第2話 スーリお姉さんの話 1
部屋の中に洗濯物を干し、ほうきとちりとりで掃き掃除をしたところで、話しかけられた。
――アーレズ。
声のしたほうに目を向けると、壁に立てかけられている剣が目に留まった。赤い石と黄色い石に覆われた鞘と柄の剣だ。
――少し外に出ようか。
彼が青年の声をもって話しかけてくるのは、これが初めてのことではなかった。
アーレズはそれをいつものこととして受け止めて、返事をした。
「一緒に行く?」
――ああ。ふたりで出かけよう。
剣が話しかけてくる。
物心がついた頃にはすでにこんな感じだったので、アーレズは剣が喋ることについて違和感を抱いたことはない。むしろ、剣は、会ったことのない父親よりずっとアーレズの親役を務めてくれている。アーレズは剣を信頼していた。
普通刀剣のたぐいが声をもって人間に話しかけてくることはないのだ、ということをアーレズが知ったのは、七、八歳くらいの頃だろうか。
そのくらいまでは、カノは一日三食アーレズの食事の支度をしていた。といっても料理の下手な彼女の用意する食事はほとんど出来合いのものだったが、アーレズはその頃までは確かに母と二人で食卓を囲んでいた。
それがどうしてこうなったのかというと、アーレズが買い物の仕方を覚えたからだ。見よう見まねで市場に出かけたところ無事食事を買うことができたので、カノはこれで子育てから解放されたと思ってアーレズを放置するようになったのである。
アーレズが一人で市場に出かけると、路上で暮らす貧しい子供たちが群がってくる。アーレズが金品を持っているので、施しをしてくれるお坊ちゃんだと思われるらしい。しかしアーレズは母ひとり子ひとりで、その母もあまり熱心にアーレズの世話をしているわけではない。それを説明すると時々仲間に入れてくれることがある。
ある時、そんな仲間たちから、剣が喋るはずがない、と言われた。
以来、アーレズがこの件についてひとに話すことはなくなった。変わったことを言う奴だと思われたくなかった。目立ちたくない。
それでも、この剣は確かにアーレズの保護者だ。それを忘れたことは一度もない。
目立つ鞘や柄を隠すために布を巻きつけると、アーレズはその剣を腰に提げた。
母は眠っていて起きる気配はない。そろそろ昼食も調達しなければならない。外出にはいい頃合いだ。
玄関の戸を開け、家の外に出た。
アーレズとカノは現在タウリスのほぼ真ん中にある集合住宅の一階で暮らしている。上層階に住むと下の階の人間にあれこれ勘繰られるのではないかと思って一階を選んだ。アーレズとしては通りの行き止まりにある井戸に行きやすいので文句はない。
剣を携えたまま、大通りとは反対のほう、薄暗い裏路地のほうへ行く。
特にそう指示されたわけではない。アーレズができる限り大きな道路に行きたくないだけだ。
それに、外では剣に話しかけない約束だった。
剣が一方的にあれこれ言ってくることはあったが、アーレズは時々それに反抗した。どうせ周りの人間には剣の声は聞こえていない。カノですら、だ。
足を貧民窟のほうに向ける。
運が良ければ、この街の仲間たちに会える。
今頃仲間たちは盗んできた戦利品を分けたり食事を取ったりしているに違いない。
アーレズは欲しいものはなかったが、彼らに交ざって会話をすることはあった。
日の当たらないところでしか生きられない彼らはアーレズの出自にもあれこれ言わない。同様にたまに遊んでくれるおしゃべりな街娼たちは寝ている頃だろう。
いつもの広場に出た。
案の定、仲間たちは三、四人集まって、盤上遊戯で賭け事をして遊んでいた。
げらげらと笑っている。
楽しそうに見える。
この空間に、安心する。
「おっ、アーレズやないか」
うちひとりがこちらに気づいて話しかけてきた。アーレズは小走りで駆け寄った。
「なにしてる? 俺も交ぜてほしい」
「ええんやけど、金は持ってるん?」
「多少は持ってきた。でもすっからかんになる前に飯食いに行く」
「おごってくれや」
「お前らが勝ったらな」
一緒になって、地面に座った。
その背後、遠くのほうから女たちの笑い声が聞こえてきた。
珍しい。起きているのだろうか。夜に働く彼女たちが昼間に活動するのはまれだ。
少年たちのうちがアーレズの後ろのほうに手を振る。アーレズも振り返る。
見覚えのある女たちが二人ほど、明るい声で笑いながら歩み寄ってくるところだった。
その二人の間に、見慣れない女が一人挟まっている。
この辺の街娼にしては珍しくひとつなぎの腹が隠れる服を着ていて、頭に透ける更紗を軽く巻いている。どこぞの奥さんに見える。顔立ちは整っているが美人というよりは可愛らしい雰囲気で、アーレズはなんとなくとっつきやすさを感じた。年齢は二十代半ばくらいだろうか、甘いつくりの顔を見るともうちょっと若く見積もってもいいかもしれない。
