第3話 家買うたらええんちゃいますの
仕事がないとやることがまったくないので、エスファーナをさまよっている。
ここ数日、黒軍の官舎に顔を出してみたり、チュルカ系の古い知り合いを訪ね歩いたりしていたが、とうとう行くところがなくなって、オルティはサヴァシュの家に向かった。
オルティはこの十年ほどこの家に行くことを敬遠していた。
ユングヴィがいないからだ。
オルティの中では、この家はユングヴィの記憶と結びついていた。
ユングヴィの笑顔、ユングヴィの手料理、少し舌足らずな口調でさえすべてがなつかしく、彼女がいないこの家というのは耐えがたい。
もしかしたら、自分にとってはユングヴィこそ理想の女性だったのかもしれない。気立てがよく、子供が好きで、小難しいことは言わず、いつも愛嬌のある笑顔を振りまいていた。
という話を夫であるサヴァシュや息子であるソウェイルやホスローに言うのははばかられるので、結局誰もオルティの足がこの家から遠のいていた理由を知らない。長く生きていればそんなことのひとつやふたつはあるものだ。
ギゼムに、女のひとりやふたりいないのか、と言われた。
思わずひとりで「うーん」と唸ってしまった。
門をくぐると、見覚えのある召し使いの女が出てきた。まったく老けていないのかと思ったが、どうやら娘のようである。あの頃の女性はもう亡くなったというのだ。これが十九年の歳月か。
十九年も経てば世代はひとつ変わる。
彼女が「奥様」と呼んで出てきたのはユングヴィではなくスーリだ。
「わーっ、オルティさんやー! 元気しとったー?」
朗らかな笑顔の彼女は少しユングヴィと重なるところがある。姿かたちは、大柄で筋肉質で赤毛だったユングヴィと華奢で猫のように可愛らしい顔立ちのスーリでは、まったく似ていない。それにスーリのほうがずっと機転が利いていて賢い。だが、ホスローが惹かれた理由はなんとなくわかる。
「それがあんまり元気じゃなくてな。それで今こそこの家に来れば何かしら得られるような気がして――」
二階から何かが割れる音と怒鳴り声が聞こえてきた。オルティはぎょっとして二階を見上げたが、スーリは慣れたものだ。
「アーレズが癇癪起こしてんのやわ。弟たちと喧嘩するんですわ」
「いつもこうなのか」
「はい」
スーリはにこにこしている。
「いいんです。自己主張するようになってうちらも安心してます。もっと喧嘩したらええねん。黙ってじっと耐えてるのんはあかん」
おおらかな家庭だ。
彼女の言うとおりかもしれない。行儀は悪いが、カノに抑圧されて縮こまっていた彼を思うと、癇癪を起こして怒り狂うのもひとつの成長かもしれなかった。
彼女に導かれて家の奥に上がる。
建物の上に白い月が見えた。今日も日が暮れようとしている。オルティは何もしていないのにもかかわらず、だ。社会から隔絶されたこの感じは筆舌に尽くしがたい。
奥の部屋、食堂として使われている部屋に入ると、ホスローが食事の支度をしていた。この家は男もよく働く。ソウェイルもこの家にいる時には積極的に食事の準備をしていたのを思い出した。
「おー、なんか久しぶり。仕事終わったの?」
「それが今無職なんだ」
「は?」
オルティの隣でスーリも「ええっ」と声を裏返した。
「なに? 無職? 俺の聞き間違い?」
「いや、無職なんだ。本当に」
「白軍の仕事は?」
「ソウェイルに辞めるよう言われた。クバードに譲ってほしい、と」
クバードの名前を出すと、ホスローもスーリも納得してくれたらしい。そういえば、ホスローとクバードは幼馴染で、今でも親しくしている。この二人はもしかしたらクバードから白将軍としての意気込みなどを聞いているかもしれなかった。
「まあ……、今からちょっと詳しく聞く」
ホスローがその場にどかりと腰を下ろした。
「スーリ、悪いけど親父呼んできてくれる? ちょっと大人みんな集合してオルティさんの話聞こうや」
「はい」
スーリの軽い足音が廊下に消えていく。
「大袈裟だ」
「なに言ってんだ、オルティさんの進退のことになったら大騒ぎに決まってんだろ。俺ら実質家族じゃん」
オルティはまたユングヴィを思い出して苦笑した。
「うーん」
夕食を取りながらあらかた話し終えた。
ホスローが両手を自分の体の後ろのほうにつき、伸びをしながら唸るような声を上げる。
「いや、わかる。兄貴とクバードのしたいことはわかる。けど、オルティさんマジ宙ぶらりんだな」
「そうだろう? 俺ももうどうしたらいいのかわからん」
そう口にすると自分が本当に動揺したのを再認識できた。やはりこの家は特別なのかもしれない。
