第2話 あれから19年
オルティは早々に荷物をまとめて白軍の官舎を引き払ってしまった。ソウェイルにそこまで言われたわけではなかったし、白軍関係のいろんな人に止められたが、どうしてもそうしたかった。
自分の居場所はここにはもうない気がした。
申し訳ないが、来月末までの残り一ヵ月強を普通に過ごせる気はしない。
自分がいなくてもクバードはひとりで何でもできる。今突然失踪しても――するつもりはなかったが――白軍は機能する。
自分ひとりがいなくなったところで、アルヤ王国は回り続ける。
オルティは姉ギゼムを訪ねた。
彼女は王都の郊外、武家屋敷街にあるとりわけ大きな邸宅で暮らしていた。
十九年前、彼女はこの土地にアルヤ王国が興る前から存在していたという大きな武家に嫁いだ。夫に先立たれた後もひとり屋敷に残ってひっそりと暮らしている。
三本の
『さようか』
姉とふたり向き合って正座をして、チュルカ語で会話をする。
『ふむ。私も驚いた』
『俺は驚いていない』
『いいや驚いている。素直に認めよ』
二人揃って少し沈黙した。
オルティは深く息を吐いた。
「奥様」
扉の向こう側から、アルヤ人の女中の声がする。
「お茶の支度ができました。準備させていただけませんか」
「ありがとうございます。どうぞお入りなさい」
静かに扉が開き、女が入ってくる。絨毯の上、ギゼムの前とオルティの前に茶と
「御夕飯はどのように致しましょうか」
「突然で申し訳ありませんが、弟の分も用意してください」
「かしこまりました」
「今日から当分ここにとどめ置きますので、そのつもりでいてくださいませんか。家令たちにも後で説明しますが、あなたの口からもそれとなく伝えておいてください」
「はい、すべて奥様のお言葉のままに」
女中が無言に頭を下げ、部屋から出ていく。
オルティはいまだに慣れない。
ギゼムはいつの間にかアルヤ語を流暢に話すようになっていた。服装もアルヤ風に改めた。どこからどう見てもチュルカ系アルヤ人の奥方だ。
これだけはチュルカ風を譲れなかったのか髪をひとつの長い三つ編みにしているが、真っ黒だったのにちらほらと白いものが交ざるようになっていた。口元にははっきりとしたしわがある。けれど伸びた背筋は今でも若々しく、高貴な婦人として申し分ない。
若い頃は荒くれの女武者だったというのに、ずいぶんと上品になったものだ。一応もともと王族ではあったが、彼女は兄弟でも一番の暴れん坊だった。もはや信じられない。
遠い昔のことになった。
オルティが三十五歳ということは、ギゼムは四十五歳だ。
二人とも、長い時間を、アルヤ王国で過ごした。
『して、オルティよ』
姉がチュルカ語でオルティに向き直る。
『これからどうする気なのだ』
『決めていない』
『それもそうか、昨日今日の話ではな』
『しばらく決められぬやもしれぬ』
『しようがあるまい。ゆっくり考えよ。我が家は何も急かさぬ、何ヵ月でも何年でもおればよい』
そう言う姉の様子にためらう姿勢はない。弟が居候をするのを当然のことと思っているのだろう。
ありがたいが、素直に喜べない。
彼女の夫でありこの家の主であった男は、ソウェイルの敵の筆頭だった。
もう二十年近く前の話をまだ引きずっているのかと思うと少し情けない。だが、十代の感受性が豊かだった頃に抱いた悪感情の記憶はなかなか抜けない。
『何年も、か』
『というのは大袈裟やもしれぬが、それくらいの心持ちでいてもよい。なんなら一生涯ここで暮らしてもよいのだ。何せうちには子がなく、使用人たちはおるが基本的には私ひとりだ』
オルティは悩んだが、今考えても答えが出ることではないだろう。しばらくは呆けて姉に甘えてもいいのではないか。
『今まで二十年近くソウェイル王に尽くしてきたのだ』
姉の笑顔が優しい。
『私も王が悪いとは思わぬ。少年の頃のお前は王の機転で命を救われた。しかしその御恩にはもう報いた。お前はもう王から自分の命を買い戻すに足る時間を過ごしたのだ』
『うむ』
『我々は本来
『王も同じようなことをおおせであった』
昨日のソウェイルの悲しそうな顔を思い出す。
――草原に帰りたくなかったか。
『遠回しに、御家の再興はいかがした、と問われているように思う』
ギゼムの黒い瞳が、オルティを見つめている。
『わからぬ。二十年近く経ってしまった』
彼女はすぐ言ってくれた。
『もうよい』
『姉者』
『お前の思うがままにせい。私はもはや行けとは言えぬ。私自身がここから動く気をうしのうてしまったこともあるしな』
