第9話 華奢で柔らかそうな手

 スーリはよく働く。


 基本的にはユングヴィの身の回りの世話をしているらしく、ユングヴィにくっついて回っていることが多い。

 ユングヴィの周りをぱたぱたと動き回っている様子はあっと言う間に赤軍名物と化し、最初はひやかしていた連中もいつの日か受け入れて黙った。


 赤将軍は軍神であり武人ではない。しかしスーリの立ち位置は言うなれば小姓だ。

 ユングヴィはスーリを可愛がり、本来は自分ひとりでできるはずの――というより自宅にいた時は自分の仕事として下の子供たちにやっていた――着替えや食事の支度をさせている。


 スーリはおとなしく付き従っていつでも手を洗えるように水差しを持って歩く。

 ユングヴィは最初気後れしていたようだったが、それがスーリに仕事を与えることになる。何かあるたびに水差しから水を出させて手を洗っていた。


 他にも、たとえばユングヴィが赤軍の幹部たちと秘密の会議をしている時などは、タウリスの女官たちに紛れて洗濯などもしている。


 ホスローだったらすぐ手を抜いてだらだらするところだというのに、彼女は四六時中駆け回っていた。休むということを知らないらしい。


 スーリをぼんやり眺めながら、彼女の十四年間の人生を思う。

 十二の時に地元を出たと言っていた。弟妹がたくさんいるところはホスローも似たようなものだが、ホスローは両親とも将軍で経済的には裕福だ。彼女の家は娘を口減らしのために追い出さなければならないほど貧しかったのか。

