

 自分の何がいけなかったのだろう。

 うろたえて、つい周囲を見回してしまう。お互いの他に誰もいない。ひとに見られていたらどうしようかと思った。僧侶が戻ってくる前になんとかしなければならない。焦る。


「エスファーナで生活されますか」

「ああ。まだ住むところも確保していないが、当面は姉のところに居候をして、そのうちゆっくり家を買うなり何なりしようと考えている」

「草原には帰られないのですか」

「そうだな。旅行ぐらいは行くかもしれないが、生活の拠点はここになるだろうな」


 シャフラの白い手が伸びた。

 オルティの服の胸をつかんだ。

 彼女がこんな大胆なことをしてきたのは初めてだ。


「帰ってしまわれるかと」


 彼女の声が震えている。


「いずれ帰られるのだろうと。それが貴方にとっての幸福で、お止めしてはいけないものだと思っておりました」


 困ってしまった。


「最初はそのつもりだった。いや、結構最近まで悩んではいた。でも、俺ももう二十年くらいアルヤ王国に住んでいて、ここに大切な人がたくさんいる。それに、もう子供世代が――」

「大切な人とは?」


 涙で滲む声に、オルティの胸も揺さぶられる。


「そこにわたくしは含まれていますか?」


 何と答えようか、一瞬悩んだ。

 何を言ったら彼女は泣き止んでくれるだろうか。彼女をこれ以上泣かせないためには何が正解なのか。


 二人で作った思い出の数々が一気に脳内を駆け巡った。


 あの時も一緒にいた。


 この時も一緒にいた。


 二人でアルヤ王国を作ってきた。


「ああ」


 彼女の肩が震えている。


「俺にとってお前はとても大切な人だ」


 素直に言えた。

 この後どう解釈するかは彼女の自由だ。


 そう思っていた。


 この次の言葉にこそ、オルティは頭が真っ白になるほどの衝撃を受けた。


「では、わたくしと結婚してくださいませんか」


 何と言われたのか、すぐには理解できなかった。


 シャフラが繰り返す。


「わたくしと結婚してください。住むところを探しているのならば、わたくしの家に婿にいらして、わたくしとあの屋敷で暮らしてください」


 つい、自分の前髪を撫でた。特に意味はない。なんとなく手を動かしていないと変な声が出そうだったのだ。


「……いけませんか」


 わかっていたつもりだったのに、今でもまだそんな気持ちでいてくれたのか、と思うと動揺する。


「はしたない女だと思われましたか? 相場ではアルヤ女は殿方を袖にするものと、そういうことを真に受けていらっしゃいませんか」

「いや、そういうわけじゃない」

「ではどうして黙っておいでなのですか。何とかおっしゃい」


 少女のように、しゃくり上げる。


「笑ってお見送りしようと思っておりましたのに。けして重い女だと思われないように、邪魔にならないように。そう思っておりましたのに」

「シャフラ……」

「墓に入ることを検討するくらいエスファーナで長く暮らされるおつもりならば、遠慮するのはやめます。わたくしほど賢く美しく地位も財産もある女はほかにおりませんわよ、わたくしを選んだらいかがです」


 そう言ってから、自分で「嘘です」と言ってしまった。


「わたくしを捨てないでください。わたくしは重い女です。愚かな女。しかももう次の冬には三十五の年増。でも貴方に可愛がっていただきたいのです。他の誰でもなく、貴方に」


 オルティは笑った。

 そして、彼女を抱き締めた。

 いつか嗅いだ茉莉花ジャスミンの匂いがほのかに香る。あの頃から何も変わっていない香りだ。


「わかった」


 強く、強く、潰すつもりで抱き締めた。


「待たせてすまなかった」

「オルティさん」

「一緒に暮らそうな。お前の家にお世話になります」


 彼女がオルティの胸に額を押しつけた。


「これからもどうぞよろしくな」




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