そして付け足す。
『ただ。……我々に残された時間はさほど長くない』
チュルカ人は五十を超えれば老人だ。六十、七十と長生きをするアルヤ人とはわけが違う。オルティはもう三十五歳、普通に考えれば寿命のほうが二十年以内に尽きてしまう。
人生の終わりが見える。
アルヤ王国のいい水、いい空気で二十年過ごした自分が突然病で死ぬ気もしなかったが、妻亡き後急激に老け込んだサヴァシュを見ていると自分はああならないとは言えない。
『それを前向きにとるか後ろ向きにとるか。短いからこそ賭けるか、残りを大切に生きるか』
オルティはまた考え込んでしまった。やはり、そう簡単に答えを出せることではない。
『グルガンジュ王国か』
十九年も前に滅んでしまった国だ。もう憶えている人のほうが少ないかもしれない。
オルティは自分が目立てば仲間が集まってくるのではないかと思っていた。
グルガンジュ王国の第六王子であったオルティは死んだことにしたが、そんなことなど誰も信じていない。見ればわかるだろう。
王子であったオルティが生きていることを知れば、オルティを中心にグルガンジュ王国の生き残りが集まってくるのではないか。
楽観的すぎた。
まったく出会わなかったわけではない。白将軍代理として働くかたわら、アルヤ王国に住み着いた草原チュルカ人から話を聞いてグルガンジュ王国の生き残りを探し続けた。
出会った人々はアルヤ王国にとってもグルガンジュ王国にとっても一般人で、国の再興のために命を懸けようという者はいなかった。大半は水と緑の豊かなアルヤ王国でゆっくりとした余生を送りたいと思っていた。
まだ連絡を取り合える者もなくはないが、何人かはせっかくアルヤ王国で得た高位の官職を大事にしてほしいとまで言ってきたので、オルティとしてはあまり歓迎したい連中ではない。
ひとりでノーヴァヤ・ロジーナ帝国に立ち向かうのは無謀だ。
それに、やはり、ソウェイルは一貫して関与を拒んでいる。
十九年前の出会った頃にもそう言っていたし、その後サータム帝国の陰謀でロジーナ人の妃を貰うはめになったのでなおさらだろう。
ジャハンギル、シャーザード、シャーダードという王子が三人もいる中、王女アナーヒタを持ち上げる人間はいなくなった。だが、それでも第一王妃であり第一子を生んだエカチェリーナを無視することはできない。
アルヤ王国から援軍は出ない。
現実的ではない。
しかし――望郷の思いは今でもまだある。
遥かなる草原、どこまでも続く蒼穹、時刻に囚われない暮らし、家畜の声――都市で育ったといっても結局のところオルティの心のふるさとはそういうところだ。チュルカ人として草原に生を受けた者はだいたいそうではないのか。
『ひとりで草原に帰るか』
本気でそう思っているわけではない。けれど、言ってみたかった。
『ふらりと。何と戦うわけでもなく――何を為すわけでもなく、草原に
遠く窓の外を見やった。中庭に六芒星の形をした緑が見えた。
『寂しいが、悲しいが、お前がどうしてもと申すならば私は止めぬ。つらいが見送ろうぞ』
彼女もあくまでチュルカ人なのだ。望郷の思いは理解してくれている。だが一緒に行くとは絶対に言わない。ただ送り出してくれる。優しくて悲しい。
『冗談だ』
『私にはお前の横顔が本気に見えた』
『気にしすぎだ』
『お前が異様に疲れているように見える。冗談ではなく消えてしまいそうだ。緊張が解けて今までの疲労が噴出しているのではあるまいか。やはり肉でも食って寝たらよかろう』
『そうやもしれぬ』
そこでふと、姉が変なことを言い出した。
『ひとりで、か』
オルティは彼女の顔を見た。
彼女が真剣なのがおかしかった。
『連れていくおなごなどはおらぬのか』
『はあ?』
『三十五にもなってお前、女のひとりやふたりおらぬわけではなかろう。父上はお前と同じ年の時六人妻があったわ』
思わず「ははは」と笑ってしまった。
『おらぬ』
『さようか』
『仕事以外のことを考えたことがなかった』
『つまらぬ人生だな』
『余計なお世話だ』
姉が顔をしかめる。
『
十九年ぶりに言われた言葉だった。すっかり忘れ去っていた。
『今の俺は住所不定無職なのだが、嫁いでくる女があると思うか?』
今度はギゼムのほうが笑った。
『変なことを申したな。とりあえず、飯を食ろうて寝ろ』
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