第8話 優しいひと

 なんだかんだ言ってカノとエルナーズは仲が良さそうに見えた。

 エルナーズが年齢不詳なのでいまいちぴんと来ないが、二人はどうやらカノが子供の頃からの付き合いらしい。カノの性格を知り尽くしているエルナーズはうまく彼女を籠絡した。二十年近い断絶を乗り越えてあっさり和解したのだ。


 気を揉んでいたアーレズはカノに呆れた。心配していたのが馬鹿みたいだ。


 今も二人は酒を飲みながら楽しそうに話し込んでいる。

 どうもソウェイル王の悪口らしい。

 スーリが「あんたは聞かんでいい」と言ってアーレズを部屋から追い出した。


 ひとり夜の廊下にさまよい出て、屋上を目指す。


 屋上であることに理由はない。なんとなく、外の空気を吸いたくなった。


 ひとりになりたかった。


 いつもひとりだったから、急に大勢の人に囲まれて暮らすことになったのが息苦しい。


 それにしても、自分は母のことを何も知らない。アーレズが生まれた頃にはカノは今の姿で完成していた。彼女にも子供の頃があるというのが不思議な感じだ。

 自分は一応息子で、彼女が大人になってから生まれたのだ――冷静に考えれば当たり前のことなのに、どうしてそれを忘れていたのだろう。


 自分はいつから彼女より大きくなったのだろう。物心がついた頃にはすでに彼女を守ってあげなければならないと思っていたような気がする。だが生まれた時からそうだったわけではないだろう。


 衛兵たちの視線を感じる。振り返るとそれとなく目を逸らされたが、アーレズは居心地が悪い。彼らはアーレズの安全のために見守ってくれているのだと思う。けれどどうしても気まずかった。

