第14話 橙将軍アーレズ
それからというもの、アーレズの世界は一変した。
まずは早朝、ホスローの妹たちに三人がかりで起こされる。どんなに眠くても二度寝は許されない。布団を引き剥がされ、監視の下で服を着替えさせられて、むりやり外に連れ出される。
外ではアイダンが馬をつないで待っていて、乗馬の仕方をみっちりと教え込まれる。
彼女は馬だけでなくアーレズのことも鞭で叩く。正しい姿勢で乗れないと馬から落ちるから、ということで矯正してくれているつもりのようだが、「テメエより馬のほうが偉いんだよ」「ナメられたらぶっ殺されんぞ」「そんなことで戦場に出れると思ってんのか」という言葉を聞いているとただ単にアーレズを叩きたいだけのような気もする。
最初のうちは、馬に乗るのがある程度できるようになったら弓矢を教えてくれる、という約束だったが、百年後かもしれない。アーレズは痛む腿の筋肉を揉みながらそんなことを思った。
朝食を食べたらスーリに文章の読み方を教わる。
最初はスーリと二人きりになれるのかと思っていたが期待どおりにはならなかった。
早い時間はホスローが同じ部屋で新聞を読んでいる。ホスローが仕事に出かけると今度はホスローの妹がやって来てすぐそばで刺繍を始める。
二番目の妹は近々嫁に行くらしい。自分で花嫁用の小道具を作っている。アーレズは世の少女たちにそんな習慣があるのも知らなかった。
昼食は毎日お祭りだ。午前中それぞれ学校や仕事に行っていた面々が帰ってきて家族十一人全員で食事の席に着く。大皿の料理は油断するとなくなる。アーレズは子供たちと食べ物を奪い合うことに少しずつ慣れていった。
暑いので昼食後はひと眠りだ。この時間が唯一の安らぎの時で、アーレズは部屋にひとりになることを許された。
夕方になると中庭でホスローが待っていて、木刀を握らされて姿勢から柄の握り方まで細かく指導される。
第一印象は良くなかったが、アイダンに比べるとホスローは優しい。
まずは呼吸の仕方を教えてもらう。徐々に体が動くようになってくる。人目を気にして背中を丸めて歩く癖ができていたアーレズは最初胸を開くだけでもきつかったが、少しずつ、顔を上げ、顎を引くことができるようになっていく。
夜、ひとりで家の屋上に出る。
夏の昼間は灼熱の太陽に焼き尽くされて死んでしまいそうだが、夜は満天の星空が美しい。
いつだったかタウリス城でも同じ星空を見ていたはずなのに、アーレズは今、あの時とはなんとなく心持ちが違うのを感じていた。
具体的にどこがどう変わったのかはわからない。だが、なんとなく、身が軽くなった気がする。
毎日へとへとになるまでしごかれ、慣れない集団生活を強要され、心身ともに疲れ切っているはずだ。それなのに、アーレズは髪に触れることなく空を見上げる時爽快感を覚えた。
自分はどこかで荷物を下ろした。
しかしその荷物が何だったのかも、アーレズにはわからない。
それから何週間が経過した頃だろうか、ある日のこと、寝起きですぐホスローにこんなことを言われた。
「今日の訓練は中止だ。飯食ったら宮殿に行くぞ」
布団をたたみながらアーレズは「えっ」と呟いた。
「何しに?」
「兄貴に呼ばれてる」
「兄貴?」
ホスローが兄と呼ぶ人物はこの世でたったひとりだけ、ソウェイル王だ。
「なんでまた」
ここのところまた放っておいているくせに、と思ったが、彼としては信頼のおける弟に託しているのだし、もしかしたらアーレズの知らないところでホスローと連絡を取り合っているのかもしれない。
「いいからいいから。別にいい服着なくてもいいし、楽な気持ちでついてこい」
「ホスローさんも一緒に行くのか?」
「ああ。スーリも連れて三人でな」
アーレズは眠い目をこすりながら頷いた。ホスローとスーリが一緒なら怖いことはない気がしたし、なんだかんだ言って二人がこの家に連れて帰ってきてくれると思う。
そう思うことで、アーレズは案外この家での暮らしを気に入っていることに気がついた。
朝食を取った後、蒼宮殿に向かった。
赤将軍邸は王都北の武家屋敷街にあり、蒼宮殿までの距離はさほどでもなく、その気になれば歩くことも不可能ではない。しかしホスローもスーリも馬に乗れるので、アーレズもアイダンに習ったとおりに四半刻ほど乗馬した。それだけで神経がすり減った。
宮殿に着くと、待っていたらしい白軍兵士たちに導かれて南の棟に入った。
アーレズは初めて見る大理石の大階段、巨大な燭台、蔓草模様の
大講堂や謁見の間などはこれからゆっくり説明してもらえるそうだ。今日の最初は大講堂の脇にある小部屋に、と東側に案内された。
中は、思っていたほどには広くない、縦長の部屋だった。
内壁は豪華で、壁の全面に蒼い
南側の壁にある出入り口から見て右側、東側に窓がある。時間帯次第では太陽が昇る時に光が差し込んでくるかもしれない。
正面の北側の壁には祭壇のような出っ張りがあり、大小いくつかの金属の器が置かれていて、蝋燭が二本と山盛りの果物が供えられていた。
祭壇の上方、壁に十対で合計二十個の金の突起がついている。うち二対だけが埋まっていて、それぞれに一本ずつ、二本の剣が置かれていた。
アーレズは思わず「あ」と声を漏らした。
