第6話 うちが味方やから
スーリを連れて家に帰ると、カノは家の中のものを引っ繰り返して床に並べていた。引っ越し前の恒例行事だ。買い物が好きな上に男からも物を貢がれるので、いつも一時的に物が増える。引っ越す時にはそれらを売り払って路銀にする。
荒れ果てた部屋の真ん中でカノはたたずんでいた。
アーレズが見知らぬ女性を連れて帰ったことに驚き、呆然としていた。
そんな母の顔を見ていると、アーレズは少し申し訳ない気持ちになった。
だが、スーリを彼女と会わせることは長期的に見れば彼女を救うことにつながる。彼女を守るためには、これが比較的良い手なのだ。
「だれ」
カノに問われて、スーリは深く頭を下げた。
「うちはスーリといいます」
顔を上げ、微笑む。
「ベルカナさんの後任者です」
その言葉を聞いた途端だった。
カノの黒い瞳が、大きく丸く見開かれた。
口元に手を当てる。その手が震えている。
ベルカナ――聞いたことのない名前だ。
だが、こういう反応をするということは、母はベルカナという人がどんな人なのか知っている。
「母さん、そのベルカナさんていう人、知り合い……?」
おそるおそる問いかけると、カノはそっぽを向いた。
「冗談よしてよ」
声が上ずっている。
「ベルカナの名前なんてみんな知ってるでしょ。当時は有名人だったんだから。あなたくらいの年の人だったら、子供の時に聞いたことあるんでしょ」
スーリは笑みを絶やさなかった。
「でも感じてはるんでしょう。どうして、うちが、今、あなたの前で、彼女の名前を出したのか。その意味を、あなたはもう感じてはるんでしょう」
母の華奢な背中が小さく見えた。
「こっちを向いてください。証拠をお見せします」
言いつつ、スーリが背負っていた神剣を体の前に持ってきた。今日も厳重に布が巻かれていたが、その下はいつか見せてくれた桜色の剣に違いない。
カノが首だけでこちらを見る。
その表情が泣きそうに見えた。拗ねた子供のような、そんな幼い顔に見える。
「……いいよ。あんたの言うとおり、証拠なんかなくったって、あたしの前でその名前を出すということは、そういうことなんでしょ」
「信じてくれはりますか」
「でも」
アーレズは一歩下がって二人のやり取りを眺めていた。
「なんで。どうして今」
女二人を見守る。
「あたし、十神剣の誰かにここがバレるようなことしたかな。エル?」
「エルが気づいてたとして誰かに言うと思います?」
「言わないか、エルだもん」
アーレズは静かな声で口を挟んだ。
「母さんの神剣がスーリさんの神剣を呼んだんだって。俺がもう大きくなったから、そろそろ迎えに来てほしい、って。あの剣が言ったんだってさ」
すると母が頬をひきつらせた。
「騙されるんじゃないよ。神剣の声は普通神剣を抜いたら聞こえなくなるんだよ」
アーレズは硬直した。
それは、将軍にしか知り得ないことだ。アーレズにはわからなかったが、スーリとカノの間ではそれで通用すると思っていた。嘘をつかれていたのか。
アーレズもスーリをにらんだ。
彼女は涼しい顔で肩をすくめていた。
「ソウェイルでしょう」
この十五年の生活の中で母の口からは一度も聞いたことのない名前が飛び出す。
心臓が口から出そうになる。
カノが、その名前を口にした。
それは、親子二人の暮らしの中では禁忌だった。
「あいつの差し金でしょう。『蒼き太陽』には全部の神剣の声が聞こえるんだから。あいつがあんたにあたしのところに行くように言ったんでしょう」
スーリは少し考えたようだった。その間こそ肯定ではないのかと冷や汗をかいた。
アーレズは母の言葉を信じたくなかった。スーリが自分に嘘をついているとは思いたくなかった。スーリはもっと素朴で、素直で、純粋な人なのだと思っていたかったのだ。
「裏切ったね」
カノの目が、壁に立てかけられていた橙の剣をにらむ。
神剣に裏切られる――そんなことがあるのか。
少ししてから、スーリが溜息をついた。
「なんでもかんでもそうやって敵視してきはったんですか」
「どういう意味」
カノがふたたびスーリをにらんだ。けれどスーリは動じていないようだった。
スーリの瞳はカノを哀れんでいるように見えた。
アーレズはその哀れみを優しさだと解釈したかったが、カノは馬鹿にされているとでも思ったのか「言いたいことがあるなら言いなさいよ」と怒鳴った。
スーリが、頷いた。
「疲れてんのやろ」
声が落ち着いている。
「ひとりでアーレズを背負ってしんどかったんやろ。もう十五年――十六年? ひとりで逃げて、国の中ぐるぐる回って逃げ続けてきたのん、疲れたやろ」
カノが一歩下がる。
「そんな目であたしを見ないでよ」
