第12話 別れ、そして、出会い

 アーレズのこの一ヵ月は、午前中はソウェイルの連れてきた侍従官に読み書きや歴史を教わり、午後は見守られて――と周りの人は言うが、アーレズとしては見張られて――城内を散策して、夜になると夕飯をソウェイルと取るように強要される、その繰り返しであっと言う間に過ぎていった。


 政治のことはアーレズにはわからない。だからソウェイルが日中何をしているのかは知らないまま終わった。絶対に教えてやらないという雰囲気でもなかったので、聞けば誰かが教えてくれたのかもしれない。だが、聞いてもわからないだろうし、王族として何かを求められても困る。知らないでいいことは知らないままでいいのだ。


 カノとは同じ城内にいるのにほとんど会わなかった。

 彼女が何をしていたのかも知らない。おそらくエルナーズやスーリが彼女の相手をしているのだろうが、そこに入っていく気にはなれなかった。


 城の中庭、噴水の縁に腰をかけて、空を見上げる。

 ようやく傾いてきた太陽が西の山に落ちようとしており、東のほうには星が瞬いている。

 自分の視界を遮るものは何もない。こんなことは生まれて初めてかもしれない。

 初めて本物の空を見た気がした。


「カノのことは気にしなくていい」


 ソウェイルが言った。


「お前はこれから少しずつ自分のことを考える練習をしような」


 それが何を意味しているのか知らぬまま、タウリス城で過ごす一ヵ月が終わった。


 エルナーズに見送られてタウリスを出た。エルナーズは「ほなまたね」と言っていたが、アーレズはもう二度と会いたくない。カノは彼と仲良しだが、アーレズは彼がむりやり自分たちをソウェイルに引き合わせたことを一生忘れないだろう。




 タウリスから王都エスファーナまでは半月以上かかった。アーレズが馬に乗れないので、ゆっくり馬車で移動したのだ。


 この一団はアーレズを中心に予定を組んでいる。

 それに気づいた時アーレズは発狂しそうだった。

 自分が世界に注目されているということがたまらなく気持ちが悪かった。

 おさまりが悪い。居心地が悪い。気分が悪い。

 誰にも見られたくない。


 それでもソウェイルが切ってしまった髪はようやく眉にかぶるくらいまでしか伸びず、アーレズの顔を覆い隠してくれるにはまだまだ時間がかかる。

 それに、アーレズは、伸びたらまたソウェイルに切られる気がしていた。怖かったが逃げられないだろう。この国は彼の国で、彼より偉い人間はいないのだ。この一ヵ月半で思い知らされた。


 かくしてアーレズはずるずる蒼宮殿に連行されていった。


 蒼宮殿――アルヤ王国の富と権威の象徴だ。大きな円蓋ドームと尖塔はエスファーナのどこからでも見え、蒼と金の石片タイルは神々しいまでに美しく、門から正面玄関までの前庭には九つの噴水があって、人工の小川が敷地内の隅々まで流れていた。


