第15話 後宮《ハレム》の女主人は誰ぞ






 後宮ハレムに帰った時、カノはひどく緊張していた。

 ここを出ていった日のことを鮮明に思い出したからだ。

 忘れたつもりではなかった。だが、あの時と同じ噴水、あの時と同じ柱廊、あの時と同じ制服を着た衛兵や女官たちを見るとよりいっそうあの時に近づいた気がして、動悸が激しくなる。


 自分は犯してはならない過ちを犯した。

 王であり後宮ハレムの所有者であるソウェイルが許すと言っている以上表立って文句を言ってくる者はないだろう。だが、ソウェイル以外の人間は誰もカノの味方をしないだろう。へたをすれば国内に自分の処刑を嘆願する声が噴き上がるかもしれない。そうなった時ソウェイルはどう思うだろうか。


 今の彼は当時の少年だった彼とは比べ物にならないほどの王の中の王シャーハンシャーだ。絶対であると同時に、公的な存在でもある。彼のわがままではもう国を動かせない。彼は国であり、国は彼だ。


 民衆を統べるのに邪魔だと判断したら、カノの首を刎ねるかもしれない。


 しかも、後宮ハレムには彼女たちがいる。


 第一王妃エカチェリーナ――カノを追い出した魔女。加密列カモミールの香りがする女。白金の髪に氷色の瞳の、永久凍土からやってきた女王。


 第二王妃リリ――この後宮ハレムで、否もしかしたらこの国で一番の権力者。東方からやってきた龍。三人の王子たちを盾に絶対の権勢を振るう最強の女。


 どちらにも勝てる気がしない。


 縮こまっていてうつむきながら歩く。

 ソウェイルはまだアーレズやホスローと何か話している。そばにいてほしいのに、こういう時はままならない。かといってカノもさすがにここで駄々をこねて泣き喚けるほどの子供ではなくなった。


 さて、どうしよう。


 前方から小走りで寄ってくる足音がした。行儀のいい小さな音は体重の軽い女が近づいていることを示していた。女官だろうか。いまさらになって、当時の女官たちはどうなったのだろう、ということに思い至った。自分が蒸発したことで罰を受けていないといい、と、とてもいまさらながら思った。


 顔を上げた。


 カノは驚きのあまり心臓が止まるかと思った。


「カノさん」


 目の前に立っていたのは、美しい女だった。


 十六年の歳月が過ぎ、すっかり大人の女の顔になっていたが、面影がある。


 忘れもしない。


 絹布のように真っ白で滑らかな肌にはまだしわもしみもない。大きな黒曜石の瞳は長く濃い睫毛に守られている。高い鼻筋は比較的こじんまりとしていて、薄く紅を刷かれた唇も控えめだが整っていた。

 白髪の一本もない、彼女を象徴する長く美しい黒髪は、後頭部でひとつにまとめられた上で透ける更紗に覆われている。前髪も長く伸ばし一緒にまとめている。その髪形ひとつでさえ彼女がカノよりずっと上品な貴婦人であることを連想させられた。


