第5話 生きて失う名誉は一代限りのもの

 ギゼムの家に帰ると、ギゼムの夫が存命中からずっとこの家にいるらしい白髪の家令が駆け寄ってきた。


「オルティ様にお客様です」

「俺に?」


 驚いた。確かに複数の人間に仮宿として姉の屋敷に身を寄せていることを明かしていたが、わざわざ訪ねてくる者が出るとは思わなかった。ギゼムに迷惑をかけてしまっただろうか。


「どなただろう」

「ユルドゥズ様と名乗られました。平原チュルカ人とお見受けする方で、年の頃は二十代前半と思われる若い男性です。ご存知ですか」

「わからんな。ユルドゥズという名もチュルカ人には掃いて捨てるほどいるんだ」


 平原出身者はみんながみんな同胞意識を持っているわけではない。しかし今のオルティは平原の人間を無条件で受け入れたい気分になっていた。仕事を辞めて望郷の思いを新たにしたからだろうか。


 今でこそ上品な奥様だが、ギゼムはもとは兄弟一の荒くれ者である。野生の本能で敵味方を嗅ぎ分ける彼女が家に上げたということは、そんなに危険な相手ではない。


 小走りで客間に行く。


 部屋に入ると、奥にギゼムが座していて、手前にオルティのほうへ背中を向ける形で男が座っていた。


 家令の言ったとおり、平原系のチュルカ人だ。濃緑と黄色の二種の染料で色を付けた布に臙脂色の刺繍が入った上着を着ていて、下半身は裾を絞った乗馬向きの筒袴をはいている。長い黒髪は少年の頃のオルティがしていたように一本の三つ編みにまとめていた。


 彼が振り返った。


 どこかで見覚えのある顔だった。


「俺がオルティだが」


 ギゼムが「おかえりなさい」と言って微笑んだ。その表情に緊迫感はない。やはり危険な相手ではなさそうだ。


 青年が座ったまま深々と頭を下げた。


「お会いできて嬉しいです。ずっといつお伺いしようか悩んでいたもので」

「失礼だが、どちらの方だろうか? どこかで知り合っただろうか」

「直接お会いするのは二十年くらいぶりで、俺も小さかったので憶えてはいません。でもずっと宮殿で働いているのは知っていましたし、父から子供の頃の話をたくさん聞いています」


 彼ははにかんだような表情を浮かべた。


「俺はユルドゥズです。グルガンジュ王国第二王子イッキの次男です」


 その名を聞いた途端、少年の頃の記憶が頭の中にぶわっと広がった。

 穏やかで優しかった次兄の笑顔が浮かんだ。ハンの息子のわりにはおとなしい人だったが、子供たちをよく守り、果敢に弓を放つ戦士だった。

 彼には息子が二人いた。そのうちの次男は確かにユルドゥズという名だった。

 言われてみれば、彼の顔に兄の面影がある。彼はオルティにとって甥なのだ。


 オルティはユルドゥズの目の前で膝を折った。


「イッキ兄は生きてグルガンジュを脱出していたのか?」

「はい、俺たち兄弟を抱えて逃げました。俺自身はまだ三歳だったのでまったく憶えていないんですが、親父から聞くところによると、兄貴と俺の二人だけ連れてアルヤ王国に落ち延びたんだそうです。母と妹は助けられなかったようです」


 痛ましい話だ。文字どおり腕で抱えられるだけの子供を連れて馬に乗ったのだ。妻や娘は捨てざるを得なかったということになる。

 それでも、生きねばならなかった。

 どんなに多くのものを捨ててでも、自分たちは生き残って再起の時を待たなければならなかった。


「で、イッキ兄は?」


 ユルドゥズが首を横に振った。


「三年前病で亡くなりました」


 オルティは拳を握り締めた。


 父を同じくする兄弟だったのに、死に目に会えなかった。


 ぐっとこらえて言葉を探す。


「アルヤ王国で亡くなったのか?」

「はい。ここエスファーナで」

「どうして俺に連絡をくれなかったんだ。三年前なら俺がどこで何をしていたのか知っていただろう? 別れの挨拶くらいさせてくれてもよかったんじゃないのか」


 あの優しい次兄が非情な理由で弟を遠ざけるはずがない。

 そう信じたオルティにもっと残酷な現実が突きつけられた。


「知っていたからこそです」


 ユルドゥズの、父親の面影のある穏やかな笑顔が、悲しい。


「親父はオルティさんに会うのを控えるようにと言っていました。けして助けを求めてはいけないと」

「どうして」

「オルティさんには地位も名誉もあったからです」


 兄弟と再会するために、上り詰めたのだ。


「ずっと、ハンの息子であることを知られたら目をつけられるかもしれない、という不安があったようです。実際にはロジーナ帝国にとってはほんのちっぽけな草原の王国の生き残りなんて敵にもならなかったようですが、アルヤ王国がオルティさんを受け入れるか否かですったもんだしたのを鮮明に記憶していたようで。自分たち親子の身を守るためには隠れていなければならなかった」

