第14話 最強の終焉
黒軍が到着したのはその翌日のことだった。本当はもう少しゆっくりとした道程のはずだったが、ユングヴィの訃報を聞いて寝ずに駆けてきたらしかった。
ホスローは、ただ、呆然と眺めていた。
ユングヴィが棺に横たわっている。
彼女は、今、色彩豊かな染めの入ったカフタンを着せられている。顔にはうっすら化粧を施されている。長い三つ編みも解かれ、洗われた上で下ろされている。
体の周りに無数の白い花が散らされている。
まるで花嫁のようだと、ホスローは思った。この頭の上から大きな布をかぶって顔を隠せば、そのまま結婚式ができる。
いつの日のことだったが、ユングヴィが笑いながら語っていたことがある。
実は、ユングヴィとサヴァシュは正式な結婚式をしていないらしい。ユングヴィに親族がなく、花嫁としての支度が何もできていなかったからだ。サヴァシュの方も、アルヤ人の嫁を貰うのにどんな手順を踏めばいいのか知らなかったそうだ。
クバードの父親やアイダンの義母の夫は結婚式をしろとしつこく迫ったようだが、そうこうしているうちにユングヴィの腹は大きくなり、ホスローが生まれ、子育てに追われ、気がついたらアイダンを妊娠し、また腹が大きくなり――としているうちに計画が流れてしまった。
死んでからようやく、彼女は花嫁になれたのだ。
ずっとずっと憧れていた花嫁に、彼女はとうとうなれたのだ。
夫も傍にいる。
しかし、彼は、花婿、というにはあまりにも年を取り過ぎている。
いくつもの三つ編みに編み込まれた長い黒髪には白いものが交じっている。額にはしわが刻まれている。腹や背中の筋肉は今もまだ鍛えられているとはいえ、それでもすでに隠しきれない脂肪がのっていた。その姿は完全に中年の男のものだ。再婚して若い嫁を貰う男はきっといると思うが、この年齢で初婚はめったにいないだろう。
それでも、彼にとっては、棺に横たわる花嫁はこの世で唯一の妻だった。
ホスローは、棺のすぐ傍に座り込んだまま動かない父サヴァシュの背中を眺めて、何も言えずにただ突っ立っていた。
ホスローは知っていた。
サヴァシュがどれほどユングヴィを愛していたか。どれほど可愛がっていたか。どれほど尊び、慈しみ、大事にしていたか。
それは義兄ソウェイルにとっても夫婦というものの規範になるほど強固なものだったし、年頃のホスローも恥ずかしく感じながらも心の奥底ではなんとなく自分たちの父母のようなものを比翼連理というのだと知っていた。
その背中が、小さい。
「今度は間に合わなかったな」
今までに聞いたことのない小さな声で力なくささやく。
「悪かったな。いつだって俺は出遅れる。あの時も、あの時も、あの時も、あの時も。俺はいつもお前を独りにしてきたな」
太くたくましい指が、蝋のように白い頬を撫でる。
「ごめんな」
その丸まった背中が小さく見えた。
「あともう少し早かったら、お前は怒ってくれたんだろうか」
年老いて見えた。
「何か言え」
だがもう何も言ってはもらえない。
ホスローが母に叱ってもらえることのないように、サヴァシュも嫁に怒ってもらえることのない人生が始まった。
「約束したのにな」
次に語られた話は、ホスローは知らなかった。
「子供たちが大きくなったら、二人で草原を見に行こう、と。言っていたのにな。あと十年くらいだと思ったんだが、お前の人生のほうが足りなかったな」
草原とはサヴァシュの生まれ故郷のことだろう。はるかなる大草原、チュルカ平原のことだろう。
二人はそんな約束をしていたのか。
自分たちがみんな巣立ったら、二人はアルヤ王国を離れて何もないところでのんびりした老後を過ごすつもりだったのか。
サヴァシュにとって、それは夢だったのだろうか。
ユングヴィにとっても、それは夢だったのだろうか。
もう永遠に叶うことのない夢だ。
少しの間、沈黙が続いた。
サヴァシュは黙ってユングヴィの顔を眺めているようだった。
ホスローには声を掛けることができなかった。何を言えばいいのか分からなかった。
恐ろしかった。
自分が母親を失っただけではないのだ。
自分はサヴァシュから嫁を奪ってしまったのだ。
その事実が、重くのしかかる。
自分だけが不利益を被るならまだいい。
ホスローは尊敬する父親から一番大事なものを奪い、壊し、もう二度ともとに戻らないようにしてしまった。
自分の浅慮が、サヴァシュにこんな態度を取らせている。
