第7話 邪気のかたまり
ずっと遠目で眺めていたタウリス城に初めて入った。
アルヤ建築と言えば蒼い下地に金の縁取りの紋様のタイルだが、タウリス城は乳白色の剥き出しの石壁だ。
この城はこのあたりがアルヤ王国になる前に築かれたものだ。敵軍による籠城に備えたもので、アルヤ王の権威を象徴する優美な蒼宮殿とは異なり、全体的に武骨だ。
と、いつだか物好きな老人に語られたことがある。
しかしその見た目に反して、この城の中には風雅な女王が住んでいる。それはそれは美しくまがまがしい軍神で、夜な夜な見目麗しい若者を城内に誘っては享楽的な生活をしている、らしい。
幸か不幸か、アーレズはその女王にまみえることになった。
最初は気楽に考えていた。
母とスーリの同僚だと聞いたからだ。
よほど失礼な振る舞いをしない限りは酷い目に遭わないだろう。
アーレズにとって初めて出会った十神剣はスーリだ。そのスーリが、口ではなんだかんだ言いつつも基本的には邪気がない。したがって十神剣をそんなに恐ろしいものだとは思わなかった。
夜の住人と言えば母も同じだ。彼女も夜は出歩いて享楽的な暮らしをしていた。息子であるアーレズに具体的なことは言わないが、息子には言えないようなことをしていたに違いない。
その上、アーレズは路上で客を取る遊女たちに慣れている。いまさら一人や二人大きな声では言えない人生を歩んでいる人に出会ったところで驚きはしないのだ。
そう思っていた。
かつて謁見の間として使われていた部屋でその人に会うことになった。
扉を開ける直前になって、スーリがこんなことを言い出した。
「余計なこと言わんでええからな。黙ってうちとカノさんの間におるんやで」
カノも言う。
「びっくりするだろうけどびっくりしたのがバレると何言われるかわかんないから気をつけるんだよ」
いったい何が待っているのだろう。
衛兵が扉を開けてくれた。
薄暗く狭苦しい廊下とは異なり、高い天井、大きくとられた窓の、開放的な雰囲気の広間だった。絨毯や壁掛けは蒼穹より薄い青を基調とした色で統一されている。全体的に明るい雰囲気だ。
真正面に、かつては玉座として使われていた椅子が置かれている。
最初のうちは自分自身の長く伸びた前髪に遮られてよく見えなかった。
近づくにつれてただ者ではない空気が漂ってきた。
全身紫一色の服を着ており、その服が動くたびに光が反射しててらてらと輝いている。首に巻いた白い毛皮の肩掛けは耳まで達するほど分厚い。絹の手袋をはめた右手には
まっすぐの髪は前髪だけ青色に染められていて後ろ半分は金に脱色されていた。耳には巨大な孔雀の羽根の耳飾りがぶら下がっている。
真っ白に塗り固めた頬に紅を刷いた唇、目元の紫の縁取り――おそらく生来端正な顔立ちをしているのだろうが、そのつくりを強調するように大袈裟な化粧を施している。
アーレズは女装する男など見慣れているつもりだった。夜の街にはそんな人間は掃いて捨てるほどいて、趣味で女装する者、信条をもって女装する者、やむにやまれぬ事情で女装する者、いろんな女装を見てきたつもりだった。
彼らを特別視したことはない。特にタウリスではこの人の影響もあってか彼らは比較的まともに暮らしているように思われる。邪険にしたことも敬遠したこともない。
しかし、これは、想定の範囲外だ。
見た目が派手なだけではない。
目を細めて笑っている。
見るからに馬鹿にした笑みを浮かべている。
その人は――空将軍エルナーズは、三人が近くに来たのを見計らって、立ち上がった。
想像以上に背が高い。アーレズも背が高いほうだったが、彼はアーレズより大きい。
いろんな意味で、すさまじい威圧感だ。
「おこしやす」
エルナーズが三歩分こちらに近づいてきた。
吐いた。
煙がアーレズの顔にかかった。
「会いたかったわボウヤ」
そういう感じではない。
アーレズの隣でカノが口を開いた。
「お久しぶり、エル。なんか……、邪悪になったね」
「失礼しちゃうわね、色気が増したと言ってちょうだい」
「色気というか、邪気が増した」
カノの記憶にあるより強くなっているらしい。
