第9話 本当にどうとでもなるのかよ

 エルナーズはとてもしゃれていて毎日衣装が変わる。

 今日の彼は胸の下くらいまでしかない襯衣シャツを着ており、その下に白い筒袴をはいていた。そうでなくとも長い脚が強調されてさらに長く見える。極端に丈の短い襯衣シャツは明るい青色に金の刺繍を施されたもので、そういえば彼も空将軍だった、というのを思い出させられた。昨日の毒々しい紅の女性服と比べるとさっぱりして見える。


 カノとアーレズがカノの部屋でくつろいでいると、彼が訪ねてきてこんなことを言った。


「そろそろソウェイル王のおなりよ」


 アーレズは緊張した。


 カノがどこかから王の行幸があると聞いていたのをいまさら思い出した。もうはるかかなた遠い昔のことのように感じるが、彼女が得た情報が正しければ今週のいつかだ。


「これから俺はお迎えする準備のために何かと忙しくなると思う。あんたたちはここでじっと隠れてて」


 カノが「ええー」と不満げな声を上げた。


「エルがソウェイルの相手すんの? ほっときゃいいじゃん! あいつはあいつで勝手にするでしょ。エルはあたしに構ってよ」

「俺もそうしたいけど立場上一応おもてなししなきゃいけないのよ。無視してたらまたタウリスが戦場になった時今度こそ俺が前線にくくりつけられるわ」

「あいつそんなこと言ってた? そこまで野蛮な奴じゃないと思ってた」

「王がやらなくてもオルティがやるのよ」


 アーレズはそのオルティという人物が誰なのか知らない。けれどカノが黙ったということはカノも知っている人物なのだろう。名前の音の響きからしてチュルカ人男性だと思うが、王都の人間関係がさっぱりわからない。


 知らなくてもいいか、と思って目を伏せた。


 アーレズはぼんやりこの先のことを考えるようになった。


 カノは王都に帰って自分はタウリスに残るのではないか。


 ここ数日、彼女はエルナーズやスーリとうまくやっている。彼女は本来十神剣として帰らなければならない場所があり、なおかつ、ほかの十神剣ともそれなりに交流することができる。きっと条件さえ整えば嫌ではないのだ。

 母が嫌ではないのなら、アーレズが行くなと言うわけにはいかない。


 仮に自分のそんな想像が現実になった場合、自分が彼女についていくことはできない。

 瞳が蒼いからだ。

 王都に帰れば確実に問題になる。


 最悪、殺されるかもしれない。


 ふと、殺されてもいいか、というのがよぎっていくこともある。


 彼女には、十神剣の一員としての人生がある。

 自分には、カノの息子としての人生しかない。


 彼女が王都に帰る時自分が邪魔になったら、自分はどう身を処すべきか。


「アーレズ」


 エルナーズに名を呼ばれて、はっとして顔を上げた。


 彼は、自分の口元で人差し指を立てつつ、前髪に隠れていないほう、見えるほうの目を閉じてみせた。


「あんたもここにいなさい。うろちょろして俺に迷惑かけたら城の壁に吊るすわよ」

「別にどこにも行かない」

「約束しなさい、絶対どこにも行かないって」


 彼の薄い色の瞳が、アーレズを見下ろしている。


「最悪俺が引き取ってあげるから安心するといいわ」


 まるで心が読まれたのかのようだ。この人は何をどこまで察しているのだろう。


「顔が可愛いから高く売れると思う」

「ちょっとやめて、ひとの息子を何だと思ってるの」

「冗談よ、なんで本気にとるのよ」


 カノが溜息をついた。


「あたしのことも引き取って」


 エルナーズがカノのことも見下ろす。


「ここにいたい。蒼宮殿に帰りたくない」

「どうして?」


 アーレズは前髪の下で目を丸くした。


「ソウェイルが怖い」


 彼女の口から直接王都に帰りたくない理由を聞いたのはこれが初めてかもしれない。


「怒ってると思う。怒られたくない」


 エルナーズが鼻を鳴らして笑う。


「そんなくだらない理由で逃げてたの?」


 複雑な心境だ。


 彼女が嫌だと言っているのなら嫌でいい。深い理由など必要ない。それに怒られるという刹那のことも時には永遠に思えるほどつらい。まして非力な女性である彼女では成人男性に怒りの矛先を向けられた時どれほどの危険を感じることか。