 そういうところでスーリは働き続けていたのだろうか。




 一方ホスローのほうも何もしていなかったわけではない。


 念願の銃を撃つ訓練が始まった。


 まず銃弾を作る。包み紙に鉛玉を入れる。火薬の分量をはかる。一分の隙も許されない精密作業だ。ここで失敗すると撃つだけで射手が死ぬ。


 銃の手入れの仕方を教わる。鉄の棒で筒の中を整備する。すすのひとつも残してはならない。銃弾がまっすぐ飛ぶかどうかはここにかかっている。


 弾を入れる。


 真夏の炎天下、太陽のように蒼い空の下で、砂漠色の城壁の上に鉄の筒をのせる。


 先輩兵士の号令の下、少年兵たちが一斉に引き金を引いた。


 辺りに轟音が響いた。


 城の屋上から見える遠くの城壁の上、練習用にと設置された的が次々と割れた。


 気持ちがいい。


「今年の新米たちはなかなかの粒揃いだな」


 先輩兵士からそういう評価を受けてさらに興奮する。


 認められている。


 赤将軍の息子としてでもなく、黒将軍の息子としてでもなく、赤軍の新兵として、自分は認められている。


 嬉しい。


「よし、休憩! それぞれ銃を手入れしてから水を飲むように」


 全員が素直に返事をした。

 ホスローも命令に従って大事な銃を掃除した。布を突っ込んで筒の中を拭き、その布を引っ張り出して今度は銃身を拭った。


 さて、そろそろ日陰に引っ込むか――そう思って振り向こうとした、その時だった。


 背中に何かが注ぎ込まれた。細かな粒子が、さっ、と音を立てて、首から背骨を伝って服の中を流れていった。

 気持ちが悪い。


 首の後ろを押さえながら振り向いた。


 いたずらそうな顔をした同期兵たち数名が笑っていた。


「将軍様のご子息もこんな炎天下で働いていては暑くてお疲れでしょうから、多少冷やしてさしあげようかと思って」

「何入れたんだよ気持ち悪ィ」

「火薬」


 ホスローはかっと熱くなるのを感じた。

 火薬は貴重なものだ。高級品であり、簡単に使っていいものではない。ましてやいたずらのために浪費していいものではないのだ。


「テメエらいい加減にしろよッ!」


 左手で、中心にいた、袋を手にしたままの少年の胸倉をつかんだ。そして、右手で銃を振り上げた。

 いたずらをしてきた少年もまさか大事な銃で攻撃してくるとは思わなかったのだろう、目を真ん丸にした。


 一人前の赤軍兵士としてやってきた自分をユングヴィの息子として扱うこいつに腹が立つ。


 銃床を振り下ろした。

 少年のこめかみが割れた。がつん、という大きな音を立てて血が噴き出した。


 周りで笑っていた少年たちがちりぢりになった。仲間を見捨てて逃げたわけだ。薄情な連中だ。


 血が流れている。少年が「痛い、痛い」とうめいている。

 だがホスローは充分に手加減した。この程度本物の兵士なら大したことはないはずだ。そもそも、頭は大袈裟に血が出るようにできているものなのである。


 さてもう一発、というところで後ろから後頭部を殴られた。


「いってぇ!」


 振り向くと、先ほど号令をかけていた先輩兵士が腕組みをして立っていた。


「お前はなんでいつもそうやって腕力に訴えんだよ」


 頬が熱くなった。彼の指摘どおりだ、ちょっと馬鹿にされるとすぐ周りが見えなくなる。


 だがそれ以上に、この少年がしたことは許されることではない。大事な赤軍の物資を――


 と思ってよく見てみると、少年が放り投げた袋からは灰色の何ということもない砂が漏れ出ていた。

 火薬というのは嘘だったのだ。消火用のただの砂を注ぎ入れたのである。


「ちょっといたずらするだけのつもりだったんだよ! まさかこんなふうに殴ってくるとは思ってなかったんだよ!」


 上半身を起こして泣きべそをかく少年兵も、先輩兵士は蹴り倒す。


「ガチな戦闘で同じことをしてホスローに殺されても戦場じゃあ犯人探しなんかしないからな」


 そう言われると少年兵は黙り、自分の服の袖でこめかみの血を拭いながら「すいません」と言って城内の方へ駆けていった。


「ったく、お前も災難だな。お袋さんがお袋さんなだけでこんな嫌がらせされてよ」

「マジで、冗談じゃないっすよ。みんなぶっ殺してやりたい」

「でもお前が強い奴でよかった。もっと貧弱な子だったら守ってあげなきゃいけなくて大変だっただろうな。想像よりは手ぇかかってないぜ」

「どーも」


 むしろすごいのはやり返されると分かっていながら懲りない同期兵たちだ。赤軍兵士たちはみんな良くも悪くもやりたいようにやっている。


「はい、今度こそ撤収、撤収」


 先輩兵士が手を叩くと、野次馬をしていた少年兵たちが日陰にもたれかかって革の水筒から水を飲み始めた。


 それにしても、背中が気持ち悪い。


 ホスローは砂を洗い落としに行くために水場に向かうことにした。井戸から引き上げた水が泉のように噴き出ている水道があるのだ。


 水場に辿り着き、服を脱ぐ。上半身裸になる。それだけでざらざらとした砂が地面に落ちていく。


「畜生」


 ユングヴィが赤将軍だったばっかりに、自分だけがこんなに嫌な思いをしなければならない。


 もっと偉くなりたい。誰にも文句を言わせないくらい、誰にもちょっかいを出されないくらい、出世して、出世して、出世して、副長級まで上り詰めたい。


「何してんの?」


 後ろから声を掛けられた。


 振り向くと、小さな籠を抱えたスーリが後ろに立っていた。


 スーリの腕の中にある籠には、赤い血にまみれた白い布が入っている。


「見りゃ分かんだろ。背中洗うんだよ」

「せやった。あんたが殴ったんやったね」


 そして、からからと笑った。


 華奢な体躯、大きな目の可憐な見た目に反して、彼女は明るく元気な娘だ。ユングヴィの前では縮こまっているが、同世代の少年兵たちとはよく喋る。第一印象とちょっと違うのでホスローは最初びっくりしたが、逆に助かる。話しかけやすい。お姫様みたいな女の子のお守りはまっぴらごめんだ。


「アリーのおでこの傷、うちが手当てしたで。感謝しぃや」


 籠の中の白い布を汚している血は先ほどいたずらしてきた少年兵のものだったのだ。


 自分が悪いわけではない。あくまで相手がちょっかいを出したからやり返してやっただけだ。

 それでも、スーリにこんなあっけらかんとした笑顔で言われると、恥ずかしくなってしまう。


「あかんでホスロー。あんたすぐ手ぇ出るんやて?」

「誰だよ、そんなこと言ったやつ」

「赤軍のみんなや。お母様も。喧嘩しそうになったら止めてて言うてはったよ」


 ホスローは舌打ちをした。


 しかしスーリはそれ以上ホスローを責めなかった。明るい声で笑って、噴水を囲う煉瓦の傍に籠を置いた。

 水の中にたゆたっていた桶を手に取る。


「ほら、後ろ向きぃや」

「え?」

「背中。砂洗うんやろ。うちが水かけたるわ」


 言われてから、自分が上半身裸であることを思い出した。下半身ははいているので何も恥ずかしくはないはずだが、スーリに見られていると思うとどこかむず痒く、黙らざるを得なかった。


 スーリは宣言どおりホスローの肩からゆっくり水をかけてくれた。


 冷たい、清らかな水が、流れていく。


 気持ちがいい。


 何度かそうして背中を流したあと、スーリは布でホスローの背中を拭ってくれた。そこまでしてもらえるとは思わず、ホスローは耳まで赤くなるのを感じた。


 布越しに、背中に、スーリの華奢で柔らかそうな手を感じる。


「……あの、俺、もう――」

「ええんやで、遠慮せんで。うちは分かっとるんや、あんたは何も悪ぅない。いや殴ったらあかんか、喧嘩は先に手ぇ出した方が負けや、あんたの負けやな」

「ホスロー、スーリちゃん!」


 名前を呼ばれて顔を上げると、壁にある窓が開いていて、そこからユングヴィが顔を出していた。


「あんたたち何してんの!?」


 ホスローは慌てて「何もしてねぇよ!」と答えた。なんだか不埒なことをとがめられた気がしたのだ。


「子供だけでひとけのないところに行かないで!」

「は?」

「戦争はもう始まってるんだからね!」


 ホスローはスーリと顔を見合わせた。スーリもきょとんとしていた。


 銃弾が飛び交っているわけでもない。馬も大砲も出ていっていない。


 それでもなお戦争が始まっているとは、どういうことだろう。


「母ちゃ――将軍」

「いいから中入んな!」


 ユングヴィは何も説明せず窓を閉めた。スーリは慌てて籠を拾い、ホスローも納得はいかなかったがとりあえず服を着た。





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