 誰にもこの姿を見られたくない。


 逃げる場所が欲しい。


 もうないのだろうか。


 階段を上がると、鉄の扉が見えた。頑丈なその扉の向こうには外があることをアーレズは感覚的に知っていた。


 アーレズが扉の前に立ったら、察した兵士が黙って開けてくれた。それが恥ずかしいやら申し訳ないやらで、本当にここまで来てもよかったのか考えてしまった。


 逆に言えば、兵士たちには、屋上に出たくらいでは逃げられないという確信があるのかもしれない。


 見守られているのか、見張られているのか。

 あるいはその両方か。


 屋上に出る。

 扉のすぐそばを守る兵士しかいなかった。広々とした空間は寒々しくもあったが、アーレズにはちょうどよかった。


 夜の闇に紛れて、自分の前髪を掻き分ける。


 城下町は今宵も賑わっているが、山の中腹にあるタウリス城の周囲は暗い。おかげで空がよく見える。


 星が、美しい。


 タウリスはアルヤ王国のどの都市よりも空が近い気がした。高山地帯だからだろうか。


 手すり壁に歩み寄り、壁をつかんで寄りかかる。


 自分はこれからどうなってしまうのだろう。


 背後で扉がふたたび開く音がした。


「アーレズ!」


 スーリの声だ。


 振り向くと、星明かりで彼女の笑顔が見えた。


「ここにおったんか。探した」


 追い出したのはスーリなのに、だ。

 アーレズはうつむいた。


「別に、もう逃げない」


 小さな声で、呟く。


「逃げられない」


 スーリはすぐ隣まで来た。アーレズと同じように手すり壁をつかんだ。


「ええやん。堂々と図々しくしなはれ」


 彼女の声は明るく開放的な雰囲気だ。

 彼女がまぶしすぎる。同じ世界の住人ではない。

 アーレズはぼそぼそと続けた。


「俺が光に当たったら揉める」

「せやろな」

「そこ肯定するのかよ」

「まあええやろ。陛下がなんとか考えてくれはるわ。あの方揉め事をなあなあにするのが特技やから心配せんでええで」

「本当にそれでいいのかよ……」


 スーリの腕が伸びる。

 アーレズの後頭部を撫でる。


「心配せんでええからな。カノさんの手前ああ言うたけど、やっぱり最後は一緒に王都に帰ろう。アーレズも陛下に会わなあかん」


 そんなことはできない。危険すぎる。アーレズに行き場はない。


「スーリさんは王都に帰りたいよな」


 違う世界の住人だ。


「王都で旦那が待ってるんだろ。早く帰れよ」


 すると彼女は少し間を開けた。


「どうやろ」


 驚いて彼女の顔を見た。

 彼女もこちらを見ていた。

 その顔は変わらぬ笑顔のようだったが――


「ごめん、半分嘘やった。カノさんのこと心配して、女同士やからわかることもあるやろ、と思って出てきたのも本心やけど、もう半分は、旦那と離れたかってん」


 意外だった。カノをいなしエルナーズと渡り合う彼女が誰かと不穏な仲になるとは考えにくかった。彼女は誰とでもうまくやっていけるような気がしていたのだ。


「喧嘩した?」


 おそるおそる尋ねると、彼女は首を横に振った。


「旦那、優しいねんな」


 それは彼女にとってはいいことではないのか。


「ほんま優しいねん。それで嫌になってしもた」

「どういう意味? 大事にされてんならそれでいいだろ」


 言いながら胸の奥がつきりと痛んだ。彼女が見知らぬ男に愛されているところを想像したくなかった。


 スーリはまた少し黙った。何かを考えているようだった。アーレズに話したくないのだろうか。


「別に、話したくないなら話さなくてもいいけど」


 相手の事情を根掘り葉掘りしないのはアーレズの特技だ。


 そう思っていた。


「ううん、聞いてもろてもいい?」


 彼女は細く息を吐いた。


「半年くらい前に流産してな」


 予想外の言葉に、アーレズは緊張した。


「三度目やった」


 どんな反応をしたらいいのか悩んだ。

 アーレズは子供を捨てたり殺したりする人間を見てきた。カノもアーレズがいなかったらもっと自由に生きていけたはずだ。したがって子供が死んだくらいで気に病む彼女がわからなかった。


「お医者様が言うにはな、うちが子供の頃赤ちゃんを堕ろしたことがあるのがあかんのとちゃうか、という話やった」

「子供の頃、って?」

「十三歳の時やな。旦那と出会う前」


 そんなに珍しい話ではない。幼い頃に結婚する娘はたくさんいるし、貧しい家に生まれれば早々に売り払われる。だが、華奢で可愛らしい彼女もそういう目に遭っていたのだと思うと、さすがに少し悲しい。


「あの頃はこんなことになるとは思ってなかった。ほんまアホや」

「そっか……」


 言葉に悩む。


「スーリさんは、赤ちゃんが欲しいんだ」

「うん」


 彼女の声が震える。


「なんで世界で一番好きな人の子供を産めへんのやろう。うちそんな悪いことしたか」


 痛々しい。


「それで、旦那、何て? スーリさんのこと怒るのか」

「ううん、逆。やから、めっちゃ優しいねん。何かにつけて体調を気遣ってくれて、子供のことは気にしなくていいって、いないならいないまんまでいいって言う」

「それじゃだめなのか」

「つらい」


 つらそうな彼女がつらい。


「酷くしたらええねん。お前がふしだらな女やったから、とか、他の子供を産める女と再婚するから、とか、言うてくれたらええねん」

「なんで?」

「こんなにつらいのうちだけなんかな、優しいのと冷たいのは表裏一体やな、と思ってしまった」


 思わず言ってしまった。


「それは、スーリさんの被害妄想だろ」


 スーリは頷いた。


「旦那にそう言うてほしかった」


 アーレズは顔をしかめた。


「毎日毎日泣き喚いてもう死んでやるとか言うてたから、とうとう旦那が俺ももう疲れたわって言うたんや。それだけ。ほんまそれだけやったんやけど、うち、目が覚めたというか、さーっと血の気が引いて、旦那と距離置かなあかんと思って陛下に仕事くれー言うた」

「めちゃくちゃだな」

「めちゃくちゃや」


 それは面倒臭い女だ。自分だったらこの嫁の帰りを待つかどうか疑問だった。しかしここで突き放したらスーリは本当に死んでしまうかもしれない。この場合その旦那がとるべき手段は何か。十五歳で結婚のあてはないアーレズにはとんと見えなかった。


「体のほうは、大丈夫なのか?」


 とりあえず絞り出せた質問はそれだけだ。おそらく彼女の夫も似たような対応だったのだろう。


「うん。こっち来てアーレズとカノさんのこと考えてたら一瞬忘れたからきっと心の問題やね」

「そっか。まあ……、いい、よな、それで。別に」

「ああー!」


 たまらなくなったのか彼女は叫んだ。腕と腕の間に頭を沈めて伸びをする。


「話変えよ」

「うん」


 ほっとした。


「エルはあんなやけど、十神剣がみんなああなんやとは思わんといて! 王都に帰ったら紹介するけど、少なくとも赤将軍と白将軍と黒将軍はええ人らやし、王都にはおらんねんけど黄将軍と緑将軍もええ人やから心配せんといて」

「別に関わる気ないからどうでもいいんだけど」

「紹介するから! それはうち責任持つ! がんばろ! よし!」


 気合が入ったらしい。


「まあ赤将軍はほんまええ人や。何か困ったら頼ったらええわ」

「はあ」

「さて、もう寝よか! 寒いし中入ろう!」


 アーレズはスーリを寝かしつけないといけない気がして頷いた。




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