うち一本に見覚えがあった。
橙の神剣だ。
母の神剣が、この部屋で眠っている。
久しぶりに会った。
急に愛しさが込み上げてきた。
だが勝手なことをしてはいけない。ぐっとこらえる。
橙の剣の斜め下、もう一本の剣を見た。
太陽のように蒼い剣だ。そちらのほうは初めて見たが、形が一緒なので仲間なのだけはわかる。あちらの剣には持ち主はいないのだろうか。ホスローは自分の剣を携えて歩いているし、スーリとサヴァシュは家にある刀剣掛けに置いて大事に保管している。
母は何をしているのだろう。なぜここに自分の剣を置きっぱなしにしているのだろう。あんなに世話になって心配させた剣だというのに、少し薄情ではないか。
――アーレズ。
彼の声が聞こえてきた。
――元気そうでよかった。
アーレズは頷いた。すべては彼のおかげだ。そう言いたかったが、複数の人の目があることを思うと口には出せない。
「来たか」
声に反応して振り返ると、『蒼き太陽』ソウェイル王が部屋に入ってきたところだった。
ソウェイルに続いてやってきた人物を見て、アーレズは目を丸くした。
カノだった。
彼女は長かった黒髪をばっさりと切り落としていた。尻を覆うほどまであった髪を顎の下くらいまでの断髪にしている。尼にでもなる気か。
「母さん」
不安が込み上げてきてそう呼んだが、彼女は今までに見せたことのない穏やかな顔でアーレズを見た。
「お久しぶり。元気そうでよかった」
「母さん、その髪どうしたんだ?」
「似合わないかな」
少しはにかんで笑う様子はまるで少女のようだ。
「子供の頃ずっとこうしてたの。母さんが――あんたのおばあさんが亡くなった時自分はもう少女じゃいられないんだと思って伸ばし始めたんだけど、ソウェイルが、すっきりしたら、って言うから、切ってもらっちゃった。さっぱりした」
男に言われて切ったのかと思うともやもやした。だが彼は母の夫だ。第一彼女自身が満足しているようでは文句は言えない。
アーレズにとっては長い髪のカノこそ自分の母親だった。重い黒髪こそアーレズの母親の象徴だったのだ。
これは、つまり、彼女はもう完全にアーレズの母親を辞めてしまったということではないのか。
しかし今のアーレズはホスローの家の子供で、二、三ヵ月母親と会わなくても案外大丈夫であることを知ってしまった。これ以上こだわることもないだろう。
「似合うと思う」
アーレズは嫌味のつもりで言ったのだが、カノは力を抜いて笑った。
「ありがとう」
彼女も解放されたのだ。
自分たちの親子関係はきっとここまでなのだ。
これでよかったのだ。
「さて」
ソウェイルがみんなの前に歩み出る。祭壇の前に立つ。
「皆さんお集りいただきましてありがとうございます」
ホスローとスーリが「いえいえ」「いえいえいえいえ」と頭を下げる。
「本日は十年ぶりの超大型行事です。ここで皆さん拍手」
ソウェイルのその言葉を聞くと、ホスローとスーリだけでなく、かたわらで見守っている白軍兵士たちも手を叩いた。
アーレズはその様子を突っ立って眺めていた。
ソウェイルと目が合って、心臓が跳ね上がった。
「アーレズ」
声が裏返った。
「はい」
緊張する。
ソウェイルも少し緊張しているのだろうか、先ほどよりもわずかに硬い表情で言った。
「俺がお前に与えられるものはそう多くない」
それは、覚悟していたことだった。むしろ望むところだ。自分に父親の庇護はいらないのだ。
そう思っていた。
「ただ、ひとつだけ。お前に、貰ってほしいものがある。それさえ持っていてくれれば、俺が蒼い魔術師として――『蒼き太陽』としてこの国に君臨する限りお前を守る魔法を使うことができる」
「魔法?」
「そう」
彼が踵を返した。
そこには、二本の剣が置かれていた。
手を伸ばす。
橙の剣をつかむ。
両手で掲げるように持ったまま、祭壇の下におろす。
「声が聞こえるんだろう?」
息が止まる。
「お前にはこの剣が必要だし、この剣にはお前が必要だ。そうだろう?」
言いながら、ソウェイルはその剣を一度カノに差し出した。
カノは少しだけ剣を抜き、鍔と鞘の間で輝く橙色の光を見つめた。
「今までありがとう」
そして、戻した。
「さようなら」
次に引っ張った時、その剣はもうカノには抜けなかった。
抜けなくなった。
もうカノの剣ではなくなった。
カノが、剣を持った手をアーレズに伸ばした。
「受け取って」
アーレズはたじろいだ。
「ずっと、あんたのそばに置いておいて」
ソウェイルが後ろから囁く。
「お前の時代が来るんだ、アーレズ」
導かれるまま、アーレズも、手を、伸ばした。
「その剣さえ抜ければ、俺は俺が生きている限りすべてのものからお前を守ってやることができる」
右手で柄を、左手で鞘をつかんだ。
まるで、魔法のようだった。
アルヤ王国に連綿と続いてきた魔法の輪に、自分が組み込まれた。
それはひどく心地よいものだった。
守られている。
――これからも、ずっと一緒だ。
剣のその言葉を聞いてから、アーレズは剣を抜いた。
あたりに美しい光が散らばった。
「おめでとう、橙将軍アーレズ」
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