第13話 ありがとう、そして、さようなら 3

 一歩を踏み出す。


 戦場に立つ。


 そう思った時、


「ホスロー!!」


 聞き慣れた声で名前を呼ばれた。


 体が硬直した。


 怒られる、と思った。


 ああ、自分はこんなに服を汚して、洗うのが大変だ――そんなことを思った。


 腕が伸びてきた。

 右手がホスローの左手首を、左手がホスローの右手首をつかんだ。

 ホスローの手から剣が落ちた。


 強い力で引かれた。

 服の胸と胸がぶつかった。

 柔らかい。

 温かい。


 抱き締められた。


「ホスロー」


 後ろから後頭部を撫でられる。


 その手が震えている。


 ホスローは自分を抱き締めるその人物の肩に顎をのせ、その人物の髪の色を見ていた。


 自分と同じ赤い髪だ。


「母ちゃん」


 腕が、体が、震えている。


「母ちゃん……?」


 体と体が離れた。


 顔が見えた。


 案の定ユングヴィだった。


 彼女は怒っていた。きつい目でホスローを見ていた。


 彼女の右手が持ち上がる。

 ぱん、という音を立ててホスローの頬を打つ。


「あんた母ちゃんがどれだけ心配したと思って――」


 その言葉が最後まで音になることはなかった。


 彼女の胸を、誰かの剣が、突き抜けた。


 それから先は、すべてがゆっくりに見えた。


 誰かの剣が、彼女の胸から後ろに向かって引き抜かれる。


 もう一度、先ほどの少し左の辺りに突き刺さる。


 また別の剣が生えた。体に二本の剣の切っ先が出てきた。


 乳白色の襯衣シャツが、紅の色に染まり始めた。


 ユングヴィの口から、血が噴き出た。


 突然頭痛を感じた。何か金属の音が鳴り響いたように聞こえた。


 ――ホスロー!


 誰かが呼んでいる。誰かの声が頭の中に直接話し掛けてくる。


 ――俺を抜け!


 誰の声かはすぐに分かった。初めて聞く声だったがホスローは考えなくても察していた。

 初めてなのに、初めてではない。

 ずっと、傍にいた。

 生まれた時から、傍にいた。


 武器が欲しい。

 戦うための、武器が欲しい。


 ――俺で戦え!!


 ホスローは腕を伸ばした。


 ユングヴィの腰にあった赤い神剣の柄をつかんだ。


 引き抜いた。


 紅い燐光が辺りに散った。


 紅蓮の神剣を見た兵士たちが沸き立った。


 ただ叫んだ。


 無我夢中で囚人たちを、そして空軍の恰好をした男たちを切り裂いた。


 全身の血が沸騰する。


 ――戦え! 戦え! 戦え!


 咆哮した。


 紅蓮の神剣はどれほど斬っても斬れ味が変わらなかった。

 これが伝説の剣なのだ。

 自分は最強の武器を手に入れた。


 何もかも破壊してやる。




 やがてすべての囚人とサータム人兵士が肉片となり、残った蒼軍のアルヤ人兵士たちが床に座り込んで荒い呼吸を整え始めた。


 ホスローは呆然とその真ん中に突っ立っていた。


 ああ、戦った――ただそれだけだ。

 ホスローは何も感じなかった。人を斬ること、人の命を奪うこと、そういったことに何も覚えなかった。

 自分は戦うために生まれてきたのだ。


 でも今日はもう終わりだ。斬る相手がいなくなった。

 熱が冷めていく。体の中に入っていた空気が抜けていくかのようだ。

 もうおしまいだ。残っているのはあとは味方だけだ。


 終わり。


 一度、まぶたを下ろした。


 息を、吐いた。


 その瞬間だった。


「将軍!!」


 少女の甲高い声が響いた。


 ホスローは我に返った。人間としての心を取り戻した。


「将軍、ユングヴィ将軍」


 泣き声が、叫び声が、金切り声が、聞こえる。少女の悲痛な声が響いている。


「しっかりしてや! すぐお医者さん呼ぶから」


 振り返った。


 ホスローは血の気が引いていくのを感じた。


 大柄な赤毛の女がぼろきれのように投げ捨てられ、横たわっていた。

 背中も腰まで、胸も腹まで真っ赤に染まっていた。


 彼女を抱き起こそうとしながらスーリが半狂乱で泣き叫んでいた。


「嫌や、あかん、しっかり」


 ホスローは神剣から手を離した。神剣は一度床に落ちて、からん、という、手にしていた時の重量感などまったくなかったかのような軽い音を立てた。そしてふと気づけば、女の腰の鞘に収まっていた。


「いやや!」


 ホスローは一歩、二歩と二人に近づいた。あれだけ人を斬っても恐ろしくなどなかったのに、いまさら足が震えた。


「いやや」


 スーリの隣に、倒れ込むようにしゃがみ込んだ。


 彼女の――ユングヴィの黒い瞳が、見えた。


「ホスロー」


 手が伸びる。

 大きな、荒れた手だった。あまり女らしくない、ごつごつとした、しかし馴染みのある手だった。

 ずっと昔から自分を抱き締め、撫で、慈しんできてくれた手だ。

 今は真っ赤に染まっているが、そんなことは関係ない。


 ユングヴィの真っ赤な手が、ホスローの頬を包み込んだ。


「怪我してない?」


 ホスローは頷いた。

 ユングヴィがわずかに微笑んだ。


「よかった。あんたが地下牢に来たって聞いた時、お母ちゃん、気が気じゃなくって――」

「なんでだよ」


 ホスローの声が震える。


「怒れよ。いつもみたいに怒鳴れよ。思い切り殴って叱れよ」


 ユングヴィは「そうだねえ」と呟いた。


「怒ってあげる元気がなくてごめんねえ」


 ホスローの頬を撫でていた手が、床に落ちた。


「あんた、お父ちゃんの子なんだねえ」

「母ちゃん」

「お父ちゃん――サヴァシュ」


 彼女の目から、次から次へと涙がこぼれ落ちる。

 彼女の涙を見たのなどどれくらいぶりだろう。もしかしたら物心がついてからは初めてかもしれない。

 泣かせてしまった。

 自分は母を泣かせてしまったのだ。


「私の子供たちを守って」


 床についたホスローの手を、ユングヴィの手が力なくつかむ。


「お願い……サヴァシュに伝えて。私の子供たちを守って。サヴァシュ――」

「母ちゃん!」

「私の――私の子供たち――」

「母ちゃん!!」

「お願い」


 それが、最期の言葉だった。


「子供たちを……お願いだよ……」


 ホスローは叫んだ。意味などなかった。ただただ体中からほとばしる感情を吐き出してたくて声を上げた。

 涙は出なかった。目の前の現実を受け入れられなかったからだ。泣いたらすべてを認めることになってしまう気がした。

 代わりにスーリが泣いた。彼女はユングヴィにすがりつき、大きな声でわんわんと泣いていた。ホスローはそれをうっとうしいとしか思えなかった。この女さえいなければ、と思った。


 もう、いくら呼んでも、答えない。


 自分は、この戦争に、負けたのだ。







 赤将軍ユングヴィ、享年三十四歳。



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