ソウェイルと一対一で話をしたらもっと自分でも気づいていなかった自分の本心というものを引きずり出せそうな気もした。けれど深い理由はなく避けていた。あの時ソウェイルは近々飲もうと言ってくれたし、ソウェイルの使いの者がギゼムの家を訪ねてきてくれたりもしたが、それとなく断ってしまったのだ。
どこかに深い理由があるのかもしれない。自分でも認識できない何かが、あるのかもしれない。
不安、恐怖、焦燥、憤怒――三十五歳の男性であるオルティにとっては認めがたい何かが、本当は、あるのかもしれない。
「いや、いやー……まあ、いずれにせよ、もう戻る気もないんだ。白軍の官舎をもう引き払ってしまったしな」
「じゃ、うちいれば?」
アーレズが「まだ増えるのかよ!」と怒鳴った。ホスローは冷静な顔で「決定権は家長である俺にあんだよ」といなした。
「差し当たって次の職を探すんだな」
言ったのはサヴァシュだ。
「意外だな、親父がそんなこと言うんだ」
「俺を何だと思ってんだ」
「俺は今でもおぼえてるぜ。兄貴が王位を継承するしないで揉めてた時、親父はやったー失職だーって喜んでたじゃん」
「状況によるだろ。俺は騎馬隊の隊長という仕事がなくなっても女房子供がこの家にいたし黒将軍としての地位は消えないんだからよ。何かしらあったんだ、何かしらは」
なるほど、と思ってオルティは頷いた。今のオルティには何もなかった。
「居場所やろか」
匙を振り回しながらスーリが言う。
「オルティさんはなんやかんや言うて陛下の隣がよかったんやろなぁ。陛下は情の深いおひとやし、一生一緒におっても不安はなさそうやもんなぁ」
「いや、別にソウェイルと縁が切れたわけじゃないから」
「ほんならええんですけど」
しかしスーリの言うことにも一理ある。今のオルティには居場所がない。物理的にも心理的にも姉の家に間借りしていてあそこを仮宿だと思っている。長く暮らしたら馴染むものだろうか。
「十九年やろ。二十年弱おったんやで。オルティさんが三十五歳というと、人生の半分以上エスファーナですわ」
「いや、もう、本当に、まったくそのとおりなんだ」
「ええんちゃいますの、家買えば。エスファーナに住んだらええんちゃいます? お金はありますのん?」
「まあな、一応本来白将軍が貰うくらいの給金は貰ってた。この先お前らが貰えるような年金は貰える感じじゃないが……十神剣じゃないからな」
空の皿にまた別の空の皿を重ねる。
「職……家……」
相談、というほどのものでもないと思うが、ひとに話すといろいろ出てくるものである。来てよかった。
「――姉貴に女はいないのかと言われたな」
この家には、かつてはユングヴィがいて、今はスーリがいる。
「結婚したら安心できるんだろうか」
ホスローが「いやぜんぜん」と言ったのでスーリがホスローの頭をはたいた。
「真面目な話、所帯持ったら持ったでいろいろ責任が発生するからな。今の宙ぶらりんの状態で嫁を迎えるのは現実的じゃない」
「そうなん!? ホスローのあの軽率に嫁に来たらええやんみたいなの何やったん!?」
「ぜんぜん軽率じゃねーよ、俺はあの頃からちゃんとお前の一生を背負うつもりだったんだっつーの」
このままだと夫婦喧嘩になりそうだ。あまりにも馬鹿馬鹿しい内容だが、子供の教育には良くないだろう。十歳と十二歳の妹が見ている。オルティは「はいはい、やめやめ」と言って指先で床を叩いた。
ホスローの言うとおりだ。今の自分が嫁を迎えるのも現実的ではない。やはり、職か、家か。
「うわー、もう考えるのに疲れた。もう何も考えずに年老いて平和に死にたい」
「お前がそういうことを言うのは珍しいな、よっぽど追い詰められてるんだな」
スーリが匙を置く。
「いっそのこと陛下に相談してみたらどうです? 陛下も無責任に言わはったわけやないやろ、責任感の強いお方やもん」
「そうか? 俺はあいつの無計画に結構振り回されてきたけどな。スーリはソウェイルが大好きなんだな」
「せやで。うちホスローの次に陛下好きやからおんぶにだっこや」
「まあ、まあ、スーリと兄貴の関係は置いておいて、数撃ちゃ当たるじゃないけど、やたらめったらいろんな人に相談してみたらどうよ? ヒマなんだろ。総当たり戦してもいいんじゃないの」
次の時、ホスローの言葉にオルティは目を丸くした。
「たとえばシャフラさんとか、シャフラさんとかシャフラさんとかさ……、いや、まあ、その、頭のいい金持ちに相談してみたほうがさ」
「あ」
「ん?」
「そういえばシャフラに辞めたことを報告していないな。ソウェイルが何か言ってくれていると思うが、俺の口からも言ったほうがいいんだろうか」
場が静まり返った。
「いや……、それは、大至急……」
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