第20章:草原の狼の息子と黒髪の姫君
第1話 二度目の死
オルティが王の執務室に入ると、正面の座椅子にソウェイルが座っていて、そのすぐそばにクバードが立っていた。
二人とも何とはなしに難しい顔でオルティを見ている。
オルティは少し驚いた。
何があったのだろう。
この二人はとても仲がいい。ソウェイルはテイムルの息子であるクバードをこの上なく可愛がっていたし、クバードも白将軍家の一族として例に漏れず王室の人間をとても大事にしている。したがってちょっとやそっとのことでこの二人が険悪な雰囲気になるのは考えられない。
クバードは白軍幹部になった。ソウェイルの身辺警護をする人間の中ではオルティの次と言ってもいいほど位が高い。ソウェイルの身の回りで何かが起これば真っ先に責任を問われる立場だ。
しかし一見したところソウェイル自身に何かがあったわけではなさそうだ。だいたい、宮殿の中で危ないことがあればもっと大騒ぎになっているだろうし、まずオルティのところに連絡が来るはずである。
最近はソウェイルの敵もほとんどいなくなった。
かつてはサータム帝国の残党がいて宮殿の中でソウェイルの身が危険にさらされたこともあった。
だが、ソウェイルは少しずつ宮廷から帝国の人間を排除していった。実に十年もの歳月をかけてすべてアルヤ人に置き換えていったのだ。
ちなみに、ここでいうところのアルヤ人とは、チュルカ系アルヤ人やサータム系アルヤ人も含まれている。
現在のアルヤ王国の宮廷では、改宗してアルヤ王国臣民になることを宣言できれば出自を問わずに出世の道が開かれている。
これもサータム帝国から輸入された制度だが、今のところはうまく機能している。少なくとも宮廷にいる人間は全員ソウェイルに忠誠を誓っていた。蒼宮殿にいる限りソウェイルはすべての臣下の者から守られていると言える。
戦争の予定もない。
東のラクータ帝国とはもともと友好的な関係だ。西のサータム帝国とも十年前の戦争で下して以来アルヤ王国のほうが優位な立場にある。北のロジーナ帝国も第一王妃エカチェリーナやチュルカ平原という緩衝地帯が存在するので今すぐどうこうとはいかない。
ついでにいえば南は海で、海を通じてやって来る東西の人間はアルヤ王国を気に入っており、経済的な保護者でもあるアルヤ王を尊重してくれる。
ソウェイル自身が二度と戦争をしたくないと言っている以上、武官も文官もそれに黙って追随すべきだ。文句を言う人間は宮廷にはいない。いれば排除の対象になる。そこだけはソウェイルも譲らず一線を引いて説得したり罷免なり左遷なりを考えたりしていた。
こういう状況では白軍兵士の仕事もそんなに多くはない。クバードはテイムルのように一年中ソウェイルに張り付いているわけではなかった。
さて、それでもソウェイルとクバードが二人でぶつかる困難とは何か。
「どうした?」
平静を装い、極力落ち着いた声で尋ねた。
二人とも立派な大人になったが、オルティは変わらぬ態度を貫いている。兄のように、父のように、ソウェイルには親友として、クバードには先輩として、オルティはいつでもこの二人に寄り添ってきた。ちっとやそっとのことでは変わらない――
はずだった。
「オルティ」
ソウェイルが息を吐きながら言った。
「とても大事な話がある。落ち着いて聞いてくれないか」
オルティは何気なくを装って頷いた。
「何だ? 言ってみろ」
多少のことならどうにかしてやると、口には出さなかったがそういう気持ちを言葉に添える。
「オルティに、頼みというか、何というか……、お前の話なんだけど」
「俺か?」
思わず瞬きしてしまった。
「俺に用事だったのか?」
「そう。オルティ個人に」
「俺個人に?」
なんと、この二人が難しい顔をしていたのはオルティに用事があったからなのだ。
「どうした? 俺が何かしたか?」
ソウェイルの蒼い瞳が下を向く。何もない文机の上を眺める。
クバードは何も言わなかった。無言でソウェイルとオルティのやり取りを見守っていた。
「……どうしたんだ、本当に」
さすがのオルティも不安が込み上げてきた。
覚悟を決めたのだろうか、ソウェイルがゆっくり口を開いた。
「クバードを正式に白将軍としたい」
ソウェイルとクバードを交互に見た。
「申し訳ないが、白将軍代理の地位を返上してくれないか」
二人とも、オルティの顔を見ないようにしていた。
「……なるほど?」
少し考えて、顎に手を当てる。
「俺、ひょっとして失業するのか?」
二人は何も言わなかった。それが何よりもの肯定だ。
今度は三人で沈黙した。
いつかはこういう日が来るとは思っていた。
誰がどう見ても白将軍はクバードだ。
白将軍家の長男に生まれた。白軍兵士としての研鑽を積んだ。何より、白銀の神剣を抜き、継承した。
