第15話 この売女《ばいた》のせいで

 赤軍の幹部たちはホスローを責めなかった。

 彼らはほとんど何も言わなかった。ホスローの頭を撫でてくれた人もいた。

 彼らも自分たちの母であり女神であったユングヴィを失った。けれどそれは本来ホスローのものであり、自分たちはホスローへの母性のおこぼれにあずかっていたに過ぎない――そう思っている、と、ある幹部の男が言った。


「ユングヴィにとっては、お前の無事が一番だろうからな」


 彼らの言うとおりだろう、とホスローは思う。


 彼女の最期の瞬間が頭から離れない。


 彼女は自分のために飛び込んできた。


 自分のせいだ。

 自分が考えなしの行動を取ったから彼女は死んだのだ。

 自分がすべての責任を負わなければならない。


 サヴァシュも何も言わなかった。

 言える状態ではない、が正しいかもしれない。

 彼はずっとユングヴィの亡骸の傍らにいてホスローを見ていなかった。ただ徐々に干からびていく最愛の妻を眺めて食事もとらずに過ごしていた。

 彼もまたユングヴィと一緒に干からびていくのをホスローは感じていた。

 こんな父の姿を見るのも初めてだ。

 ホスローの心もまた時が経つにつれて乾燥していく。


 償えるものではない。

 自分はけしてゆるされないことをした。


 それでも自分は赤の神剣を継承した。何度試してみても、神剣はするりと鞘から出てきて赤い光を放った。母が生きていた間には一度もなかったことだった。

 不思議な感覚だ。

 この神剣はホスローにとって生まれた時からずっとそこにあるものだった。母が神剣はいつもホスローを見守ってくれていると言っていたが、おそらく金属であろう神剣をそんなふうに擬人化するのは母の冗談だと思っていた。

 しかしホスローはあの瞬間確かに彼の声を聞いた。

 彼は、ホスローに、戦え、と言った。俺を抜け、と確かに叫んだ。

 生きている。

 それを感じることが、将軍になる、ということか。


 ここにいる他の将軍は父しかいない。

 だが話し掛けられる雰囲気ではない。

 どうすればいいのか。どうあるのが正しいのか。特に今は非常事態だから何かしなければならないのではないか。

 教えてほしい。


 誰にも教えてもらえない。


 幹部たちは話し合いを重ねた結果とりあえずホスローをユングヴィが使っていた寝室に移動させた。

 タウリス城の奥、空軍の司令部のすぐ傍であった。本来空将軍が住むべき部屋だ。

 広い部屋に敷かれた明るい青色の絨毯、壁にも同じ色の織物が掛けられている。冬場は寒いタウリスらしく暖炉がある。天蓋付きの寝台は広く大きくホスロー一人の身には余った。


 母の荷物がそのまま置き去りにされている。

 着替えから彼女の香りがする。


 最悪の気分だ。


 逃げ出したいが、ここにいることが赤将軍の仕事だと言われてしまえばそれまでだ。


 神剣を壁際の刀剣掛けに置き、寝台の上で膝を抱えてうずくまる。


 何をしたらいいのか分からない。


 部屋の扉を叩く音がした。

 顔を上げ、「はい」と返事をすると、幹部の男が一人顔を出した。苦笑している。


「飯は食え」


 食事は生活の基本中の基本だ。


「今までどおりだ。ガキどもと一緒に飯を食うんだ」


 それでも生きろと、彼らは言っているのだ。


 しかも、今までどおり、ということは、少年兵たちと同じ広間で大皿に適当に盛られた食事を取る、ということだろう。

 それに少し救われた。

 誰かがホスローを断罪してくれるかもしれなかった。自分たちから母親を奪ったのはお前だと言ってくれるかもしれなかった。殴ってくれるかもしれなかった。

 食事どころではなくなって、めちゃくちゃになって、世界が壊れてしまえばいい。




 そう思っていたのに、少年兵たちも何も言わなかった。


 文字どおり葬式状態だ。誰もが沈痛な面持ちで黙ってうつむいている。ホスローの顔を見ようともしなかった。


 ホスローが間に入っていき、麺麩パンを千切って煮物につけても、誰も声を掛けてこない。いつもなら、つけ過ぎだ、とか、俺にもよこせ、とか、そういうどうでもいい騒ぎが起こるところを、彼らは何も言わなかった。


 味がしない。


「……ごちそうさま」


 ホスローは二口三口でもう立ち上がった。ここにいても辛気臭いだけだ。気を遣われているのも感じる。ホスローを腫れ物に触れるように扱っている。


「何か言えよ」


 苛立ちを発散させたくて、自分から喧嘩を吹っ掛けた。


「お前のせいでユングヴィ将軍は死んだんだとか、そういうこと、言えよ」


 するとある少年が答えた。


「無茶言うなよ」

「何がだよ」

「俺たちにとっては新しい軍神なんだよ、ホスロー将軍」


 ホスローは煮物の入っていた銀の皿を蹴り飛ばした。どうして自分がそんなことをしたのか分からなかった。ただ謎の負の感情が湧き上がってきて攻撃的な気分になったのだ。

 辺りに煮物が飛び散った。食事用に布を敷いているので片付けはそんなに大変ではないだろうが、少年たちにとっては貴重なおかずが一品なくなったことになる。

 今までだったら、取っ組み合いの大喧嘩になるところだ。

 誰も、何も言わずに、目を伏せていた。


「俺は何をしても文句を言われない立場になれたってことか」

「そうだ」


 ある少年が、目を合わせずに言う。


「今度から食事も別にするよう副長に頼んでくれ」


 もう二度と、ホスローはただの赤軍兵士として活動できない。

 仲間は誰一人いない。ここには自分と対等な人間など一人もいないのだ。

 何もかもが変わってしまった。


「分かった。悪かったな」


 もう何も考えられなかった。

 部屋を出ようとした。


 その時だ。


「ホスロー」


 特別親しくしていたある少年兵が立ち上がり、駆け寄ってきた。

 そして、ホスローの腕をつかんだ。


 ホスローは一瞬期待した。

 今までどおりやろうと言ってくれるのではないか。ユングヴィが死んでも、将軍になっても、数日前と同じように少年兵として活動しよう、と言ってくれるのではないかと思った。