 人はここを楽園と呼ぶ。この世に顕現した天国なのだと言う。

 アーレズにとっては牢獄みたいなものだ。

 自分はもう永遠にここから出られないのではないか。


 政治のことは、まったくわからない。

 だが、感じる。

 自分の存在はこの国の王家にとって邪魔だ。自分が外に野放しになっていると王室に動揺が走る。だからみんな自分を蒼宮殿に連れてきたのだ。きっとそうに違いない。


 アーレズには、ソウェイルの言う「お父さんと呼びなさい」という言葉が、屈服しろという命令に聞こえるのだ。


 蒼宮殿に着くと、大勢の侍従官と護衛官に囲まれた。

 彼らはアーレズにもこうべを垂れ、黙って迎え入れた。

 それが逆に怖い。


 北の棟に案内される。王族の居住区らしい。北の棟と南の棟の接続部分が王の居室で、そこからさらに北へ行くといわゆる後宮ハレムだ。


 王の居室に入る手前、北と南をつなぐ渡り廊下のある中庭で、ソウェイルに立ち止まるように言われた。


「お前はここまでだ」


 そして、カノに向かって言った。


「お前はこの先に帰れ」


 カノもアーレズも唖然とした。


「どういうこと?」

「何が」

「アーレズがここまでであたしはこの先に、って。別々に行動するということ?」

「そうだ」


 アーレズは目を丸くした。


「母さんと離れ離れになるのか」


 ソウェイルは頷いた。

 その表情にはどこか硬いものを感じた。何を言われても揺るがない意志があるように見えた。


 でも、頷くわけにはいかない。


「嫌だ。俺は母さんから離れない」

「離れるんだ」

「どうしてだよ。十五年間ずっと一緒だったんだぞ」

「もう終わりだ」


 いつも穏やかで少しおっとりとしたソウェイルがこんなに厳しい態度を取るのは、初めてのことだった。


「だめだと言っている。俺の指示に従えないのか?」


 自分はあくまでカノの息子だ。カノのために生まれ、カノのために生き、カノのために死ぬのだ。


「嫌だ!」


 叫んだ。


「母さんがいないなら俺には生きてる意味なんかない!」


 するとソウェイルがいつになく厳しい声で応じた。


「お前はそう言うと思ったから絶対に別居させると決めた」


 驚いた。


「どうして」

「言っただろう。お前は自分で自分のことを考える練習をするんだ」


 それ以上声が出なかった。


「お前はもうカノに会わせない」


 ソウェイルの言葉が絶対に聞こえた。


「アーレズ」


 だが、同時に――


「もう、カノの世話をしなくてもいい」


 彼につかまれた腕から、力が抜けていく気がした。


「もう、カノのために自分を犠牲にする必要はないんだ」


 その言葉が、すとんと腑に落ちた。


 カノのために、自分を犠牲にする。


 そういうことだったのか、と認識すると、呼吸が楽になった。


 自分は彼女にすべてを捧げてきた。彼女のために生活を整え、世界の中心に彼女を据え、彼女に迷惑をかけないように、彼女の機嫌を損ねないように、一生懸命やってきた。


 もう、そういう生き方はしなくてもいい。


 その時初めて悟った。


 これが、父親がいるということか。


「アーレズ」


 カノがか細い声で名を呼ぶ。


「もう会えなくなっちゃうの」


 その問いにはソウェイルが答えた。


「永遠に会わせないつもりじゃない。でも、明日や明後日の話じゃないだろうし、そういう日が来ても一対一にする気はない」


 カノの目に涙が浮かんだ。


 けれど、アーレズは気がついてしまった。


 彼女の肩からも、力が抜けた。


 自分たちはそういう親子関係だったのだ。ソウェイルの言うとおり、離れて暮らすほうがいいのかもしれない。


 後宮ハレムのほうからやってきた女官たちが、カノに向かって頭を下げる。


「おかえりなさいませ、カノ様」


 ソウェイルが「行け」と言った。


「一生この奥から出るな」


 カノが、頷いた。

 頷いてしまった。


 終わりだ。


 アーレズは胸の奥底から息を吐いた。


「元気でね」


 カノはアーレズにそれだけ言って、後宮ハレムのほうに歩いていった。

 その後ろ姿が消えるまで、アーレズは彼女を見守る――はずだった。


 後宮ハレムのほうから走ってくる者がある。

 数人の女官に追いかけられ、「お待ちください!」「いけません!」と怒鳴られながら走ってくるのは、アーレズより少し年少くらいの少年だ。


「すみません、どいてください!」

「えっ」


 カノを強引に端へ下がらせ、少年がアーレズの目の前までやってきた。


 アーレズは息を飲んだ。


 象牙色の肌にまっすぐの黒髪の少年だった。王族にしか許されない蒼い生地に東方風の黒い龍の刺繍の入った服を着ている。頭にも蒼い帽子をのせていて、ずれ落ちてきたその帽子をまださほど大きくない手で直した。腰には大きな紅玉ルビーがあしらわれた短剣をさげている。


