第4話 知りたい、知りたい、知りたい

 スーリと別れた後、アーレズは今まで考えたことのなかった自分の出自についてひとり思いを巡らせた。

 正確には、考えないようにしていたことだった。


 本当は、知りたいことがたくさんある。


 どうして自分には父親がいないのか。

 あの男が自分の父親ではないのか。

 なぜ母は彼と一緒にいないのか。

 母は彼から逃げているのか。

 母は、正確には、彼の何から逃げているのか。


 もしアーレズの蒼い瞳にアーレズが思っているとおりの特別な意味があるのだとしたら、母が逃げている理由がわからなかった。


 あの男は国に複数の妻をもつことを許されている。現に今の王室には正室だけでエカチェリーナ第一王妃とリリ第二王妃という二人の妃がいる。

 そこにカノが入り込むことには特に問題はないのではないか。

 第一王妃と仲が悪かったのだろうか。第二王妃と仲が悪かったのだろうか。妃たちの性格がわからないアーレズには何の手掛かりもない。


 あるいは、あの男と仲が悪かったのか。


 もしそうだった場合、どういう経緯で子供を作ったのか。


 アーレズは子供の作り方を知っている。

 そこには必ずしも愛は必要でないことも知っている。


 愛し合ってなどいなかったのかもしれない。結婚せずに作ったのかもしれない。アーレズは知らないが、何か法的に、もしくは政治的に何か問題のある関係だったのかもしれない。


 まさかできるようなことを強要されたのだろうか、と思うとはらわたが煮えくり返る。

 アーレズにとってカノは唯一の家族であり、この世でたった一人だけ自分を愛してくれている母親だ。たとえ過去のことであったとしても、彼女の意思や尊厳が踏みにじられたのだとしたら怒りを抑えられない。


 その上、そこに王位継承が絡んできたらもっと厄介なことになる。


 アーレズは政治に関わりたくなかった。それは難しく面倒で触れてはならないものだと思っていた。

 だいたいアーレズは読み書きも十分にできない。

 この世界にカノとの生活以外の何があるのか知らない。

 そんな自分に王位が巡ってくるのは自分にとってもカノにとってもこの国にとっても不幸でしかない。


 最悪、殺されるかもしれない。


 今の王室には、蒼い髪の王子が二人もいて、その二人のほかにも誰もが称賛するほどできのいい長男がいる。


 カノが言っていた。


 ――今の王はね、自分の双子の弟を殺して即位したのよ。


 それが真実だとしたら、蒼い瞳の自分は三兄弟の地位を守るために殺されるだろう。


 生きていたいとも思わなかったが、死にたいとも思わなかった。


 恐怖と不安が全身にまとわりつく。


 だがそんなアーレズに気づくこともなくカノはいつもどおりの生活を続けていた。

 最近男と別れたばかりだというのに、また別の集団と遊び始めたというのだ。


 夕方、彼女が家を出ていく。


 布団の上でひとり膝を抱えて座り込み、自分が生まれた頃の母親に思いを馳せる。


 宮殿でいったい何が起こったのだろう。知りたい。でも聞けない。確実にカノの機嫌を損ねるし、本当のことを教えてくれるとも限らない。


 ひとりで考えてもらちが明かない。


 体を倒した。横になり、寝ようとした。


 眠れない。


 考えても無駄だというのに、考えてしまう。


 どこかで情報を得られないか、と思った時、最初に浮かんだのはスーリの顔だった。


 彼女は十神剣としてあの男のそばにいる。アーレズが生まれた十五年前だと現在二十四歳のスーリも九歳だったことになるので直接見聞きしたことはないだろうが、それでも何か知っているのではないか。


 約束しておいてよかった、と思った。

 アーレズは明日――否、今日――もスーリとあの広場で待ち合わせることになっていた。

 また、スーリに会える。

 スーリなら、何か教えてくれるかもしれない。


 それが、今のアーレズにとっては、たったひとつの希望だ。




 夜が明ける。


 結局一睡もできなかった。


 起き上がる。


 スーリとの待ち合わせには早いが、家の外に出る支度をしよう、と思った。朝食のパンとチーズも買いたかったし、ひとりで冷たい朝の空気の中を歩いて頭を冷やすのもいいだろう。