クバードに問題のある人物だったらオルティが今の地位に居座り続ける可能性もあっただろう。けれど、クバードは立派な青年に成長した。ここだけの話、ソウェイルしか見えていなかったテイムルよりクバードのほうが広い視野で物事を見ている。彼は十神剣の中でも王家の守護者の中でもうまく立ち回っていて心配はなかった。
いつかは、白軍にオルティがいらなくなる日が来る。
だが、今日だとは思っていなかった。もっと先の、遠い未来の話だと思っていたのである。
「ちょっと、聞いてもいいか?」
ソウェイルが「何だ?」と静かな声で応じる。
「どうして今?」
「来月クバードが二十三歳になる」
オルティは納得した。
「お前が宮殿に戻ってきた時のテイムルさんと同じ年だな」
「よくわかったな」
「いろんな人から百回は聞いた」
ソウェイルが九歳の時だ。オルティは知らない時代だが、ソウェイルにとっては特別な時代だったことは知っている。
「来月末付けで今の仕事を退いてほしい」
クバードがぽつりと「ごめんなさい」と言った。声が弱々しい。
「僕があなたから仕事を奪ってしまうんですよね。本当に申し訳ない」
オルティは明るく笑った。
「いいことだ。お前が、大人として、いろんな人に――ソウェイルに認めてもらえたということだろう」
「でも」
「俺のことは気にするな。いつかは白将軍が白軍の頂点に立つことで正常化すべきなんだ。それが今来ただけだ」
少し唐突だったが、とは言わなかった。
思っていたより動揺している自分がいる。
これが、アルヤ王国のあるべき姿だ。
自分の役目は終わった。
自分はあくまでつなぎに過ぎなかった。代理は代理でしかない。本物にはなれないのだ。
本物の白将軍になりたいわけではない。
なのに、どうしてこんなにもやもやするのか。
「ごめん」
ソウェイルが立ち上がる。
「もっと早く言うべきだった。でも俺が決心できなかった。いつにしようかずっと考えていて、暦を見て、これ以上クバードを待たせるわけにもいかないと思って――」
「俺は何も言っていないぞ」
苦笑してみせる。
「言い訳めいたことは言うな。そうと決めたらそう。貫け」
うつむいた彼の姿に少年の頃を思い出した。
「しっかりしろ。たったひとつの人事異動でそんな顔をするな」
「だけど」
ソウェイルが拳を握り締める。
「俺が王になってからの十九年間俺はお前を振り回し続けてしまった。なのに俺は何ひとつ報いることなくお前を切り捨てようとしている」
彼がそう言ってくれたことで、自分のもやもやが言語化された。なるほど、自分は自分が使い捨てられようとしているように感じるのか。
昔は考えていることを言葉にできないソウェイルを見つめてやきもきしていたというのに、いつの間にかソウェイルのほうがこういう繊細な人間の機微を説明できるようになっている。
「本当は考えたんだ。お前に新しい役職を、と。でもそうすると――」
「俺が顧問みたいな形で残ると気分を悪くする人間が出てくるよな。俺は十神剣でもなければ王族でもない、何の後ろ盾もないんだ。俺ひとりのために新しい官位を作るわけにはいかない。いらん揉め事は未然に防ぐ。わかる」
「……ありがとう」
「わかるんだ、俺には。……わかる」
また少しだけ、間が開いた。
ソウェイルは今一生懸命考えている。伝わってくる。
「まあ……、いいだろ」
オルティはせいいっぱい笑ってみせた。
「俺は十六の時に一度死んだ身だ。二度目の死、といったら大袈裟だが、また身分が変わるくらい何ということもない」
「申し訳ない」
「だから、謝るな。別に俺の首を刎ねたいわけじゃないんだろう?」
「当たり前だ。でもお前を裏切った気分だ」
「気にしすぎだ」
ソウェイルの腕を叩いた。
「縁を切りたいわけじゃない。公的なつながりがなくなっても俺にとってお前は親友で家族だ」
「ありがとな。その言葉だけで俺は満足だ」
だが公的なつながりはなくなる。もはや自分が蒼宮殿の南側に出入りすることはなくなるのだ。
「グルガンジュが陥落した時に死ぬ予定だった身がこの年まで生きた。お前のおかげだ」
「そう。それもある。これからは自分のことに専念してほしい」
気づかれないよう溜息をついた。
「逆に考えて。……俺はこんな年になるまでお前を束縛してしまった。お前は草原に帰りたくなかったか?」
痛いところを突かれた。
「……少し、気持ちの整理をさせてくれ」
「もちろんだ」
ソウェイルから離れ、今度はクバードの肩を叩いた。
「がんばれよ」
クバードが泣きそうな顔で頷いた。
「じゃ、今日のところはもう下がる。執務室の荷物をまとめる準備をさせてくれ」
踵を返した。扉のほうへ向かって歩き出した。
「オルティ」
振り向きたくなかった。
「また近々二人で飲もう」
オルティは無言で頷き、部屋を辞した。
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