 瞳の色が蒼い。


 こいつが第一王子ジャハンギルだ。


 彼は全力で走ってきたらしく荒い息をしていた。紅潮した頬は少女のようで、美しい少年だと思った。東方風の切れ長の目がよく合っている。おそらく母親のリリ妃に似ているのだ。


「初めまして兄上!」


 両腕を伸ばしてきた。抱擁を求めているに違いない。


 アーレズは一歩下がった。ジャハンギル王子が「なぜ!?」と怒鳴った。


「こら、ギル。まずは自己紹介だろ」


 父親に言われて、一瞬口をひん曲げる。

 すぐに愛想のいい可愛らしい笑顔を取り戻して言った。


こんにちはサラーム! 僕は第一王子ジャハンギルです。ギルと呼んでください。母は第二正妃リリで、同母弟に双子のシャーザードとシャーダードがいます。今度ご紹介します」


 その笑顔が素直で無垢で、こいつは愛されて育ったのだ、ということを痛感した。


「僕は貴方のことを兄上と――」

「断る」

「早くないですか」

「俺は兄弟なんか欲しくない、というか――」


 ギルの大きな蒼い瞳に見つめられると、それだけできまりが悪い。


「お前にとっては兄なんて王位継承のためには邪魔でしかないんじゃないのか」

「えっ」


 ギルが父を見た。


「そうなのですか?」


 ソウェイルはすぐに首を横に振った。


「いや、正室の子がいるなら正室の子の継承権の順位のほうが上だな」


 アーレズは気が抜けてその場にへたり込んでしまった。


「なんだ……」

「そんなことを気にしてたのか」

「俺、リリ王妃の子供たちに殺されるんだと思ってた……」


 ソウェイルが明るい声で笑った。


「リリは自分の敵にはならない人間には優しいから安心しろ」


 それはすなわちリリ妃やジャハンギルたち王子との間に埋められない身分の格差があることを意味していたが、今のアーレズにとっては安心の種だ。


「なにびびってるのかと思ったら」


 いつの間にか母の姿は消えていた。それでいいのだ。自分の人生は今ここで自分が置かれている本物の立場というものを確認したところから始まる。


「カノがどうしてもアーレズに王位に就いてほしいと言うんならそりゃリリがお前とカノを暗殺する大惨事だっただろうけど、リリとカノじゃお話にならない」

「母上はそんな恐ろしい女人ではありませんー!」

「そう思ってるのはお前ら三兄弟だけだ」


 ソウェイルが優しい声で「立てるか?」と問うてくる。


「もうひとりお前に紹介しなきゃならない奴がいる」


 力の抜けた足でなんとか立ち上がった。


 ソウェイルとギルが、後宮ハレムではなく、南側、王の居室のほうを見ていた。

 そちら側から出てくる影が二人分あった。


 ひとりはスーリだった。彼女はいつになく機嫌の良さそうな笑みを浮かべていた。

 もうひとりは、背の高い男だった。硬そうな赤毛に日に焼けた肌、少し人相の悪い、緋色の上着を羽織った男だ。


 アーレズは目をみはった。


 男の腰に、見覚えのある形状の剣がさげられている。カノとアーレズの橙の剣によく似た、けれど数え切れないほどの紅い石のあしらわれたそれは――紅蓮の神剣。


「よお」


 男が片手を挙げた。


「国王陛下のご命令でお前を引き取りに来た」


 アーレズは唾を飲んだ。


「俺はホスローだ。よろしくな、アーレズ」


 ソウェイルが言った。


「俺にとっては最上級に信頼のおける男だ。これからしばらくお前をこいつに預かってもらう」

「預かって、って……、一緒に暮らすのか?」

「そうだ」


 男――ホスローが笑う。


「たっぷり可愛がってやるからよ。楽しくやろうぜ」



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