第28話 そして、王国の春はもうすぐそこに

 そして季節は巡りゆく。






 冬の終わりのある日、雨上がりの少し肌寒い日に、ホスローはヴァンとスーリを連れてラームテインの家を襲撃した。また夜更けまで本を読んでいたらしいラームテインは眠たそうだったが、この春に成人式を迎える三人の少年少女に引きずられては敵わない。彼はしぶしぶ三人の引率役として出掛ける支度をしてくれた。


 四人で廟の中に入っていく。

 中は聖火が煌々と燃えていて暖かい。暖房のために燈している火ではないのだが、ホスローは体の強張りが解けていくのを感じた。


 入ってすぐ、美しい星形の格子の向こう側に石の棺が納められている。

 棺の上には、赤地に蒼と金の刺繍で太陽と草花の紋様が施された布が掛けられ、乾いた白い花弁の花束がのせられている。


 ホスローは格子に指を突っ込むようにして鉄の棒をつかんだ。


「開けて中に入ることもできるよ」


 ラームテインが言う。


「王のご許可が下りれば、だけど。あのお方が否と言うわけがないからね」


 ホスローは目を細めた。


「……君のお母様なんだし」


 ここは代々の赤将軍の遺骸の眠る廟だ。


 将軍とは軍神だ。死してなおアルヤ王国を守る英雄的存在である。聞くところによると新たな死者が出た時にひとつ前の死者は棺から出されて民間人のように埋葬されるらしいが、後継者が生きて元気であるうちは先の将軍はこうして祀られるのだそうだ。


 ホスローの母親も英霊になった。


 彼女は今、ここで静かに眠っている。後継者であるホスローが死して祀られるその時まで、彼女はここから皆を見守っているのだ。


「――お袋」


 目を閉じ、静かな声で語り掛けた。


「上の学校に上がれることになった」


 勉強のできない息子を心底心配していた彼女の様子が目に浮かぶ。


「試験、通ったぞ。これから先、俺は軍人として勉強することになる。将軍として、でも、兵士として、でもなく、軍人として、武官として、だ」


 ホスローの隣でヴァンが明るい声を出した。


「おっれもー! 俺もホスローと新制学校に通うぜ! ホスローのことは俺がちゃんと見てるから心配すんなよな!」


 スーリも「うちもや」と囁くように言った。


「うちは男の子の行く学校には行かれへんけど、尼さんたちに歴史や算術を教えてもらえることになりました。ちゃんと勉強して、陛下が今度作られる新しい女学校に入れるよう頑張りますわ」


 三人はそこまで言うと目を閉じた。そして、しばらくその場で静かに祈りを捧げた。いまさら母に捧げる祈りなどと思うと少し恥ずかしかったが、ホスローはそうすることで何かが彼女に届くような気がしていた。


