第17話 三人揃ってわんわんと

 ユングヴィの遺骸が安置されている部屋に入ると、きつい匂いの香が焚かれていて、いかにも死者を弔っているという感じがした。部屋の隅にはサヴァシュが力なく座り込んでいる。


 一週間ぶりに見たユングヴィの顔は想像以上に乾燥していた。人間は体内を血液が循環しなくなるとこんな顔になるのか、と思うとホスローは身を強張らせた。

 唇はめくれ上がり、眼窩は落ち窪んでいる。

 だが、眉や髪の色は確かに母の――もっといえば彼女から毛の色を受け継いだホスロー自身のものでもある――それだったし、頬やあごの形は変わっていない。


 たった一週間であった。

 ホスローは永遠だったような気がしていたが、たったそれだけの期間であった。


 まだ原形がある。


 まだ自分の罪は消えていない。


 そう思って突っ立っていたホスローの隣で、ヴァンが唐突に両膝を折った。

 そして、棺にしがみついた。


 ホスローは驚いた。


 ヴァンが声を上げて泣き始めたのだ。


「ユングヴィさん、ユングヴィさん」


 彼は恥も外聞もなくおいおいと泣いた。


「いつも、ホスローんちに遊びに行ったら、ご飯、食べさせてくれたのに。将軍の先輩として、いろんなこと、教えてくれたのに。なのに、ちょっと会わないだけで、こんなことになっちまうなんて」


 みんなが見ている前で、大声で思い出を語りながら、素直に、ヴァンは泣くのだ。


 次の時だった。


 スーリも、だった。


 彼女も棺に縋りついて、わっと声を上げて泣き出した。


「ごめんなさい! ごめんなさい、ごめんなさい! うちが余計なことしたせいで。ごめんなさい!」


 スーリがこんな風に泣くところも初めて見た。彼女もユングヴィが死んだ直後以来一切涙を見せなかったのだ。どんなにホスローが暴力を振るってもまったく泣こうとはしなかったのである。


 もしかしたら彼女も、ホスロー同様罪の意識を感じていたのかもしれない。

 彼女も、自分の罪深さに押し潰されて泣けなかったのかもしれない。


 自分も、ずっと、泣けなかった。


 今、ヴァンとスーリが、声を上げて泣いている。


 今なら好きなだけ泣くことを許される気がした。


 ホスローもしゃがみ込んだ。その場に膝だけでなく手もついた。


 涙が溢れてくる。

 止まらない。

 視界が滲んでぼやける。


「母ちゃん」


 そう呟いた瞬間だった。

 自然と大きな泣き声が出た。


 やっと認識した。


 自分は母親を失ったのだ。


「母ちゃん!」


 ホスローは泣いた。泣けるだけ泣いた。誰が見ているかなど、もうどうでもよかった。とりあえず泣きたかった。

 声を上げ、床に涙を吸わせて、その場でうずくまった。幼子のように、ただただ悲鳴に似た声で泣き続けた。


 母親がいなくなって悲しい。

 頭を撫でる手の感触、抱き締めてくれた時のぬくもり、些細な言い争い、手料理の味、そういったものがすべて失われた。

 悲しい。

 悲しい、悲しい、悲しい。


 涙が止まらない。


 けれどどこか気持ち良くも感じた。

 死者を思って泣いてもいい。死者を手放しで悼んでもいい。

 それがホスローを安心させてくれた。


 今、やっと母の死を真正面から受け止めることができた。


 自分は息子として母親の喪失を泣いていい。


 ホスロー、ヴァン、スーリの三人はしばらく揃って大声で泣き続けた。三人揃って仲良く泣いた。涙と鼻水と唾液でぐちゃぐちゃの顔でわんわんと涙を流し続けた。


 どれくらい経った頃だろう。


 最初に涙を流すのをやめたのも、ヴァンだった。


 ヴァンの方を見ると、彼のすぐ隣にしゃがみ込む影があった。

 ラームテインだ。


「すっきりした?」


 ラームテインがそう問い掛けると、ヴァンはラームテインに抱き着いた。ラームテインが嫌そうな顔をした。


「僕の服で顔を拭くのはやめて!」


 なるほど、そういう手段もあるのか、と思って、ホスローもまたラームテインに抱き着いた。彼の体温と人間らしい皮膚の弾力、そしてほのかな薔薇の香りを感じると心が安らいだ。ラームテインは生きている――それだけのことがこんなにも嬉しい。


「ちょっと、こら」


 なぜかスーリもやって来た。ラームテインとはほぼ初対面のくせに、彼女もどうしてかラームテインの背中にしがみついた。そして、彼女はまた泣き出した。今度は小さくすすり泣く。


