第23話 妖怪エルナーズ 2


 ヴァンの方を見た。彼はもう頭の情報処理の速度が焼き切れたのか真顔で沈黙していた。


 スーリの方を見た。彼女は何かを言い掛けて口を開けては閉ざしていた。視線も落ち着かない。次の言葉に悩んでいるらしい。


 自分が言わなければならないらしい。


「俺のこと、憶えてますか」


 エルナーズは即答した。


「忘れるわけないでしょ、ユングヴィのところのおチビちゃん。あんた、誰のおかげでこの世にいると思ってんのよ」


 こんな恩着せがましいことを言われるとは思っていなかった。しかし母の言葉が真実なら言い返すこともできない。


「懐かしいわね」


 また、煙を吐く。甘い匂いがする。


「九年前、ユングヴィやサヴァシュとは王都で深遠なおしゃべりをしたわ。内容についてはラームテインに聞いてごらんなさい、会って話せるのなら、だけど。だから王都は俺にとって怖いところなの、分かってもらえるかしら」


 絶対聞かない方がいい。


「十五年前もそう。俺、頑張ったの。怪我をして、不安なことばかりだったけれど、弱っているユングヴィを放り出すのはかっこ悪いと思ってね。あの頃から俺はいつだって美しくありたいと思っていたのよ、このタウリスの華としてね」


 ユングヴィはたぶん恨まれている。


「もっと言えば、十八年前からそうかもしれない」


 そうなるともうホスローはまったく姿かたちのなかった時代だ。


「アルヤ王国軍はこのタウリスの街を焼いたわ。何度も、何度も」


 今は華やかなこの街も、建物はみんな新しい。


「でもいいのよ。それが俺たちタウリスの娼妓の誇りなの。何度焼かれてもよみがえる町、タウリス。素敵でしょう?」


 ホスローには何と言ったらいいのか分からなかった。彼が何を言いたいのかがよく分からなかったからだ。彼はいったいどんな反応を求めているのだろう。何について語りたくて、どうしてこんなことを言うのだろう。


 ホスローが悩んでいると、隣でスーリが口を開いた。


「せやからと言ってタウリスに引っ込んで宿命から逃げてはるのは違うと思うんですけど」


 スーリの顔を見た。

 彼女は真剣そのものの顔をしていた。


「タウリスタウリスタウリスて。そらタウリスはいにしえのアルヤ帝国の都やし綺麗でええとこなのは分かってんねんけど、神剣抜いたんは神剣抜いたんやもん。こんなところで偉そうにしはって自分は都の華ー浮世のことは関係あらしまへんーみたいな顔しとるのめっちゃ腹立つわ」


 エルナーズの顔から笑みが消えた。


 なるほど、と思った。

 彼は十神剣としての仕事はタウリスのために生きることに反するものだと思っていて、彼は後者を選択した以上もう十神剣には戻らない気なのだ。ここで若衆を売ってはんなり過ごすことこそ何よりものことだと、サヴァシュやユングヴィやラームテインはそんなエルナーズにとっては王都の悪い奴らだと言いたいのだ。


 よく言ったぞスーリ、と心の中で拳を握り締めた。


「なんやどんなすごい人が出てくるんか思たらただの駄々っ子や。ええ年こいてよう働きもせんとここで綺麗なお兄さん並べてタウリスのお金持ちから搾り取って何がタウリスの娼妓の誇りやねん」


 エルナーズが上半身を起こした。


「あんた素朴な西部弁話しはるね」


 今まで彼の口からは出たことのないタウリス言葉だ。


「ええんやで、思たとおりに言うても。どうせうちの西部弁はドドドド田舎の西部弁や」

「そないなこと言いやらしまへん。いとけない顔して怖いこと言わんといて」

「誰の顔が幼稚やねん。うちかてもう十四やわ」

「よう言われへん。ねえ、うちには色事はできても戦のことは分かれへんさかいに――」

「さかい! さぶいぼ立つわ!」


 スーリが立ち上がる。


「うちタウリスの人ほんま嫌いや! 言いたいことあるんならはっきり言いや!」


 エルナーズも立ち上がる。案外背が高いので、座ったままのホスローとヴァンは圧倒される。

 エルナーズがスーリを見下ろす。


「はっきり言わな理解してくれはらしまへんのやろか。ぶぶ漬け出しましょか」

「上等やわ、うんて言うまでうち帰らへんからな。追い出したら玄関でここのお兄さんたちにイタズラされた言うて泣いたるで、表通りみんな王都から来はった兵隊さんやからどんなことになるのか想像してみぃ」