「話はスーリから聞いてるわ。いいわよ、うちにいなさいよ」
本当にこの人と暮らすのだろうか。自信がなくなってきた。けれどアーレズはスーリとカノの忠告を聞いて黙っていた。何かを言ったら負けだ――何の勝負かはわからない。
「ほんとに? あたしらを売り払ったりしないよね」
「俺を何だと思ってるの?」
「いまいち信用ならないんだよ、エルには大怪我をしたラームを見捨ててソウェイルに寝返った前科があるから」
「やだ、小さい頃はあんなになついててくれたのに」
言葉の上では嘆いているかのようだが、顔は意地の悪そうな笑みを浮かべている。
「会うたびに、エル、エル、って」
「まあ……そうだったけど……エルにはその美しい思い出を台無しにする何かがあるんだわ、あたしが子供の頃にはわからなかった何かが」
「それがこれからうちに居候する人の言葉?」
「すみません……」
スーリが一歩前に出る。
「余計なことせんといて。ようやく会えたんやから大事にして。十神剣の妹やろ」
エルナーズが唇をすぼめる。
「何年ぶりに会うたん? なんかもっとあるやろ、ねぎらったり心配したり」
「全身で再会できた喜びを表現しているじゃない」
「ごめんな見えへん微塵も」
「それはあんたの心が汚れているからよ」
「あんたほど汚くないわ」
スーリは咳払いをした。
「ともかく、うちが陛下とカノさんの間に入って話をするから、あんたは余計なことせんといて。カノさんとアーレズに部屋貸すだけでええから。あんたが動くとタウリスに地震が起こるから自重して」
すごい言いざまだが、おそらく十神剣の中での彼の立ち位置はこういう感じなのだ。よく覚えておかなければならない。十神剣だからと言って全員が全員信用できるわけではないことを胸に刻み込んでおくのだ。
まずはスーリを信用すべきだ――と思ってからスーリにも騙されていたことを思い出した。何を信じたらいいのかわからない。やはり十神剣とは怖いものなのかもしれない。
「まあいいでしょう。俺もあんまり中央のことに巻き込まれたくないしね。タウリスの平和のために黙っておいてやろうじゃない」
また、煙草を吹かす。
「それに俺はまだソウェイル王にくみしているつもりはないわ。顔が可愛いからはいはいと話を聞いてあげてるけど、ああいうの俺の好みじゃないの」
「あんた基本的に自分より偉そうな男好きやないもんな」
「そんなことないわよ、フェイフュー殿下だって上に立つ者の風格があったもの。そうじゃなくて、真面目で硬い男が好きだから、ああいうちゃらちゃらしたのはちょっと」
「ちゃらちゃら――してはるかもな。陛下はなんやいつも女の人と一緒におられる感じするわ」
カノが「まああいつはそういう奴だよ」と呟いた。そんな好色な男だったのか。だがそれだけの理由でカノが嫌うとも思えない。何がそんなに嫌だったのか疑問はいまだ消えない。
「とにかく安心して。タウリスではどれだけ俺が偉いかは知ってるでしょ?」
改めてそう言われて、カノはしぶしぶといった様子で頷いた。
「王にだって干渉させやしないわよ」
「信じるからね」
その次の瞬間だった。
不意に、絹の手袋をまとった手が伸びてきた。
突然のことだったので対処できなかった。
エルナーズの手が、アーレズの前髪をひっつかみ、ひとつにまとめて持ち上げた。
顔面が空気に晒された。
まずい、と思ったのは一拍遅れてからだ。
今は明るい昼間だ。しかもここには衛兵や侍従官といったいろいろな人がいる。
それなのに、自分の顔が白日の下になる。
何より、前髪を引っ張る手が痛い。
こいつはたぶん、人の痛みや苦しみがわからない奴だ。
「可愛い顔してるじゃない」
左手でアーレズの前髪をひっつかんだまま、右手で煙草を吸う。
また、煙をアーレズの顔に吐きかける。
煙が目に染みてアーレズは一度まぶたを下ろした。
エルナーズの高笑いが聞こえてきた。
「お父様そっくり!」
本当に、ここで暮らしていく自信がない。
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