背中に、一本の長い棒を背負っていた。何だろう。護身用の杖か何かだろうか。布を巻きつけているため具体的に何なのかは判別できない。
「あ、アーレズ」
街娼のひとりが手を振る。
「あんたのこと探してたんや。すぐ会えてよかった」
「俺を?」
「せや。この子、あんたに会いたかったんやって」
真ん中にいた彼女がにこりと笑った。その人懐こい感じにアーレズは少し照れる。街娼たちのおかげで年上の女性には慣れたつもりだったが、ちゃんとしている婦人と接することはそうそうない。しかも名指しとは、いったいどういうことだろう。
「あんたがアーレズか。思てたより大きいな」
彼女はアーレズの目の前まで駆け寄ってきた。確かにアーレズのほうが頭ひとつ近く背が高い。
この一、二年で急に背が伸び、アーレズは仲間たちの中でもとりわけ大きくなった。大陸ではアルヤ人女性は比較的体格がいいほうだと聞くが、平均的な女性なら結構見下ろすことになる。
威圧感でもあるのかとちょっと心配したが、彼女は気にしているそぶりはない。
「
ちょっと馴れ馴れしいが、そこまで嫌ではなかった。アーレズは軽く頭を下げ、「俺がアーレズだ」と応じた。
名乗ることに抵抗はなかった。多少身ぎれいにしていても、貧民窟にひとりで来るような女はみんな訳アリだ。アーレズの名前を知っている人間も限られている。このあたりの悪い連中と名付け親であるカノしかいない。つまり、彼女もこのあたりの悪い連中の仲間で、表通りを堂々と歩けない身分なのだ。
そう思っていた。
「何か用?」
尋ねると、彼女が体を寄せてきた。こういうことには慣れたはずのアーレズだったが、初めて会う女性、それも身ぎれいな女性にこうも近づかれると、やはりちょっとどきっとする。
小声で、耳に吐息がかかるかどうかという距離で、話しかけられた。
「うちな、国王陛下の回し者やねん」
「は?」
意味がわからない。酒の香りはしないが、薬でもやっているのだろうか。
「なに言ってんだ、あんた」
スーリが神妙な顔をした。
「二人きりで話そう。みんなに聞かれたないのはアーレズのほうやと思うねんから」
「はあ」
腕をつかむ。さらに暗い路地のほうに引っ張る。彼女の目指す先にあるのは便所代わりの行き止まりで、普通は誰も近づかないところであった。
「見せたいもんがあんねん。お姉さんのこと信用したなるええもん見せたるわ」
女たちが「やらしいわ」と言ってきゃらきゃら笑った。スーリがひらひら手を振って「せやで、うち、えっちなお姉さんやねん」と適当なことを言った。
「遠路はるばる王都から青少年をたぶらかしに来たんや。手ぶらで帰るわけにはいかへん」
誰も止めてくれなかった。アーレズはスーリに引きずられるがまま行き止まりのほうへ向かった。
角をひとつ曲がると、すえた臭いが漂う薄暗い場所に辿り着いた。三方が壁に囲まれている。長居したいところではない。空気が悪い。
仲間たちが女を連れ込んでよくないことをするのにも使う場所でもある。
女のほうからこういうところに誘われるというのは、普通のことではない。
アーレズは少し身構えた。
しかしスーリのほうは警戒している様子ではなかった。彼女は王都から遠路はるばるやって来たと言ったが、こてこての西部弁であることもあり、長年このあたりを徘徊しているかのように見えた。
「あんた、何なんだ?」
アーレズが改めて問いかけると、彼女はまた唇の端を持ち上げて微笑んだ。
「やから、国王陛下の回し者やて言うてるやん」
「信用すると思ってんのか?」
「まあ、普通はせえへんやろうな」
「あんた何かヤバいクスリでもキメて――」
そうこうしている間に、彼女は背中に負っていた棒状のものを胸の前に通していた革帯からはずし、腹の前に持ってきていた。
何をする気だろう。
彼女の白く華奢な手が、布をくるくるとはずしていく。棒状のものの中身が見えてくる。
途中でその正体に気づいて、アーレズは目を丸くした。
それは剣だった。薄紅色の、珊瑚色に似た石をふんだんに使われた柄と鞘の、美しい刀剣だった。清らかで綺麗で、たおやかで麗しく若々しい女性を思わせた――ちょうどスーリのような、だ。
直感でわかった。本能でそれを感じ取った。
彼女こそ、本物の仲間だ。
「見て」
彼女の手が、柄を握る。
引く。
桜色の刀身が、ほんのわずかに顔を見せる。
「見覚えのあるつくりの剣やない? カノさんは自分の神剣アーレズの前で抜いたことはないんやろか」
思わず自分の腰元に手をやった。
それをスーリは見逃さなかった。
「心当たりがあるようやな」
ちょっと意地悪く笑うところが邪悪で美しく見えて、アーレズは少し寒くなった。
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