「それは、わかるが」

「気がついたら、オルティさんは白将軍代理にまで出世していました。ここでハンの息子同士接触したらせっかくオルティさんが出身地を伏せて戦ってきたのを無駄にしてしまう。今じゃない。オルティさんが一線を退いて、仕事に障りがなくなる頃まで、我慢しろ、と」


 自分がすべきことは逆だった。


「俺たち兄弟に、口を酸っぱくして。叔父の足を引っ張るな、と。けして養ってもらうようなことがあってはいけない、と」


 頭を殴られたような衝撃を受けた。


 彼らのことを思うなら、徹頭徹尾グルガンジュ王国の生き残りでいなければならなかったのだ。


 自分が今までしてきたことの大半が無駄だった気がしてきた。

 泥水をすすって生きてきた十九年間だったのに、それが逆に兄や甥たちを抑圧してきたのか。


「……すみません。将軍代理を辞められたと聞いて、今だ、と思って訪ねてきたのですが。もうちょっと早くこっそり連絡すればよかったですね」

「いや……」


 言葉が出ない。


「……いや……」


 ユルドゥズ青年が再度「すみません」と頭を下げる。


「オルティさんにもオルティさんなりの深い事情があったんでしょう、と思うと、なおのこと、迷惑をかけるわけにはいかなくて。親父が死んだ後も、兄貴と話し合った結果、俺たち兄弟が余計な口を出すのはやめたほうがいい、と判断しました。でも、平原系の在エスファーナのチュルカ人が、オルティさんが突然仕事を辞めた、と言っているので、こりゃまたいきなりどうしたものか、と思って。逆に俺たちでできることがあればお助けしようと思ったんですけど」

「そうか」


 甥の前で情けないところを見せたくないので、オルティはいろんなものを抑え込んだ。深く息を吸い、吐く。


「いや、大丈夫だ。お前たちが心配することはない。俺もよく知っている身近な人間とアルヤ王の間できちんと話し合われて進んだ話で、俺は納得して位を譲り渡したんだ」

「そうですか」

「名誉より大事なものはないだろう? 俺はアルヤ王や俺の後任者の顔を潰したくなかった」

「それは確かに。オルティさんはチュルカの戦士として正しい判断をしたと思います」


 チュルカの戦士として、という言葉が重い。


 はたして、自分は本当にチュルカの戦士として正しい行いをしてきただろうか。兄や甥といった本物の同胞に遠慮までさせて守りたかった名誉とは何だ。


「オルティ」


 ギゼムが穏やかな声で言う。


「あまり気に病まないようにね。イッキもイッキなりにたくさん考えて判断したことなのでしょう。ここで呑み込むことはイッキの判断を支持することであって、けして裏切りではありませんからね」

「だが……、姉貴は悲しくないのか? 兄貴に会えずじまいだ」

「仕方がありませんね、当時はアルヤ王国で戦うかチュルカ平原で戦うかの二択しかなかったのですから。私たちにできるのはどちらを選ぶかだけでした。そしてアルヤ王国を選んだ」


 姉の言うとおりだが、すぐには納得できそうにない。


「今のことを考えましょう。幸いにも私たちの王はもうアルヤ王国とチュルカ平原の二択を迫るお方ではありません。そしてその王を支えてきたのはお前です。そのことを誇りに思いなさい」


 それでもなお沈黙したままのオルティを見て、不安になったのだろう。


「あの、俺、本当に、迷惑をかけてないでしょうか」


 ユルドゥズが言う。


「俺は――俺たち兄弟や親父は生き恥を晒して生きてきたんでしょうか? ギゼムさんやオルティさんの名誉を傷つける身内にはなっていないでしょうか」


 するとギゼムが言った。


「父の――お前にとっての祖父の言葉に、こんなものがありました」


 オルティは両目を見開いた。


「生きて失う名誉は一代限りのもの、死んで失う名誉は子々孫々のもの」


 なつかしい言葉だ。

 少年の頃、姉に、そして両親に何度も言い聞かせられてきた言葉だ。

 どうして忘れていたのだろう。


「いいのです、恥をかけば。大事なのは次の世代につなぐこと。自分たちの子や孫を守れるのであれば、積極的に恥をかきなさい」


 泣きそうになった。


「そうだな」


 オルティは両手を握り締めた。


「俺も結婚して子供を作ればよかった」


 そうこぼすと、姉が小さく声を漏らして笑った。


「いいではありませんか。ユルドゥズがいます。サヴァシュ殿のお子さんたちや、十神剣の若者たちも。私たちには次の世代がちゃんといますよ」


 ユルドゥズが唇を引き結んでうつむく。


「そう言ってくれますか」

「ええ、もちろん」

「俺、グルガンジュにいた時の記憶は何にもないのに。チュルカ語ももう話せないのに」


 オルティは苦笑した。


「それでも。生きていてくれて、ありがとう」




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