 違った。


「最後にこれ、やるよ」


 ホスローに小さな布袋を握らせた。

 軽い袋だった。中に入っているのは少なくとも金属ではなさそうだ。柔らかいような気もするが、かさついている。紙類のような気がした。


 最後に、と言った。

 餞別のように聞こえた。

 もう、お別れだ。


「ありがとな」


 何が入っているのか分からないが、ホスローは袋を軽く持ち上げてから、広間を後にした。




 ひとりで将軍の部屋に戻った。

 ただただ広い部屋をひとりで使うというのが恐ろしいくらいに孤独だった。

 ホスローはひとりに慣れていなかった。家にいても弟妹たちがいたし、外に遊びに出てもヴァンやラームテインがいたし、軍隊で行動していても仲間の少年兵たちがいた。

 たまには一人になりたいと思ったことはいくらでもある。ここに来てとうとうあんなに恋い焦がれていた単独行動になった。

 そう思っていても気が晴れない。

 独りと一人は違うのだ。

 こんなに広い寝台に寝転がっても、そこに仲間たちがのしかかってくることはない――


 そこまで考えて、最後に渡された布袋のことを思い出した。

 何をくれたのだろう。


 起き上がり、袋の口を広げた。


 ホスローは目を丸くした。


 出てきたのは、乾燥させた葉っぱと、数枚の小さな紙だった。


 すぐに何なのか分かった。


 大麻だ。


 彼らは麻薬をやっていたのだ。かつては浮浪児だった孤独感、そして今は赤軍として戦わされる恐怖感から逃げるために、薬物に手を染めていたのだ。


 その貴重な麻薬を、今のホスローに分けてくれた。


 これを吸えばホスローは元気になると思ったのだろうか。


 元気が欲しかった。強くなりたかった。現実を忘れて大きな口を叩きたかった。


 いつもの自分に戻りたかった。

 あるいは将軍として偉ぶりたかった。


 薬を吸えば、できるのだろうか。


 忘れられるだろうか。


 孤独感も、罪悪感も、怒りも悲しみも、何もかも、薬が忘れさせてくれるのだろうか。


 寝台の上に落ちた数枚の葉とその葉をくるむための紙を見つめる。


 忘れたい。


 現実の何もかもから、離れたい。


 使い方は知っていた。悪い少年兵たちの間ではかなり堂々と流通していたからだ。それはとびきりの不良たちがすることでユングヴィはたいへん嫌っていたが、ホスローは付き合いで一応その場にいて聞き流していた。それが役立つ日が来るとは思っていなかった。


 震える指で葉を潰した。乾燥した葉が砕けた。貴重な葉だ、大事にしなければならない。掻き集めて紙の上にのせた。


 紙を丸める。巻き煙草の形になる。


 寝台から少し手を伸ばしたところに棚があり、そこに金の油灯ランプが置かれていた。

 油灯ランプからは紐が出て、炎が煌々と燃えていた。


 巻き煙草を咥える。


 火に、先端を近づける。


 先端に火が燈る。


 後は、煙を吸う――


「あかん!」


 少女の声が響いた。


 華奢なホスローの手を叩く。巻き煙草が絨毯の上に落ちる。


 少女の小さな足を包む靴が、巻き煙草の炎を踏み潰した。


 顔を上げた。


 スーリが泣きそうな顔で立っていた。


「あかんで、ホスロー」


 白く細い手がホスローの胸倉をつかむ。


「クスリだけは絶対あかん」


 ホスローはすぐにスーリの手をつかんで自分の服を引き剥がすように離させた。


「お前に何が分かるんだ」


 怒りが噴出する。


「そもそもお前が気になるって言い出さなかったらあんなところ行かなかったんだぜ」


 しかも彼女は人質になった。彼女さえいなかったら――自分ひとりだったら逃げられたかもしれなかったし、もっと楽に戦えたかもしれない。


 こいつが足を引っ張った。


 全部こいつのせいだ。


「お前のせいで!」


 頭を覆う布を髪ごとつかんだ。引きずって寝台の脚に叩きつけた。

 金属の棒に背中を叩き付けたというのに、彼女は悲鳴をひとつ上げなかった。それが生意気に思えてホスローは彼女の腹を踏むように蹴った。彼女が小さく「うっ」と呻いた。


 布がはらりと床に落ちた。長い栗色の髪が空気に晒される。美しい、輝くような髪だ。

 あの晩にも晒していた、あの髪だ。


「この売女ばいたが」


 吐き捨てると、スーリが力なく答えた。


「せやで」


 そして、立ち上がった。


 大きな栗色の瞳を守る長い睫毛に、透明な雫が宿っていた。


「クスリやるくらいやったらオンナにしてや」


 華奢な手で、ホスローのすでに大きくごつごつとしている手をつかむ。


「ええよ。うち、何でもする」

「スーリ」

「気にせんといて。もともと処女やないし」


 そう言って、彼女は自分のシャルワールに手を伸ばした。




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