第5話 卑怯な女

 広場の壁にもたれかかって甘橙オレンジの皮を剥いていると、スーリが昨日と変わらぬ様子で現れた。

 白い滑らかな頬、布の下からはみ出すつややかな髪、薄紅色の薄い唇――母とはまるで違う。しかも明るい太陽の下を歩いている。アーレズの周りで昼間に堂々と通りを歩けるのは唯一彼女だけだ。


 スーリがアーレズに気づいた。


こんにちはサラーム!」


 歯を見せて笑うその笑顔がまぶしい。


 彼女はだいたい機嫌が良さそうだ。


 それだけで、アーレズは安心する。


「ごめん、待たせた?」

「いや、待ちたくて待ってたからいい」

「そうなんか! よかったな!」


 甘橙オレンジを半分に割って、その片割れを彼女に差し出した。彼女が嬉しそうな顔で「ありがとう」と言ってそれを受け取った。

 一瞬、指先と指先が触れた。

 アーレズはそれだけで十分だ。


「昨日の今日で申し訳ないんだけど」


 甘橙オレンジの房を分けていたスーリが、顔を上げてアーレズの顔を見る。


 ずっとこの顔を眺めていたいのに、この世のいろんなものがそれを許さない。


「俺、今日の午後引っ越すことになった」


 スーリが甘橙オレンジを持ったまま固まった。まんまるに見開かれた大きな目がこぼれ落ちてきそうだった。


「なんで?」


 少しためらった。彼女に本当のことを言うのははばかられた。何せ彼女はアルヤ王の回し者で、アルヤ王からの指示で数年ぶりにタウリスまで戻ってきたのである。

 彼女を手ぶらで帰すのは可哀想だ。

 だが、カノを守らなければならない。


 スーリはアーレズが何もしなくてもアルヤ王や夫が守ってくれるのかもしれないが、カノは自分が守らなければ他に誰もいない。


「母さんが、この街を出たいって」

「カノさんが?」


 頷く。


「なんでや」

「わからない」


 しばらくの間、二人とも沈黙していた。


 アーレズは慎重に言葉を選んだ。


 最後に、自分の父親のことを教えてほしい。

 でも、情報だけ貰ってさようなら、というのはどうなのか。

 否、案外そんなものかもしれない。彼女はアルヤ王の回し者である。アーレズがアルヤ王に興味を持つことぐらい想定しているのではないか。


 考える。

 さて、どう問いかけるのが適切か。


 先に口を開いたのはスーリだった。


 彼女は甘橙オレンジを握る手に力を込めた。潰れて汁が噴き出すのではないかと思ったが、まだちょっと理性が残っていたようで白い指先が軽くめり込むだけで済んだ。


「引っ越さんといて!」

「でもな、母さんは――」

「うちが説得したるわ!」


 思わず「えっ」と呟いてしまった。


「いや、そういう余計なことは――」

「余計なことやないわ! うちはカノさんと陛下を会わせるためにここにおんねん! 逃げられたら困る!」

「まあ、そうだろうけど」


 張り切っている様子のスーリにたじろぐ。


「今カノさん家おる!?」

「いると思うけど……」

「自分どこ住んでるん!? 連れてって!」

「だめだって。母さん絶対嫌がるって」


 次の時、アーレズは心臓を握り締められるような衝撃を受けた。


「母さん母さん言うてるけど、自分はどうなん?」


 スーリの明るい色の瞳が、しっかりアーレズを見据えている。


「自分も引っ越したいんか。お母さんが行く言うたら行くんか」


 こわごわ頷いた。


「そうだ。俺は母さんが行くところについていく。母さんがどうしても行くって言うなら――」

「ほんまにそれでええのん?」


 動揺してしまう。

 絶対にカノと離れないと決めたのに、心が震えてしまう。


「自分はどうしたいんや。言うてみ」


 甘橙オレンジを握っているのとは違う手で、アーレズの服の胸をつかむ。距離が近い。


 一生懸命な顔と声をしている。


「うちが行かんといてって言うても行くんか」


 卑怯だ。


「いやごめん、うちはどうでもええねんけど。でもアーレズはそれで幸せなんやろか。母ひとり子ひとりどこ行くん。しんどくない? ほんまにええのん?」


 考えたこともなかった。

 アーレズには、自分自身がどうしたいのか、わからない。ただただ、カノがそうしたいから、しかない。


「俺は……」


 それでも、それが正しい。産んでくれた、十五年育ててくれた母こそ、絶対だ。母を守り付き従うことが自分の幸福なのだ。


「それがいいんだ。俺は一生母さんについていく」


 ところがスーリは「あっかーん!」と叫ぶのだ。


「ちょっ、声がでかい!」

「もうええわ! 知らん! アーレズも説得しようと思てたけどそんなぬるいやり方でやってたら何もでけへんわ!」

「そう来たか」

「うちの言うとおりにせえへんかったら酷いで」

「何が」


 スーリが胸を張る。


「陛下にアーレズのことをチクる」


 アーレズは前髪の下で目を丸くした――蒼い色をした目を、だ。


「カノさんにお子さんがおるということをバラしたる」


 声も手も震える。


「それが、なに。だって、母さんだってもう王都を出て何年も経って、いまさら子供の一人や二人――」

「わかってんのやろ」


 スーリの手が服を離し、今度はアーレズの前髪に伸びる。

 前髪を掻き上げる。

 逃げようとしてももう遅い。


 視界が明るくなった。

 それはすなわち、他人からもアーレズの目が見えるようになったということだ。


「ほんまは自分もわかってんのや」


 柑橘類の甘酸っぱい香りがした。


「陛下に会うたら――宮殿に連れ帰られたら自分が政治のど真ん中に放り込まれてあれやこれやに巻き込まれるのん、察してるんやろ」


 何も言えなかった。


「今ならまだ間に合うで」


 卑怯な女だ。見た目の朗らかさに反して、とてつもなく狡猾な女だ。女は怖い。


「カノさんだけ連れ帰って、自分はここに置いてく、という選択肢もあるんやで。決めるのは全部アーレズや!」


 何か言おうとして一度口を開けた。だが何の言葉も出なかった。


 どうしよう。どうしたらいいのだろう。


 確かに言えるのはひとつ――スーリはもうアーレズの蒼い瞳を見てしまった。


「そういう強引なことされとうなかったら、うちの言うことを聞くんやな」


 そこまで言うと、スーリは手を離した。


 ちょっと怒ったような顔で、いまさら甘橙オレンジを食べ始めた。


「……やなやつ」

「せやで。うち、悪い女なん」


 溜息が漏れた。


「昨日、猶予はまだある、って言ってたよな」

「言うたな」

「まだ俺と母さんのことは知られてないんだよな」

「うちは言うてへん」

「もしここで、俺が、スーリさんと母さんを会わせることでもうちょっと時間を稼がせてくれるか、って聞いたら、スーリさんは何て答える?」


 甘橙オレンジを食べ終わったスーリがひとりで腕組みをする。


「鬼ごっこも考えたるわ。無駄足掻きやろうけど。うちはまだここであんたと会うてへんことにしといたる」

「約束だぞ」

「うち個人としてならな。陛下やエルは知らん、そこまで責任持てへん」


 アーレズは決心した。


「スーリさんと母さんで話をつけてほしい」



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