第22話 妖怪エルナーズ 1
タウリスの夜の街はまるで戦争などどこにもないかのように華やいでいた。
むしろ、戦争があるから、かもしれない。今のタウリスには兵士が詰め込まれていて、彼らが癒しを求めて夜にさまよっている。
軍服こそ着ていないが、西部方言を話さない若い男たちが結構出歩いていた。彼らはきっと蒼軍兵士だろう。
臍を出し、胸の谷間を見せ、頭に透ける薄布をかぶった、官能的な姿の女たちが悠々と歩いていく。白粉と花が混ざった匂いがする。ほんの少し前までスーリも同じように振る舞っていたのだと思うと驚きの連続だ。
置き屋の窓から女たちが手を振る。
「どないしたの、坊やたち」
「うちに来なはれ。お姉さんたち、たっぷり可愛がってあげるさかい」
「オトナのアソビを教えてあげるし、寄っていきなはれや」
ヴァンがホスローにしがみついた。
「ホスロー! ヤバい! ここ絶対ヤバいって!」
「いや、夜の街を見てみたいって言ったのヴァンちゃんじゃん。なにびびってんの?」
スーリが「せやで」と先輩面で言う。
「こんなん序の口や。大通りのお店は一見さんも受け入れてはる観光用! ほんまもんはこんなもんやないで」
「ほんまもんはどんなもん!? 俺鼻血出ちゃう!」
窓の向こうにいた芸妓が、真っ赤な唇を一人ですぼめてちゅっと音を鳴らした。ヴァンが「うわーっ」と叫んだ。
「だめだ、俺、これだけで
「なんやて?」
「わーっ、わっ、わーっ! 何でもない! 女の子に聞かせることじゃないんだ! わーっ!」
「うっせーな。落ち着けよヴァンちゃん」
「ホスローはなんで落ち着いてんだよ!」
「やせ我慢に決まってんだろスーリが見てんだよ」
スーリがからっと笑った。
三人揃って、神剣を――そうと分からぬよう厳重に布を巻いた状態で――背負って歩く。
星や月より楼閣の灯りで辺りは明るい。しかし真昼のように、というのとはまた違う。タウリスの夜の街は幻想的で、芸妓たちを蝶にたとえるのもなんとなく分かる気がした。
「ほんまもんはこっちやで」
一歩分先に歩いていたスーリが、意地悪くにたりと笑う。この少女には時々そういうところがある。
二つ角を曲がった。
一気に静かな通りになった。
薄暗い。確かに壁には灯りがあるが、点々と燈る炎はいわゆる一見さんお断りを掲げているように見えた。自分やヴァンのような初心者が入っていくところではないのだ。
建物の中から視線を感じる。けれど具体的にどこから誰がどう見ているのかは分からない。
とんでもないところに来てしまった。
だが、もう、逃げられない。
「こっちや」
やがて突き当たりに至った。
ホスローとヴァンは言葉を失った。
三階建ての立派な楼閣だった。経典の文句は一切なくただ豪奢な草花の紋様が施された壁、柱には暗めの銀箔がうっすら貼られ、欄干には紅が塗られている。
そんな建物でも入り口は狭く薄暗かった。簡単に入ってはいけない雰囲気だ。
ホスローは唾を飲んだ。
「こ……ここが……」
「エルナーズ様の店」
スーリが無遠慮に入っていった。ホスローとヴァンは震えながら彼女の後についていった。
中に入るとむせかえるような
「どないしはったんや」
声を掛けられて右を向くと、黒一色の一見地味に見えて高価な絹の民族衣装を着た美しい青年が数名絨毯の上に思い思いの体勢で座っていた。
その中でも手前にいて水煙草を吹かしていた青年が、長い睫毛のついた目で、三人の姿を見つめている。
「もう少し大きゅうならはったらお迎えするんやけども。うちは若い子からは取られへんのよ」
そして、くっ、と喉の奥を鳴らすように笑う。
「ましてお
「知ってます」
スーリは強気だ。
「うち、お兄さんたちに用があるんやないです。エルナーズ様にお会いしたくて来たんです」
青年たちが顔を見合わせる。
スーリが背に負っていた神剣を手に取った。器用に