 スーリとエルナーズはしばらくにらみ合っていた。

 ホスローとヴァンはただただ震えていた。


「――あんた、名前は?」

「スーリ」

「桜の剣を抜いたの。ベルカナの後を継いだのね」

「前の将軍がどんな方やったのかはよう知らんねんけど、せやで」

「それまではどこにいたの? 西部のどこ出身なの」

「どうせ知らんやろうから言うのも癪やけど、一応言うとくとカレギール県のヤームチー村や」

「どうしてそんなドドドド田舎から出てきたの」

「口減らしや。兄弟が多くて売られるか出ていくかの二択やってん」

「売られたの」

「二年前な。自分で出てったんやけど結局自分で売ったわ」

「自分で売ったの」

「せやで。これでもうちは立派な踊り子や、これでもな」


 エルナーズが右目でスーリの体を舐めるように見る。


「そんな貧相な体で、十二から? 立派な踊り子をやっていた、と」


 しばらくの間、彼は沈黙していた。


 ややして、自ら布団に戻っていった。寝そべりはしなかったが、また、水煙草の管を手に取り、一度吸って吐いた。


「アルヤ王国はまだそんな国や」


 今度は古めかしいタウリス言葉でもなかった。スーリが話す西部弁にも似た、だが先ほどのタウリス言葉に似た響きの言葉だ。


「十四の子が何も知らんと桜将軍をやらされてはんのやな。どこが安全かも教えられへん。誰も言いやらへんであんたはその細い体を売るんや」


 そして、「せやし」と続けた。


「俺はタウリスの男色の若い子だけは俺が守らなあかんと思って店を開いた」


 スーリも落ち着いたのか腰を下ろした。


「せやったんか……」

「まあ、もうええんやけど」


 また、水煙草をくゆらせる。


さくら軍が何するところか聞いてる?」

「知らへん」

「従軍看護婦兼慰安婦やしな」


 スーリの目が真ん丸になった。

 まさか知らないとは思っていなかった。ホスローにとっては当たり前のことだったからだ。いわゆる桜乙女と呼ばれる彼女たちと接する機会が多かったからかもしれない。王都にいたら自然とみんなが知ることなのだ。


「その頭をやらされるのん、どういう意味か分かってはる?」


 スーリが黙ってうつむいた。

 彼女の華奢な肢体が脳裏に浮かんだ。白く細く今にも壊れそうで、これ以上誰かに傷つけられてほしくない。

 自分のことを棚に上げて、と思われるかもしれない。

 それでも、もう二度と自分のような男に出会わせないためにも――


「大丈夫だ」


 ホスローは断言した。


「スーリのことは俺が守る。スーリがもう二度とそういう扱いを受けないように俺が見ていてやる」


 エルナーズがホスローの顔を見た。

 彼の表情が驚いているように見えた。


 あんまり見つめられていると恥ずかしくて、ホスローもうつむいた。

 そして小声で付け足した。


「あの兄貴がそれを考えずにスーリに神剣を抜かせたとも思えない。スーリが最低限兄貴に守られながら働くことを見越していると俺は信じてる」

「ホスロー……」

「まだ地方には行き届いてないのかもしれない。平和なのは兄貴のお膝元である王都だけかもしれない。でも俺は信じてる、兄貴の治世は絶対いい時代になる。きっと――」


 手を伸ばした。

 勇気が欲しくて、スーリの細く小さな手を、ぎゅ、と握り締めた。


「兄貴がみんなを守るように俺もみんなを守る」


 スーリの手が、震えた。


「タウリスもきっと守られるようになる。……だから――安心、してください」


 途中ですごい大言壮語を言っているような気がしてきて、言葉が尻すぼみになってしまった。


 しばらく、四人とも沈黙していた。早く誰かに何とか言ってほしかった。

 とりあえずスーリの手は離した。もう勇気は貰った。あとは自分がエルナーズ相手にどこまで踏ん張れるかだ。


 最初に口を開いたのは、エルナーズだった。


「あんた、いい男の顔をしてるわね。男なのね」


 エルナーズがそう言うと、ヴァンが「どんな顔?」と言ってホスローの顔を見た。


「俺を置いていくなよ、俺を置いて大人にならないでくれよ」

「この期に及んでそれはねーだろうよ……」


 ヴァンの振る舞いがよほどおかしかったのか、エルナーズが声を上げて笑った。


 その、次の時だ。


「――まあ、そういうことです」


 背後からまったく別の声が割って入ってきた。


 振り向くと、壁にもたれるようにしてラームテインが立っていた。


「陛下の治世は面白いですよ、エル」

「陛下、ですって」


 エルナーズがまた声を押し殺しながら笑う。


「あんたがあの忌々しい小さな太陽を陛下と呼ぶの」

「そうですよ。あなたが九年前に見た愚かで弱々しい太陽はもういません。強かで奥深い青年に育ちました。見違えるほどにね」

「見に行こうかしら」


 そして、彼は、ゆっくり立ち上がった。


「タウリス城でしょう? あんたたちが言うところのソウェイル王とやらのツラ、拝みに行ってやるわよ」


 スーリがぱっと笑みを見せる。


「ほな――」

「やってやろうじゃないの」


 にたりと笑う表情は邪悪なまでに美しい。


「逃げていると思われるのは癪だわ。俺はいつだってかっこよくありたいの」




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