「ホスロー」
突然名を呼ばれ肩を震わせた。
サヴァシュがここにホスローがいることに気づいているとは思っていなかった。無言でサヴァシュの背中を見つめていたのだ。何にも言わなかった。何のせいで勘づいたのだろう。これが最強の男のなせる技か。
「お前、こいつの最期の時、近くにいたのか」
ひとに訊いて知っているだろうに、サヴァシュはあえてホスロー自身に訊いて確認しようとしている。
怖かった。
父に怒られたことなどなかった。すぐ小突いたり小言を言ったりする母とは異なり、ホスローは記憶に残るほど父に叱られたことはない。
今度こそは何かされるかもしれない。自分はそれだけのことをした。
だが嘘をつくのもゆるされない気がした。サヴァシュの前では何もかも包み隠さず言わなければならないような気がしていた。
「ああ」
ホスローは、こわごわ頷いた。
「母ちゃんが息を引き取る瞬間、俺、すぐ傍にいた」
「そうか」
次の言葉に、ホスローは絶句した。
「じゃ、こいつは安心して逝ったんだろうな」
心臓が握り潰される。
「お前が無傷であることを確認して。よかったよかったと思いながら、死んだんだろうな」
込み上げてくるものはあったが、ホスローは呑み込んだ。
自分は泣くことを許されていない。
母を殺したのは自分だ。自分の愚かさが母を死に至らしめたのだ。その自分が被害者のように泣いていいわけがない。自分のせいで何もかもが破綻した。
泣いてはいけない。
受け入れてはいけない。
自分が愛されていたから母が死んだのだと認識してしまったら、ホスローはもう立っていられなくなる。
サヴァシュが立ち上がった。
そして、振り向いた。
いつものサヴァシュだった。無表情で不愛想で、感情の分からない顔をしている。何にも変わらない。普段どおりだ。
それにホスローは一瞬安心した。
この人は何にも変わらない。ユングヴィが物言わぬかたまりになっても、サヴァシュは永遠にサヴァシュのままなのだ。
「こいつ、最期の時、何か言ったか」
また、胸を後ろから貫かれるような痛みを感じた。
思い出すだけで苦しい。
「父ちゃんの名前、呼んでた」
サヴァシュの眉が、ほんのわずかに動く。
「サヴァシュ、私の子供たちを守って、って。それが、母ちゃんの最期の言葉だった」
「そうか」
サヴァシュが一歩、前に出た。
ホスローは気づきたくない事実に気づいてしまった。
真正面から向き合うと、自分の方がほんのわずかだけ背が高い。
知りたくなかった。
チュルカ人よりアルヤ人の方が平均身長が高い。父もチュルカ人のわりには相当大きいはずだが、ホスローは母に似てアルヤ人の血が濃い上、同年代の少年たちの間でもかなり大きい方だ。しかも家を出てからの二、三ヵ月でさらに成長している。
母どころか、父よりも、大きくなってしまった。
嫌だった。
父には誰よりも大きくいてほしかった。誰よりも強くいてほしかった。誰よりも勇ましくいてほしかった。
もうホスローの方が大きい。
ホスローの方が強く勇ましくならなければならない時が来た。
恐ろしいことだった。認めたくないことだった。考えたくないことだった。
でも――
「ホスロー」
父が両腕を伸ばした。
そして、ホスローを抱き締めた。
強い力で抱き締められた。
その力も、香りも、感触も、何もかもホスローが生まれてきた頃から知っていたものなのに――ホスローは気づいてしまった。
ホスローの後頭部を撫でる手が、震えている。
「お前も俺の子だ」
ユングヴィの最期の言葉が、脳内で何度も何度も繰り返される。
「ま、お前が無事でよかった」
そして、彼はホスローを離した。
顔を見せることはなかった。ただ暗い廊下に向かって歩き出した。
ホスローはその場に取り残された。父の背中を追い掛けようとは思わなかった。
ホスローは悟ってしまった。
黒将軍サヴァシュが最強だった時代は終わった。
この自分が彼の最愛の妻を殺したことで、彼が最強だった時代を終わらせてしまった。
サヴァシュはもう戦えないかもしれない。それでも嫁との約束を果たすために自分たち兄弟を守ろうとはしてくれるだろうが、若者たちの無謀にはついてこれないかもしれない。
絶望、だった。
自分はなんて馬鹿なのだろう。
サヴァシュはひとり、とぼとぼと、廊下の奥に消えた。
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