 しかし自分自身のことを考えてみるとちょっと悲しいものがある。彼女の感情ひとつに十五年間振り回されてきたのか。


「なんで怒ってると思うの? あんなに温厚な方なのに。特に身内には甘いお方だわ」

「エルは知らないかもしれないけど、あいつ怒ると本当に怖いんだから。それに今もあたしのこと身内だと思ってるかどうか」

「聞いてみたら? まだ怒ってる? って」

「聞けるわけないじゃん」


 カノがぼそぼそと小声で言う。


「誰の子かわからない子を妊娠して、宮殿から蒸発して。あたしにも一応身分とか立場とかいろいろあったのに、すごい迷惑かけちゃった」


 衝撃を受けた。

 そんな事情があったのか。

 十五年間一度も聞いたことがない話だ。


 自分がここにいるというのに、自分の前ではずっと話さなかったことを、エルナーズの前だからといって話した。

 アーレズに知られるかどうかより、エルナーズに知られるかどうかのほうが、彼女の中では重い。


 エルナーズが目を細めて彼女を見た。


「そういうことだったのね」


 カノが縮こまる。


「呆れた?」

「とっても」

「そっか」

「でもよくある話よ。あんたもそういう女だったっていうのを確認しただけ。その程度のことであんたを見捨てるわけじゃないから気にする必要はないわ」


 なだめられたにもかかわらず、彼女はさらに肩を落とした。怒られたかったのだろうか。彼女の気持ちがまったくわからない。


 アーレズにはカノがまったくわからない。


「だいたいアーレズの顔を見たら誰が父親かなんて誰にでもわかるわよ」

「だから嫌なんじゃん」

「面白いわね。面白いわ。これだから十神剣は辞められない」


 扉を叩く音がした。

 カノが顔を上げて「はい」と答えると、扉が外から開けられて、スーリが顔を見せた。


「エルおる?」

「おるよ。じゃないわ、いるわよ。あんたと喋ってると口調がうつるの本当に嫌」

「知らんわ。陛下の件で相談したいことがあるから来てほしいねんけど」


 エルナーズが肩をすくめた。


 一度、カノとアーレズのほうを向く。


「じゃ、俺、行くから。この先のことはどうとでもなるから、しばらくはこの城で気楽にのびのびしていてちょうだい」


 そう言うと踵を返して、スーリと部屋を出ていった。


 二人きりになる。


 カノは何も言わなかった。

 しかし別に口を利けないわけでもなさそうだ。アーレズのことを空気だとでも思っているのだろうか、気にせず伸びをしている。彼女は今アーレズの前で自分が何を語ったのかわかっていないようだった。


 そんなものだ。エルナーズの言うとおり、珍しい話ではない。


 自分たちは十五年間、こうして生きてきた。


 アーレズは膝を抱えた。


 大丈夫だ。気にしない。どうしても吐き出したいことがあるなら、彼女が留守の時に剣に聞いてもらえばいい。


 そういえば、橙の剣は最近何も言わなくなっていた。カノがエルナーズに保護されて安心したのだろうか。


 ちらりと剣のほうへ目をやる。

 彼は壁の刀剣掛けに安置されている。今も無言だ。


 彼もカノの気分に振り回されてきたのだろうか。彼が言うには、彼はもともとはカノの父親のもので、カノが生まれてきてから三十数年彼女を見守ってきたそうだが、文句のひとつも言わない。


 一瞬、柄に埋め込まれた薄紅色の石が光ったような気がした。それが何かの合図に見えて、アーレズは少しほっとした。


「アーレズ」


 名前を呼ばれる。


 顔を上げて母のほうを見る。


 彼女のほうは、アーレズを見てはいなかった。


「あんた、タウリスで引き取ってもらってよ」


 期待していたわけではない。むしろそのほうがいいかと考えていた。

 けれどなぜか苦しい。


 その苦しさを認識して初めて、自分は本当は母さんと一緒に来なさいと言ってくれることを期待していたのかもしれない、と思った。

 自分は愚かだ。


「そうだな。そのほうがみんな丸く収まるよな」


 押し殺してそう答えると、彼女が振り向いた。


 アーレズは自分の心が死んでいくのを感じた。


 彼女が安心しているように見えた。


 彼女には、もう、アーレズは必要ない。


 二人はしばらく沈黙していた。


 廊下から足音が聞こえてくる。小走りで廊下を通りすぎていく音だ。衛兵たちだろう。先ほどエルナーズが言っていたとおり近日中に王がここに来る。その前触れとして警備がものものしくなる。いつもそうだ。王の行幸が決まってから引っ越しをすると警吏の目が厳しくなり移動が難しくなる。


 話し声が聞こえる。エルナーズとスーリが戻ってきたらしい。

 二人きりの状況が気まずかったので、アーレズは安堵した。

 カノと自分の間に、あの二人に入ってきてほしい。


 扉が叩かれた。


 カノが「はい」と答えた。


 扉が外から開けられる。


 廊下の外にいる人物が見えてくる。


 最初に部屋に入ってきたのはエルナーズだった。

 彼は穏やかな笑みを浮かべ、静かな足取りで前に進むと、優雅な仕草でひざまずいた。


 アーレズは目を丸くした。


 次に入ってきた背の高い男とは面識はなかった。


 だが説明されずともわかる。


 頭に巻かれた白いターバンには、大きな蒼玉サファイアのはめこまれた金のターバン飾りがのせられている。膝丈の民族衣装は王族にしか許されない蒼い生地に金の刺繍の太陽だ。白い筒袴の裾をしまっている長靴ブーツにも細かな蒼い石があしらわれていた。

 年齢を感じさせない滑らかな肌、濃い蒼色の睫毛に守られた瞳は見覚えのある蒼だ。

 そして何より――ターバンの下にはみ出す髪の色が、蒼い。蒼穹の――太陽の色だ。


 カノが立ち上がった。


 彼が一歩、二歩と、部屋の中に足を進めた。


「なん――」

「その様子じゃ俺の顔は忘れていないようだな」


 『蒼き太陽』その人だ。


「光栄だ」


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