 あれから半年が過ぎた。


 ホスローはスーリを王都エスファーナに連れて帰ってきた。妹としてでもなく、姉としてでもなく、婚約者として、だ。


 スーリに帰れる実家はない。所属していた妓楼もユングヴィが勝手に辞めさせてしまった。行き場のないスーリは知らぬ土地に連れていかれることを承知するしかない。


 そう思うとホスローは胸が痛んだ。彼女は本当は愛などないのに自分の庇護を求めて結婚すると言い張っているのではと思うと、悔しいし申し訳なかった。


 その件についてホスローは誰にも相談できなかったが、父は何もかもお見通しであるかのようにこう言ってホスローの頭をぽんぽんと叩いた。


 ――まあ、難しいことはお前らが大人になってから考えろ。


 歯を、食いしばる。


 自分たちはまだ大人ではない。

 もうすぐ十五の成人式だと言っても、十代の少年少女であることに変わりはない。

 守られている。

 それを思い知らされた。


 父サヴァシュといえば、だ。


 彼は表向きは何事もなかったかのような顔をしている。母を失って途方に暮れる子供たちをあやして日々を過ごている。いつもどおり、普段どおりだ。


 ホスローの下には七人の弟妹がいる。

 生んだ子供たちを全員無事に成人させるのは彼女の遺志だ。彼女は確かに、私の子供たちを守ってほしい、と言い遺した。その気持ちを、サヴァシュは受け継いだ。


 けれど、ホスローは知っていた。


 彼は今、すさまじい喪失感を抱えている。朝顔を洗ったあと、昼食事を取ったあと、夜眠る前、ふとした時に妻の姿を探して立ち尽くしている。


 彼は干からびて文字どおり骨と皮だけになった遺体から小指一本分の骨と同じくらいの長さの赤毛を一房切り取った。そして、小瓶に入れて肌身離さず持ち歩いている。


 また、彼はこんなことも言った。


 ――黒軍が大陸最強の時代はそろそろ終わるんだろうな。


 ぎゅっと、胸の奥が締め付けられる。


 ――お前は勉強しろ。部下に新しい大砲を撃たせる軍人になれ。


 憧れの存在だった父が自ら最強の座を降りた瞬間であった。


 唇を引き結んで、涙を堪えた。


 その時廟の外から声が聞こえてきた。


「あ、いたいた! 探しましたよ!」


 三人が目を開け、出入り口の方を見ると、ひとりの少年が手を振っていた。

 まだ小柄で華奢な少年だ。大きなはしばみ色の瞳と少し癖のある同じくはしばみ色の髪をしている。

 そして、背中に白銀の神剣を負っている。


「クバード!」


 少年――クバードは名前を呼ばれると嬉しそうに笑った。


「僕も呼んでくださいよ! 今度からは十神剣の仲間に交ぜてくれると言ったじゃないですか」


 ホスローは苦笑した。屈託なく笑う彼の笑顔は今のホスローには眩し過ぎた。


 クバードが棺の前に来る。

 彼は丁寧にひざまずき、両手を合わせてユングヴィに祈りを捧げた。

 彼もまた今は亡き同僚の息子としてユングヴィに可愛がられてきたはずだったが、ホスローやスーリほどの思い入れがあるわけではなさそうで、すぐに立ち上がった。


 ラームテインが「結局持ち歩くことにしたんだね」とこぼした。


「白の剣。本当に君が継承することになったんだ」


 クバードはすぐ「はい」と頷いた。


「陛下が、同世代の十神剣が三人もいるから、今のうちから同じ将軍として親しくしておいた方がいいだろう、とおっしゃって。僕にも神剣を授けてくださったんです」

「ちょっと早いんじゃないかな」

「そうおっしゃいますが、皆さんだいたい十四歳ぐらいで抜いているそうですし、僕もホスローのひとつ下で今年十四ですからね」


 ラームテインが眉をひそめる。


「でも、白将軍は重責でしょうよ」


 クバードはまったく動じなかった。


「覚悟の上です。僕は母からそのように育てられました。父のように偉大な白将軍となって太陽のために死になさい、と」

「クバード……」

「というのは大袈裟で、陛下はそういう忠誠心は好まれないんですよね。成人しても当分はオルティさんが代理を務めてくれるそうですし、僕が本当に白将軍として活動するのはもっと先、五年先か十年先か、さっぱり未定です。軍学校も当分通う必要がありますから――白将軍は将軍であると同時に白軍兵士ですからね」


 ホスローは下唇を噛んだ。ホスローが受験して落とされた白軍の軍学校にクバードは留年も浪人もすることなく通っている。もう生まれた時から出来が違い過ぎる。ヴァンも思うところがあるらしく、自分の胸を押さえて「いたたたた……」と呟いた。


「まあ、何はともあれ、今日は休日ですから」


 クバードはその笑みを絶やさなかった。


「僕もついていきますね、師匠」


 ラームテインが顔をしかめた。


「は?」

「師匠?」

「いや、待って。どうして君まで僕を師匠と?」

「え? ラームテインさんが僕にも兵法を教えてくださるんじゃないんですか? ホスローと、ヴァンと、スーリと。そこの仲間に入れてくださるんだとばかり思っていました」


 ラームテインは「違う!」と絶叫したが、面白くなってきたホスローは「そうそう、それな」と頷いた。ヴァンも「あー四人になってますます楽しくなってきたなー」と言い放ち、スーリも「ええやん賑やかで」と肯定している。


「みんなで勉強しよ! せっかくうちら同世代でまとまってるんやから、みんなで師匠を囲んで仲良うしよ」

「いや、僕を囲まずに四人で遊べばいいんじゃないかな」


 廟詣でもここで終わりだ。ホスローは「次行こうぜ、次」と言って率先して出入り口に向かった。発起人であり棺に眠る人間ともっとも近しい存在だったホスローがそうと言っては皆も終わりだ。全員が団子になって外に出てきた。


「次はどこに行く?」

「黄将軍の廟だろ」


 そこには、カーヒルの父親が眠っているはずだ。


「俺たちには、まだ、向かい合わないといけない人がいる」


 ホスローがそう言うと、一同は神妙な顔をして頷いた。


「――そんな風に背負う必要はないんじゃないかな」


 言ったのはラームテインだ。


「君たちはまだバハルのことまで気に掛ける必要はない。それは僕であり、エルであり、サヴァシュがすべきことだ。あの時いた僕らが――」

「いや。俺は直接会っちゃったからな」


 ヴァンが珍しく「俺もな」と真面目な声音で言う。


「黄の神剣を継承した人間として。知らなきゃいけない歴史ってもんがあるんだ」


 ラームテインが苦笑した。


「なんだか大人になったね、君たち。そんなに急いで大人にならなくてもいいよ」


 ホスローは首を横に振った。


「ぜんぜん大人なんかじゃない」


 一歩を踏み出す。


「ちょっとかっこつけた言い方になっちゃって、恥ずかしいけど。あえて言わせてもらうと。――俺、今回の戦争で学習したんだ。自分の幼さを知ることが大人になることの第一歩なんだな、って」


 一同はまた、少しの間黙った。


「昔何かの本で読んだんだけど」


 沈黙を破ったのは、また、ラームテインだった。


「子供のためにと言って死ぬことも一種の虐待だそうだよ」


 ホスローは天を――太陽を見上げて何も言わなかった。


「見たくないものを見なくても済むならそれに越したことはないのにね」

「ま、大丈夫。俺、頑丈だからさ」

「強がらなくていい」


 そして、彼はこんなことを言い出した。


「というか、今年三十路になるのにこんな感じの僕に向かってよくそんなことが言えるね……。僕こそいつになったら大人になるんだろう……」

「うわあ……」

「頑張って……」


 四人で前に向かって歩き出す。


「陛下の悲願の十神剣十人集合はあと少しですよ。蒼の剣の継承者を見つけ出して、橙の剣を取り戻す。あと二本です」

「その二本がまたきっつい道のりの気がするんだけどな。まあ、兄貴ならなんとかするだろ」

「そうや、今はまずうちらがしっかり勉強せんと。うちらが十神剣集合に協力できるようにならなあかんよ」

「なるようになる! 前向きに行こうぜ、前向きに!」


 ホスローの背中を、ヴァンが思い切り叩いた。ホスローは笑ってそれを受け入れた。


 もうすぐ王国に春が来るのだ。


 太陽は今日も輝いている。





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