 この国でもっとも美しい鋼鉄の女――女宰相シャフルナーズ・フォルザーニー。


 カノは硬直した。

 絶望した。

 彼女と自分の間の断絶がより深まった気がした。

 自分が逃げ惑い、小さくなり、恐怖を紛らわせるために夜な夜な遊んで自分を貶めている間に、彼女は政治的な国の頂点、ソウェイルのすぐそばまで駆け上がった。


 端正な顔には感情が映らない。きっと政治の場で女ひとり生きていくために彼女は表情を投げ捨てたのだ。


 そう思っていた。


 彼女の頬が徐々に赤く染まっていった。

 眼球の白い部分が赤らみ、潤んだ。


 つかつかと歩み寄ってきた。


 どうかしたのかと、焦るあまりに逆に動けなかったカノのすぐそばまで来た。


 華奢で綺麗な小さい右手が持ち上がった。


 薙いだ。


 ぱん、と明るい音を立てた。


 頬が熱く痛む。


 打たれた。


「……なんで?」


 痛みよりもまず先に疑問が浮かんできて、カノは怒る前に彼女にそう問いかけた。


「怒ってんの?」


 もうシャフラと自分では立っている場所が違いすぎる。別の世界の住人だ。彼女ほどの高貴な人間がカノごときに、と思ったが――


「わたくし、貴女とわたくしは親友なのだと思っていましたわ」


 シャフラが震える声でそう言った。


 カノは涙が込み上げてくるのを感じた。


「どうしてわたくしに何もおっしゃらなかったのですか」


 腕を伸ばした。

 シャフラの体を抱き締めた。

 分厚い布に覆われているのでわかりにくかったが、彼女の体は今も細く軽いあの頃のままだった。


「ごめんなさい」


 自分が消えた十六年――もしかしたら女学校に通っていた十九年前から、彼女はそう思ってくれていたのかもしれない。


「ごめんなさい……!」


 悲しくて、悔しくて、申し訳ない。


 シャフラも抱き締め返してくれた。その細い腕には大した力はなかったが、カノはその締め付け具合を心地よく感じた。


 彼女の体から茉莉花ジャスミンの香りがする。

 何も変わらない。


 幸せだった頃のことを、思い出した。


「わたくしが貴女を守ります」


 ひとりではない。


「何でもおっしゃいなさい。今度こそ。わたくしが持てるありとあらゆる権力をもってして貴女を守ってみせます」

「シャフラ」

「何のためにこの十数年働いてきたと思っているのですか。偉くなるためですよ。この国のすべてをわたくしの意のままにするためですよ」

「シャフラごめんなさい」

「今のわたくしには愛する人々を失うことのほかに恐れることはございません」

「シャフラ!」


 カノはしばらくそのまま泣き続けた。




 どれくらいの時が経った頃だろう。


 シャフラは少女だった頃のようにカノと手をつないで後宮ハレムの中のほうへ向かって歩き出した。


「貴女をリリ様にご紹介致します」


 その言葉を聞いて、カノは喉の奥が恐怖で詰まるのを感じた。


「リリ様のご加護をいただけるようにお願い申し上げましょう」

「リリ様……って、ソウェイルの第二王妃、だよね?」

「はい」


 シャフラが冷たい表情のまま言う。


後宮ハレムの主、表を取り仕切るのがソウェイル陛下ならば裏を牛耳る長がリリ様です。絶対に逆らいませんよう」


 シャフラをしてこう言わしめるとは、どんな化け物なのだろう。


 震える足で中へ進む。


 後宮ハレムの東側に向かう。

 廊下には青磁器が置かれ掛け軸が掛けられていた。白磁の花瓶に見たことのない植物が活けられている。柱は紅く塗られ、金箔で一重ひとえの薔薇に似た小さな白い花が描かれていた。

 すでにすさまじい重圧だ。


 華風の服を着た女官たちがカノとシャフラに向かって頭を下げた。


「リリ様にお目通り願います」


 シャフラが言う。


「シャフルナーズがカノ妃を連れてまいりました」


 女官たちが再度、今度はさらに深く首を垂れた。


「扉を開けよ」


 部屋の中から女の声が聞こえてきた。その声は思っていたより高く明るく透き通っていたが、油断はならない。


 扉が、開いた。


 カノは、硬直した。


 そこにいたのは、妖女であった。


 体の下敷きにしているいくつもの座布団には、柱に描かれていたものと同じ花の刺繍が施されている。その身に纏う旗袍チイパオは紅く染められた絹で金の龍の刺繍がなされていた。腰から脚にかけての深い切り込みからは白く艶めかしい腿が覗いている。肘掛けにのせられた左肘の先、指の先はつかまれたら皮膚に食い込むであろう長く紅い爪だ。

 特徴的なまっすぐの長い黒髪は複雑な形に結い上げられ、帽子に似た黒地に紅い刺繍の髪飾りをつけている。切れ長の一重まぶたには闇を凝縮したような黒い瞳が収まっていた。


 その目に見られるだけで、カノは恐怖を感じた。畏怖かもしれない。


 右手に持った煙草管キセルで一口息を吸う。そして吐く。白い煙が一瞬漂った。


「近う寄れ」


 ただ人ではない。


 逆らえない。


 震える足で、二歩、三歩と近づいた。


「そこでひざまずけ」


 どうしたらいいのかわからず、立ち止まる。


「床に両手両足をつけよ、と言うておる」


 シャフラが隣で耳打ちをした。


「おおせのとおりになさってください」


 急いで両膝をつき、両手も床についた。


「……ふむ」


 見られている。


「あやつの好きそうな乳と尻の大きい女よの」


 シャフラが「おそれながら申し上げます」と言う。


「リリ様より陛下の寵を受けている女人はこの世にはおりません」


 女が笑った。


「面を上げよ」


 言われるがまま、顔を上げる。


 いつの間にか、女が目の前に立っていた。


 女の手が伸びる。

 カノの顎をつかむ。持ち上げる。


「わらわが第二王妃リリである」


 おびえのあまり声も震えた。


「カノと申します」

「わらわが口を利いてよいと言うまで口を利くでない」

「申し訳ございません」


 慌てて目を伏せた。視線を落とす。女の平らな胸から腹にかけてだけを見つめる。


「カノよ」


 声が降り注ぐ。


「そなた、わらわに従うと誓えるか」


 怖くて顔を見られない。


「この後宮ハレムの主人をわらわであると認め、けして嘘をつかず、孕んだ子をすべてわらわに捧げると誓えるか」


 怖い。


「口を開くことを許す。答えよ」

「はっ、はい」


 息が止まる。


「すべてリリ様のおおせのとおりにします。全部。あたし、絶対にリリ様に逆らいません」

「よろしい」


 彼女の手が離れた。


 彼女は静かに先ほどの寝床に戻っていき、肘掛けにもたれかけた。


「死ぬまでわらわに服従せよ」


 カノはもう一度首を垂れ、沈黙した。




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