第五部:円《まど》かなる陽《ひ》の中で

第19章:橙の若鹿の絶叫

第1話 彼と同じ色の瞳

 タウリスに来るのは、人生で何度目だったか。


 アーレズとその母カノは数ヵ月から一年ほどで引っ越しを繰り返している。


 母は一ヵ所にとどまることを極端に恐れている。彼女はアーレズが生まれてからのこの十五年の間――もしかしたら妊娠中からかもしれないが――ずっと何かから逃げ続けていて、少しでも気にかかることが起こるたびにアーレズの手を引いて次の町へ移った。


 引っ越し先は必ず都市だ。村落だと隠れられないから、もあるし、お嬢さま育ちだと思われる母にとって田舎は苦痛だから、もあるだろう。とにかく、南部の州都ティラチス、東部の州都メシェド、北部の州都レイ、そして西部の州都タウリスの四ヵ所をぐるぐる回っている。


 首都エスファーナには行ったことがない。


 母は今のところその理由を明らかにしていないが、アーレズはうすうす察していた。

 だが口には出さないようにしていた。

 母がアーレズには何も知らない子供のままでいることを望んでいる。それならそれがアーレズにとってはすべてだ。


 タウリスの雑踏の中にひとり溶け込んでいると、アーレズも安心する。誰もアーレズを見ていない。

 アーレズは絶対に目立ちたくなかった。名前を呼ばれることすら嫌っていた。アーレズがアーレズという名を名乗ることはほとんどない。その名は母だけが知っていれば十分で、母以外の人間に呼ばれたくなかった。


 質屋で金の耳飾りをひとつ換金した。母が王都を出る時に持っていた紅玉ルビーの耳飾りだ。


 アーレズを養うために大量の金品を持って『家』を出た、と母はいう。詳細は不明だが、アーレズは知りたいとも思わない。とにかく彼女は数え切れないほどの貴金属を持っていて、ある時までは母子はそれを売って生活していた。今もアーレズはその金で食事や衣服を買っている。

 母自身はこの数年男に養ってもらうことを覚えた。

 彼女は、夕方に家を出て、情夫の家で夜を過ごし、朝食を取ってから家に帰ってくる。食事も衣服も男に与えられるので自分で用意することはない。

 彼女はそれを、節約だ、という。この先もアーレズに金銭を残すためには、自分の身の回りのことは自分でなんとかする、というのだ。


 そして半年もすれば男を捨てて次の町に行く。


 小さかった頃はそれが悲しかったり寂しかったりもしたが、十五歳になったアーレズにとってはもはや当たり前になってしまったので何の感想もない。


 金貨の入った袋を腰に携え、次の店に行く。


 タウリスの古い市場には観光客向けの屋台がある。アーレズはそのうちの一軒、最近通い慣れた店舗でパンと煮物を買う。どうせ母は昼間は寝ているので一人前だ。


 屋台の店主である年配の男性に声をかけられた。


「あんさん、前髪切りなはれや」


 アーレズは長く伸びた自分の黒い前髪をつまんだ。頬にかかるかかからないかまで伸ばしている髪は目を完全に覆い隠す。


「目ぇ悪くするわ。心配や」


 放っておいてくれ、と言うこともできずに、煮物を自前で持ってきた器に入れてもらうのを黙って待った。


「なんや訳アリの気ぃするさかい何も言わんとこ、と思っててんけど、さすがにワシらもあんさんみたいな若い子ぉが毎日ひとりでふらふらしてはるのを見ると心配に――」

「大丈夫です」


 彼の言葉を遮るように言うと、彼は少し考えてから、「さよか」と呟いた。


「余計なこと言うたわ。すいません。おまけしたるし、また来なはれや」

「いえ、別に」


 アーレズは店主が差し出した器を受け取った。


「おおきに」


 こういう言い方をするということは、あの店主はもうアーレズのことを覚えているということだ。二度とこの店には来られない。また別の店を開拓しなければならない。面倒だ。店員が何も言わない店を探すのは骨が折れる。


 いっそのこと外国に行ければいいのに、と思うことがある。アーレズも母も外国語はできないが、アルヤ語はこの国の外にも通じる地域があるらしい。サータム帝国にでも行けばもう何かから逃げる生活は終わるのではないか。


