第11話 ありがとう、そして、さようなら 1

 二人が辿り着いた先は暗くて、真昼間だというのに壁に取り付けられた照明に炎が燈っていなければ前が見えないくらいであった。

 しかもどことなく湿っぽい。どこかの水路が近いのだろうか。足元から、ざり、という濡れた砂を踏む嫌な音がする。掃除もされていないのだ。


「何やろ。気味悪いわ」


 スーリがホスローにだけ聞こえるようなか細い声で言ったが、そもそもこの通路にはホスローとスーリしかいない。地上階ではあちこちを行き交う武官たちや文官たちの姿はなかった。


 ややして、松明の明かりが見えてきた。右側の壁際に三つ、左側の壁際に三つだ。

 松明を持った兵士たちが三人ずつ合計六人立っている。薄青のたすきをかけているところから察するに空軍兵士だろう。


 兵士たちの奥には頑丈そうな鉄の扉があった。何の装飾もなく簡素な、重そうな鉄の扉だ。下部が錆びついて赤くなっている。ちゃんと手入れされている感じがしない。ただ、暗にその奥に隠されているものが面白くないものであると同時に重要なものであることを示しているような気がした。


 兵士たちはすぐホスローとスーリに気づいた。六対の視線が二人に降り注いだ。

 普段は強気で勝気なスーリが隠れるようにホスローの一歩後ろに下がった。こういう時に限って、と思ったが、ホスローは一人前の男だ。まして常にもっと凶暴な先輩兵士たちに揉まれている。行儀の良さそうな空軍兵士たちを恐れることなどない。


「何者だ」


 ある兵士が低い声で問うてきたが、ホスローが答える前に別の兵士が少し優しい声で答えた。


「ユングヴィ将軍のご子息と、同じくユングヴィ将軍の召し使いの女の子だ」


 こんなところにまで自分の生まれが知られているのはあまり面白いことではないが、今日ばかりは吉と出るかもしれない。


「どうかしたのかい」


 ホスローは言い淀んだ。何となく扉の先に何があるか知りたくて来た、と言える雰囲気ではなかった。六人の兵士たちが守っている――何を、だろう。頑丈そうな鉄の扉は財宝を守っている感じではない。