 ラームテインが嫌そうな声を出す。


「は? なに? どうして? なぜ増えた?」


 まだ座り込んでいたサヴァシュが喉を鳴らして小さく笑う。


「なんだ、お前、ちょっと見ない間にうまく子供を手懐けられるようになったな」

「冗談じゃありませんよ! 僕が望んだことではないです、一切、まったく、これっぽちも!」


 ヴァンが少しだけ身を起こした。どうやらラームテインの顔を見上げたらしい。


「師匠は泣かねぇの?」


 ホスローもラームテインの服をつかんだまま顔を上げ、ラームテインの顔を見た。


 彼は苦虫を噛み潰したような表情をしていた。


「泣けないね」


 胸の奥がずきりと痛む。


「それは、母ちゃんが昔師匠に酷いことをしたから?」


 しばらく、彼は沈黙していた。

 少ししてから、ゆっくり口を開いた。


「人は大事な人が死ぬと感受性が死ぬんだよ」


 自分の胸の辺りを押さえる。


「心が欠けるんだ。だから他の人が死んでも素直に悲しめない」

「師匠……」

「君たちの心も欠けただろうね。しばらくは何を見ても創造的なことはできないでしょう。僕が九年何もしなかったように、君たちもユングヴィを失ったことでしばらく他の人のことを思いやる気持ちを持たない。特にホスローはユングヴィと一緒に過ごした時間が長いから――僕は親だからどうこうと言うのは嫌いだけれど」


 ラームテインの服の腹を握り締めたまま頷く。


「たとえそうなっても自分を責めることはない。人生は小さなきっかけで少しずつ変わっていくものだから」


 もしかしたら、それは彼自身にも言い聞かせていることかもしれない。

 彼はくだんの第二王子を失った時に心がばっくり割れたのだ。そして今ようやく止血が終わったところなのかもしれない。


「まあ、気長に癒えるのを待ったら?」


 するとサヴァシュがこんなことを言い出した。


「お前には人間らしい心がないのかと思ってた」


 ラームテインが顔をしかめる。


「人の心があったら軍師などという仕事はできませんからね」


 ホスローはちょっと笑った。ヴァンなど声を出して笑った。


 不意に背後から走ってくる音が聞こえてきた。二人分だ。


 振り返ると、ソウェイルとオルティだった。


 そう言えば、母がいつだか王の親征になると言っていた気がする。ソウェイルも、ヴァンとラームテイン、そしてみどり将軍アフサリーを連れてはるばる王都からやって来たのだ。


 タウリスにようやく辿り着いたソウェイルを、遺体となったユングヴィが出迎える。


 彼女は彼を何よりも大切にしていたし、彼も彼女を何よりも大切にしていたのに、その関係もまた死というどうしようもない事象で断ち切られた。


 ソウェイルは棺の縁に両手をつき、しばらくの間呆然とユングヴィの顔を眺めていた。その表情は言うならば虚無だ。何を考えているか分からない、いつもの義兄の顔だった。

 最初のうちは、だ。


 彼は、震える左手を伸ばした。

 そして、ユングヴィの赤い髪を撫でた。


「どうして?」


 そう呟いた、その瞬間だった。


 大きな蒼い瞳から、透明な雫が一斉に溢れ出した。


 ホスローは心臓が握り締められたような痛みを覚えた。


 ホスローにとってこの義兄は偉大な存在であった。悠然、超然、泰然――何事にも動じない、アルヤ王国に、そして我が家に君臨する王様であった。


 彼はユングヴィの骸を抱き起こした。

 オルティが慌ててユングヴィの後頭部を押さえた。そうでなければ首がもげてしまうところだったのだ。もう頭を支えられないほど筋肉が衰えている。


 それでも、ソウェイルはユングヴィの体を抱き締めた。

 その胸に顔を伏せて呟いた。


「どうして俺が立派な王様になる前に死んだんだ」


 ホスローはまた罪の意識を感じた。

 自分は彼からも母親を奪ったのだ。


 長くは続かなかった。

 ソウェイルはゆっくりユングヴィの体を下ろした。

 そしてすぐに踵を返し、部屋から飛び出していった。


「オルティ! 来い!」


 オルティが慎重にユングヴィの頭を下ろしつつ、「はいはい」と返事をする。


「お前ら、分かっているとは思うが、今日のあいつの王様業は終了だ。もう酒を飲ませて寝かしつける」


 サヴァシュが「よろしく頼む」と頷いた。


「どっこらせ」


 重そうな声と体で、立ち上がる。


「まあ、その、なんだ。俺もそろそろガキの面倒見ないとな」


 ホスローはようやく全身から力が抜けていくのを感じた。




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