 母は何をためらっているのだろう。


 どこか遠くに行きたい。彼女を連れて、誰もアーレズと母の存在を気にかけないところでもう何にもおびえることなく暮らしたい。


 いろんなことを諦めてきたアーレズだったが、それでも、毎晩眠る時間にどっと溢れてくる疲労感を思うと、いっそのこと楽になりたい、と思う日がないでもない。


 この国のどこにも自分の居場所はない。唯一母だけが愛してくれる。自分たちは二人でどこかに行くしかないのだ。



 帰宅するとカノがいて、起きて酒を飲んでいた。居間の壁にもたれかかり、白濁した酒をさかずきに入れ、ひとりで漬け物をさかなに飲んでいる。


「おかえり」

「ただいま」


 荷物を置き、絨毯の上に布を敷き、皿を並べる。いつもどおりのひとりの食卓だ。


 母がアーレズを眺めている。

 その視線が決まり悪くて、アーレズは呟くように言った。


「母さんの分、ないけど。買ってこようか?」

「それはいいんだけどさ、そんなことより聞いてよ」


 これもいつものことだった。

 彼女はアーレズの話を聞くより自分の話をアーレズに聞かせるほうが好きだった。アーレズは彼女が起きている時はいつも浴びるように彼女の話を聞いていた。


「なに?」

「また別れちゃった」


 最近ここで捕まえた情夫と、だろう。


「正妻が乗り込んできやがって」

「喧嘩したの?」


 それで刺されそうになったことは一回や二回ではない。アーレズももう慣れたのでいまさら驚きはしない。


「いや、体裁が悪いから第二夫人になってくれ、って言われてさ。愛人を囲ってるって思われるより、そこそこの年齢でも独り身の女性を養っている、って見られたほうがいい、って言うから」

「なるほどな」


 それももう慣れた。彼女はよく求愛、求婚される。そしてそれを冷たくあしらい、捨てていく。


 母は美しい。緩く波打つ長い黒髪はまだ白髪などは一本もなく艶やかだったし、浅黒い肌は滑らかでほくろもしみもない。大きな目には濃い睫毛がびっしりと生えていて、唇は少し厚めだ。胸や腰は豊かで、息子のアーレズは何とも思えなかったが、彼女の肢体が惜しみなく称賛されているのは一応知っていた。

 彼女は先日三十四歳になった。そろそろ中年といってもいいような年齢ではある。けれどおそらく一見しただけではもう十五歳の息子がいるとは思われないのだろう。確かに彼女は家で良妻賢母をやるというよりは祝宴で男と戯れてはしゃいでいるのが似合う女性だ。


「なーにがそこそこの年齢よ、失礼しちゃうわ」


 そう言って、彼女はまた一口あおった。今日はいつもより少し早い調子で飲んでいる気がする。しかし止めると機嫌を悪くするので、アーレズは食べ飽きた料理を口に運んでいるだけで何も言わない。


「あたしはいいのよ」


 男と別れると、彼女は決まってそう言う。


「あたしにはアーレズがいるもん。アーレズと二人きりで十分」


 そして微笑む。


「ね、アーレズはお母さんが大好きよね?」


 アーレズは「もちろん」と言って頷いた。


 すると彼女は嬉しそうに笑うのだ。


「アーレズだけがあたしのこと愛してくれてるのよ。アーレズだけがあたしのことをわかってくれるの。アーレズはお母さんのものなんだからね」

「うん」

「だいすきよアーレズ。お母さんのこと捨てないでね」

「うん」


 彼女の手が伸びた。これはちょっと驚いた。いったい何をする気だろう。


 華奢な手が、額と前髪の間に割り込む。前髪を持ち上げ、頭に撫でつける。


 出てきた額に、彼女は口づけをした。


「可愛い。フェイフューとおんなじ色の目」


 彼女はアーレズの蒼い瞳が好きだ。


 だがアーレズはこの目が嫌いだった。呪われているとしか思えなかった。


 違う。死んだその王子からではない。

 この瞳は、おそらく、アルヤ王ソウェイルから受け継いだものだ。


 消えてしまいたかった。




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