「あの……」


 ホスローの後ろに隠れていたスーリが、小鳥がさえずるような声で言った。


「ユングヴィ将軍のおつかいです」


 よくもこんなところでそんな嘘が言える。女というのは恐ろしいものだ。


「少し様子を見てきてほしい、と言われて。女子供やったら油断するやろうし、そんな怖いもんでもないから、と言われて……」


 スーリも扉の向こうに何があるのか気づいている。


 地下牢だ。


 この扉の向こう側には、誰か、出してはいけない人がいる。


 兵士たちは顔を見合わせた。


「ほんまに将軍が言うたんか」

「ほんまや。なんなら確認してもろてもええで。そんな時間があったらやけど」


 兵士たちが何かを小声で囁き合う。相談しているらしい。

 ホスローはひやひやした。本当にユングヴィに確認されたらスーリの大嘘がばれてしまう。また怒られるだろう。最悪もっと厳しい形で行動を制限される危険性もある。


 だが兵士たちは結局こんな結論を出した。


「せやな。何ができるというわけでもないし。そのための俺らやし」

「子供だから油断するというのはあるかもしれないな。情に訴えるのもあるし、何か今まで話さなかったことを話すかもしれない」

「それに」


 兵士たちの目が、ホスローの赤い髪を見る。


「ユングヴィ将軍のご子息だからな」


 ホスローはただ唾を飲んだだけで何も言わなかった。


 一番扉に近いところにいた兵士が、扉の把手につけられた重々しい錠前に、腰に提げていた鍵を挿入した。


 ぎぃ、という嫌な音を立てて、扉が開いた。


 途端、強烈な汚臭が漂ってきた。糞尿の臭いだ。


 ホスローは目を丸く見開いた。


 想像していたのとは違った。

 目の前にあるのは確かに地下牢だが、一人二人を収容する規模ではない。

 牢獄だ。

 ありとあらゆる犯罪者をぶち込めるような、広大な敷地に多数の人数が詰め込まれている。


 ものすごい人数の視線が集まった。

 左右の鉄格子の向こう側には、ざっと百人ずつくらいがいるだろうか。広い空間だと思ったが、人数のわりには狭いかもしれない。全員が座れるほどの空間ではない。


 全員が、黙ってホスローとスーリを見ている。


 犯罪者、というのは少し印象が違う。

 殺人犯でも、強盗犯でも、酔っ払いや喧嘩が原因でもなさそうだった。


 スーリが、いない、と言っていたのが脳裏をよぎっていった。


 タウリス城には、サータム人がいたはずだ。


 まさか、タウリス城にいたサータム人の役人全員が、ここに押し込まれているのだろうか。


 扉を大きく開け放った向こう側で、ある兵士が言った。


「一番奥がお代官様だ」


 背中が震えた。


 すごい待遇だ。


 何年もの間西部州を守護し統治してきた人間を、家畜以下の部屋に収容している。


「ついてったるわ。何しやるか分からへんからな」


 そう言って、兵士が三人ついてきてくれた。


 もう後戻りはできない。自分たちはユングヴィの名代としてここまで来てしまった。西部州を取り仕切っていた地方総督の顔を見なければならないのだ。


 何を話せばいいのだろう。ここでの暮らしが快適か、だろうか。そんなはずはない。


 兵士の一人が耳打ちする。


「うまく言いくるめるんだぞ。改宗してこちら側の味方につくように、と。それさえ乗り越えられれば、この戦争はずっと有利になるんだから」


 これが、戦争がすでに始まっている、という言葉の真相だったのだ。


 それでも行くしかない。


 ホスローは床を踏み締めて歩いた。そのホスローの服の袖を、まだ籠を抱えたままのスーリが手首から先だけ動かして握り締めた。


 みんなが、二人を見ている。


 一番奥に辿り着いた。


 奥の牢は行き止まりになっていた。そこだけ個室らしい。入っているのは一人だけのようだった。


 伸び放題のひげ、落ちくぼんだ眼窩がんか、こけた頬、力なく壁にもたれかかっている様子からは、何日も、何週間もここに監禁されていることをホスローに想像させた。その姿に地方総督として君臨してきた男の威厳はなかった。もうすぐ干からびるその寸前の老人だ。


「起きろ。客だぞ」


 兵士の一人がそう言うと、西部州の代官であった男は眼球だけをぎょろりと動かしてこちらを向いた。濁った色の目玉が松明の炎に照らされてぬめぬめと輝いた。


「何の用だね」


 しわがれた声にはそれでもまだアルヤ語を話す知性がある。


「こんなところにこんな子供が来るべきではない」

「ただの子供じゃない。ユングヴィ将軍のご子息と同じく将軍の召し使いだそうだ」


 その次の瞬間だった。


 ホスローは背筋にものすごい悪寒を感じた。

 本能だった。

 危険だ。

 ホスローの、両親から受け継いだ危険を察知する能力が、ここは危ないと叫んでいる。


 まずい。


「スーリ!」


 次の瞬間だった。


 ついてきた三人の兵士のうち一人が、手に持っていた松明をもう一人の兵士の軍服に押し付けた。

 兵士が絶叫しながら燃え上がった。辺りが一気に明るくなった。


 何が起こったのか分からなかった。


「貴様何をする!?」


 残った最後の兵士の腹部に蹴りを入れる。倒れたところをさらに踏みつける。兵士が低い声で呻いた。


 仲間だったはずだ。


 仲間ではなかったのかもしれない。


 どうして忘れていたのだろう。


 タウリスは、アルヤ人とサータム人とチュルカ人が、ほぼ同じだけの数いる。そしてアルヤ人とサータム人は見た目では区別がつかない。


 残った兵士は床に転がった兵士の帯を引き千切った。そしてそこにぶら下がっていた鍵の束を手に取った。


 サータム語で何かを叫んだ。


『お助けします、閣下!』


 ホスローはこれほどサータム語の勉強を怠ってきたことを後悔したことはない。


 囚人たちから歓声が上がった。


 鉄の扉が閉まる音がした。誰かが外から閉めたのだ。


『将軍の子供です、いい人質になります』


 代官が立ち上がり、先ほどとはまったく違う、生気のみなぎった笑顔で鉄格子をつかむ。


『おお、神よ、そなたをよみしたまえ……!』


 走ってくる兵士たちがいる。きっと彼らも隠れサータム人なのだろう。空軍兵士に紛れ込んで機会を窺っていたのだ。

 道理で大した理由もないのにホスローとスーリを通したわけである。彼らは二人がどんな用事だったのか関係なく、二人がこの地下牢の狭い通路の真ん中で立ち往生するのを待っていた。




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