スーリの目は、哀れみを、憐れみを、憐憫の情をたたえていて――
「ベルカナみたいな目であたしを見ないで!」
まるで、慈悲深い母なる女神のようだ。
「あんたなんなのよ! あたしたちの何を知っててそんなこと言ってんのよ!」
「ベルカナさんの娘さんなんやろ?」
カノの目に涙が滲む。
「つらかったやろ。目の前でお母さんが亡くなったんやもんな。それまでずっと守ってきてくれた人やったのに、自分のせいで死んだと思ってんのとちゃうか」
「……う」
「子供の頃の陛下はそこんとこうまくカノさんに伝えられなかったんちゃうかな。うちが神剣を抜いた時の陛下は今の陛下とほとんど変わらないくらいしっかりしてはったけど、話には聞いてる」
「それは……」
「おと――サヴァシュさんもめっちゃ心配しとる。後悔してるて言うてるよ」
スーリが微笑んだまま斜め下を見た。
「これもご縁とちゃうやろか。うちは子供がおらんからわからんけど、先代のために何かしたいとはおもてる。たぶんカノさんとアーレズを救わな先代は浮かばれへん」
「そんなこと……」
カノはその場で膝を折った。
「そんなこと……」
そこでスーリがぽつりと「知らんけど」と付け足した。台無しだ。これだから西部人は、と言おうとしてやめた。今は真剣な場面だ。
カノが床に両手をつき、ほろほろと涙を流す。
その姿が痛々しい。
自分が彼女を守らなければ、と思った。世界中の何者からも自分がカノを守らなければならない。自分だけが唯一彼女の味方なのだ。
だが、アーレズが動く前にスーリが近づいていって、カノのすぐそばにしゃがみ込み、カノの肩に手を置いた。
「十神剣のありようも、カノさんがおらんかった十六年でだいぶん変わったで」
「って、どう……?」
「カノさんの言うとおりや。陛下は全部の神剣を束ねてはるお人や。せやから、陛下は自分で自由に将軍を選べる」
カノが顔を上げる。
「うちと黄将軍ヴァフラムは将軍になりたくてなったん」
「うそ。神剣に勝手に選ばれて、なりたくもないのに将軍になって、一生そのさだめから逃げられないって――」
「大昔の話や。陛下はカノさんが将軍を辞めたいなら辞めてもいいと言うてはるよ」
「うそ……」
「現に今ある人が辞める準備をしてて引き継ぎ先を探してんねんな、誰かというのは今はまだ言えへんけど。白将軍ももう先代の息子が好き好んで継いだし、蒼将軍も陛下の心の中には内定した人がおるみたいやし、カノさんも辞めたらええんちゃうの」
また「知らんけど」と付け足した。それは言わなくてもいいやつ、と思ったがアーレズは耐えた。
「いや……、まあ、辞めさせてもらえるんなら辞めるけど」
カノが言う。
「でも問題はそれだけじゃなくて。ソウェイルに会いたくなくて」
「陛下怒ってへんて言うてはったよ。それこそ大昔の話やろ、もうええんちゃうの」
「ソウェイルにアーレズを会わせたくないし」
「せやったらアーレズをタウリスに預けてこか」
急に自分の話に飛び火した。アーレズは思わず「えっ」と呟いてしまった。
「エルに相談しよ。知らん人にアーレズを託すのは怖いやろうけど、タウリス城でしばらくエルに預かってもらうんやったら怖くないやろ」
カノは少し考えたようだった。
「あの人、真面目に取り合ってくれるかな」
「若い男が好きやから考えてくれるんちゃう?」
「それはそれで母親としては困るんだけど……」
「どっちにしてももう限界やろ。この子読み書きもでけへんて言うてるやん。あかんやろ」
緊張した。その先母が何と言うかアーレズは固唾を飲んで見守った。
アーレズにとっては世界でカノだけなのに、カノには自分以外に頼れる人間がいるのか。
だが、
「そうだね」
カノの頬を透明な涙が伝う。
「あたし、限界だわ」
その言葉を聞いた瞬間、アーレズの心も一気に弛緩した。
カノには、アーレズ以外にも、頼れる人間がいる。
アーレズがひとりでカノを支えようとしなくてもいい。
「エルのお世話になる。エルだったらソウェイルに余計なこと言わないだろうし」
「せやな。あの人何事も他人事やから逆に安心やわ」
「わかった。あたしがソウェイルに会うかどうかは別として、エルにアーレズを預けることは真剣に考える」
スーリが「やったー」と言って両手を挙げた。
「なんとかなるよ! なんてったって、うちが味方やからな!」
そんな無邪気な反応に、カノはわずかに微笑んだ。
アーレズも、自分の顔に笑みが浮かんでいるのを感じた。
手放しで安心できたのは、どれくらいぶりだろう。
やっと、カノから解放される。
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