 まずは顔を洗おう。


 家の外に出る。まぶしい朝日を全身に浴びる。

 井戸の前にひとりたたずむ。


 水を汲み上げ、長い前髪を掻き上げて、排水口の上で顔を洗った。


 はねた水をかぶって濡れた前髪を頭頂部に張り付け、また、今度は何も遮るもののない状態で朝日を見る。


 自分がこうして顔を出していられるのも、今のこの、誰もいない時間帯だけだ。


 そういえば、スーリは気づいただろうか。

 彼女はあくまでアーレズをカノの息子と呼んでいた。カノと誰の子供なのかは考えなかったのだろうか。


 眼球を動かし、家のほうを見上げる。二階、三階には、何でもない普通の家庭が暮らしている。


 この眼球にある瞳をスーリに見せたら、いったいどんな反応をするだろう。


「アーレズ!」


 後ろから名前を呼ばれた。


 振り向くと、カノが駆け寄ってくるところだった。


「母さん?」

「あんた何してんの!」

「顔を洗いに来ただけだけど。ついでに今日の分の水も汲めたらと――」

「いいから家に入りなさい!」


 手首をつかまれ、引っ張られた。いつものことだ。アーレズは溜息をつきながら従った。

 もはやカノよりずっと体格がよくなったアーレズだ。振り払うことも不可能ではないと思う。だが、アーレズはそんなことなどけしてしたことがない。

 カノには絶対に逆らわない。

 それが、母親を愛するということではないのか。


 引きずられるがまま家の中に入った。


 カノは急いで玄関の戸に鍵をかけた。


「おかえりなさい」


 アーレズが言うと、カノはアーレズを見上げた。その目つきに違和感を覚えて、アーレズはまたたきをした。

 ひょっとして、今日のこれはいつものとは少し違うかもしれない。


「出ていくよ」


 次に出てきたその言葉に、アーレズは納得して苦笑した。


「引っ越すよ。次の町に行く」

「そう」


 定期的にあることだった。いつ何の時にそうするのかわからなかったが、その理由を根掘り葉掘りするのは禁忌だ。


 ただ、今回だけは、スーリとの待ち合わせがある。


「母さん」

「突っ立ってないで早く支度をして」

「どうしても今日じゃなきゃだめか?」


 問いかけると、カノの動きが止まった。


「今日、ちょっと、友達と約束があるんだけど。お別れを言ってからじゃだめか」


 カノが振り返った。


 血走った目をしていた。


「その友達とあたし、どっちが大事?」


 つらい質問だ。


「もちろん母さんだけど――」

「じゃあいいよね」

「でも、初めてのことなんだ。今日も会う約束をしてる」

「女?」


 びっくりした。


「まあ、女の人だけど」


 カノの手が持ち上がった。


 ぱん、という音を立てて、アーレズの頬を打った。


「あたし以外の女を見ないでって言ったでしょ!」


 思わず顔をしかめてしまった。


「そんな関係じゃない。ただ会って話をしたいだけで、母さんが勘繰ってることは何にもない」


 言ってから、まずい、と思った。反抗的なことを言ってしまったかもしれない。


 次の言葉に悩んだ。


 カノのほうも、肩で息をしながらアーレズのことをにらむように見つめていた。


 どれくらいの間そうしていただろう。


「今日の昼まで、って約束してくれる?」


 アーレズは胸を撫で下ろした。


「絶対に。絶対に帰ってくる。午後には母さんとこの家を出る」

「絶対だよ。あたしを裏切ったら承知しないからね」


 深く息を吐く。


 カノが踵を返し、自分の服を納めていた衣装箱を開けた。

 その後ろ姿を見つめる。


 さて、スーリに何と説明しよう。


「母さん」


 カノが「何よ」と言いながら振り返った。


「俺、その友達に、何て説明したらいいかな」


 彼女の眉間にしわが寄った。


「なんで俺たち今日で引っ越しなんだろう? 本当のことを相手に教えるつもりもないけど、俺自身だけは自分がなんでこの街を出ていかなきゃいけないのか、わかってたい。嘘をつくために本当のことを知ってたい」


 彼女が三歩分こちらに歩み寄ってきた。


 手が持ち上がったので、またぶたれるかと思った。


 違った。


 彼女の手は、アーレズの長い前髪を顔のほうに下ろして、目が見えなくなるように撫でつけた。


「別に今日じゃなくてもいいんだけどね。一刻も早くタウリスを出たいってだけで」

「でも何かあったんじゃないのか?」

「会ってた人に教えてもらったんだけど」


 一瞬、呼吸が止まる。


「来週、国王陛下の行幸があるんだってさ」


 やはり、彼女は王から逃げているのだ。


「どうしても国王陛下と同じ州にいたくないんだよ」


 彼女の手が肩に触れる。肩に爪が食い込む。


「どうしてか、あんたにはわかるよね?」


 正確にはわからなかったが、アーレズはわかっているふりをして頷いた。



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