出てきたのは、桜色に輝く宝剣だ。
「うちらは十神剣なんです。十神剣の仲間としてエルナーズ将軍に話をせなあかんのです」
青年たちの顔色が変わったのを見て取って、慌てた顔でヴァンも背中の剣を外した。同じように黄金色の鞘を見せる。
「ほんまに?」
青年たちもアルヤ人なのだ。そして、アルヤ人にとって十神剣ほど強い軍神は存在しないのだ。
ホスローも急いで神剣を取り出した。剣を抜くことはさすがになかったが、普通の人間なら紅蓮の鞘から感じ取るものはある。
「エルナーズ様にお伝えください。うちは桜将軍スーリです。お迎えに上がりました」
痩せた胸を張って、スーリが言った。
「ちょっと、あんた」
「言うてくるわ」
絨毯に座っていた青年のうち二人が立ち上がって、狭い階段を上がり始めた。
ソウェイルの判断は正しかったのだ。あの時彼がスーリに神剣を授けたおかげで話がすんなり進んだ。ありがたいことこの上ない。
ややして、先ほどの青年たちが戻ってきた。そして「お上がり」と言って絨毯の向こう、薄暗い階段を指し示した。
「姐さんが会うてくれはると言うてはるし、あの階段を上がるんやよ」
ホスローは唾を飲んだ。
三人は布を巻くことなく、つまり剥き出しのままの神剣を背負って、狭い階段を一人ずつ上がっていった。
上に辿り着くとまた別の妖艶な青年が待っていて、「こちらへ」と言ってまたさらに上――三階、最上階――に通じる階段へ案内してくれた。
薄暗い、壁の
鼓動が高まる。
この先に、いる。
やがて、一番奥に辿り着いた。
案内してくれた青年が、扉を開けてくれた。
扉を開けてもすぐ中の様子が見えるわけではなかった。分厚い布が何層にも垂れ込めていて奥が見えない仕組みになっていたのだ。
それをさらに掻き分けて奥に進むと――いた。
下唇を噛んだ。
そこには、ぞっとするような美貌の青年が寝そべっていた。金糸の刺繍のある分厚い布団の上で、水煙草をくゆらせながら、邪悪、の一言の他に言い表す言葉のない人間が横になっていたのだ。
高い鼻筋は整った形をしている。厚めの唇には薄い紅を刷いていた。少し明るい色の髪は前髪だけ長く後ろは短い独特の髪形をしており、顔の左半分が隠れるようになっている。右半分には毒々しい紫色の縁取りの化粧を施した目が見えた。
服装も独特だ。下になっている右半身は白地に伝統のアルヤ紋様の刺繍の施された布、上になっている左半身には黒地に北方チュルカ人の部族の刺繍が施された布の使われている服を着ている。足元は裸足で、右足首にだけ幾重にも金細工の足輪を身につけていた。
いやらしい。
妖怪エルナーズは、起き上がることもせず、にたりと笑った。
「――おこしやす」
背筋を悪寒が駆け上がっていった。
「もう少し近くに来て、そこにお座りなさい」
彼はタウリス言葉ではなかった。王都の技芸が話すような、いわゆる姐さん言葉というものだ。それがいいのか悪いのかはホスローには分からなかった。どちらにしてもまがまがしいのには変わりはない。
勇気を出して、一歩、前に出た。
そして、絨毯の上、エルナーズの真正面に腰を下ろした。
スーリとヴァンもホスローに続いた。二人も絨毯の上に座った。
叱られているわけでもないのになぜか三人とも正座だ。
「よく来たわねぇ」
ふう、と煙を吐く。
「しかも子供ばっかり三人もよこして。相変わらず十神剣の他の連中は性格が悪いわ」
見るからに彼が一番強烈な性格をしていそうだが、ホスローは言わなかった。
「いえ、十神剣が、じゃないのかしら」
もう一度、
「性格が悪いのは、アルヤ王かしら? この俺がこんな子供三人に調略されてのこのこタウリス城に帰ってくるともでも思っているのかしら、あの蒼い髪のボウヤは」
とんでもないところに来てしまった。
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