第6話 タウリスまで、あと一日 2
「あんたって子は、本当に」
ユングヴィはそこで溜息をつくように息を吐いてみせたが、声はわずかに弾んでいて、ホスローの耳には楽しそうに聞こえた。
「いつ音を上げるかと思ってずっと待ってたのに、ここまでちゃんとやってきたんだね。根性あるじゃん」
ホスローはむかっ腹が立つのを感じた。母はやはりどこかから自分を見ていたのだ。しかも侮られていた。自分を兵士としてちゃんとやれないかもしれないと思っていたのだ。
「馬鹿にすんなよ。前々から言ってんだろ、俺は赤軍兵士になるんだって」
「むかつくけど、認めてやらなきゃいけないね」
かさついた手で、後頭部を撫でられる。
「ずっとこうならないように見張ってるつもりだったのに。あんたの覚悟をちゃんと見てなかった私の負けだわ」
そう言われると胸を張りたい気持ちになる。寝台の上なので物理的に胸を張ることはできないが、心の中ではうんと背中を逸らした。
「まだまだ序の口だけどね。これから先、本気で兵士としてやろうと思ったら、本物の地獄が待ってる」
「分かってる」
「いいや分かってない。あんたは平和な時代に生まれて育ったんだからさ」
母はどこか遠くを見ていた。
「あんたのお父ちゃんとお兄ちゃんが作ってきた平和な時代に。あんたはお父ちゃんとお兄ちゃんが十四年間守ってきたアルヤ王国で生まれて育ったんだよ。それを絶対に忘れないでね」
そして、呟くように「どんなことになっても」と語る。
「私がどうなっても。お父ちゃんとお兄ちゃんがあんたのことを守ってくれるから。だから、どんなにつらい目に遭っても、歯ァ食いしばって待つんだよ」
その言葉に、ホスローは不穏なものを感じた。
「なに不吉なこと言ってんだよ」
弟妹たちには必ず帰ると約束したのだ。
「俺がついててやるから心配すんなって言ったじゃん」
それは表向きの建前だったが、ユングヴィは「ほんとにね」と頷いた。
「あんたがついてるんだと思ったら、私も本気出さなきゃいけない。それが結果的にいい方向につながる、といいなあ」
喉元まで不安がせり上がってくる。
本物の地獄とは、何だろう。
彼女は自分が生まれる直前までその地獄を見ていたのだ。
その地獄に帰ることを、彼女はホスローの想像の何千倍も何万倍も意識しているのかもしれない。
いや、と思い直した。
自分はここまでのつらい行軍に耐えてきたのだ。
しかも腕っぷしは赤軍の同世代の中では一番強いはずだ。何があっても大丈夫だ。
「って言っても、私はもう最前線には行かないと思うけど」
それを聞くと拍子抜けした。
「戦闘そのものは副長以下幹部たちがやってくれるよ。さすがにあんたを産んでもう十四年主婦やってた私に戦場のど真ん中に行けとは誰も言わないよ」
「そりゃそうだよな、母ちゃんがどんぱちやってんの俺見たことないし。できんの?」
「さあ。できない気がするし、できてもやらない気がする。あんたのお守りをしなきゃいけないもんね」
「俺のことはいいんだ。俺もう十四だぜ」
「そう、十四歳。私が神剣を抜いたのと同じ年だわ」
充分大人ということだ。
「忘れてたよ。あんたはもう私が将軍になったのと同じ年になったんだ」
そして「でも」とホスローの頭を軽く叩く。
「今回の私の一番の仕事は戦闘じゃないんだよ」
「兵士たちの世話?」
「そう、それもあるんだけど、一番じゃない。お兄ちゃんに頼まれた一番の仕事は、それじゃないんだ」
ユングヴィが、今度こそ楽しくなさそうに息を吐いた。
「エルにね。会ってほしいって言われてて」
「エル?」
「エルナーズ。空将軍エルナーズだよ」
ホスローは「あ」と呟いた。
空将軍エルナーズ――九年前の動乱を機にタウリス城から消え、中央どころか西部の政治や軍事からも一切手を引いて失踪した人間の名だ。
彼は九年前第二王子の味方をした。だが彼にはラームテインほどの強い忠誠心はなかったらしい。ソウェイルの側につくことを強要され、サヴァシュやユングヴィの脅迫に屈して、二人に従って第二王子やラームテインを裏切った、と聞いている。
本人と直接対話したことのある人間がいないので不確かだが、おそらく、彼はサヴァシュやユングヴィに恐喝されて無様な恰好を晒させられたことを根に持っているのだろう、とラームテインは言う。
彼は非常に自尊心の強い人で、誰かに頭を押さえつけられることを極端に嫌っていたらしい。誰かに従う、ということが彼にはこの上ない屈辱だったのだ。
しかも、暴力をもって脅されて、ラームテインの目の前で裏切ることを宣言させられた。
きっと今も怒っている。
そして、怒っている自分の姿を見せることすら嫌がって、どこかへ消えてしまった。
「どこにいるかは突き止めたらしいの。お兄ちゃんが。どんな方法でか、は分かるでしょ、この前ラームを捜し出した時と同じだよ」
「そっか、居場所は分かるんだ」
「でも、会ってくれるかどうか。本当に頑固な子なんだ、あの子は。はー。めんどくさ、めんどくさ」
「けど、父ちゃんと母ちゃんと喧嘩して引っ込んじゃったってことだろ?」
「そうなのよ。だから、お兄ちゃんに、謝って、って。ユングヴィも俺もぜんぜん怒ってないしむしろ申し訳なく思ってるくらいだから、空将軍として戻ってきて、って言えって言われたワケ」
「なるほどなあ」
エルナーズの姿を思い出す。
最後に会った時、ホスローはまだ五歳だった。
エルナーズはタウリス出身タウリス在住であり、もともと季節の行事にしか王都に出てこない人だった。したがってホスローがエルナーズに会えるのは基本的に
しかし強烈な印象を残した人だった。
男とも女とも知れない、いい匂いのする、なんだか見てはいけないものを見てしまったような気分にさせられる――言うなれば、すけべな感じの人だった。
あの妖怪みたいな人に、空将軍として仕事をして、と言うのか、と思うと、ホスローはユングヴィの苦労を思って溜息をついた。戦争が大好きな上に亡き第二王子の面影のあるソウェイルに鞍替えしつつあるラームテインとはわけが違う。エルナーズは、得体の知れない怪物なのである。
「でもね」
ユングヴィが言う。
「エルに、ホスローに会ってほしい、という気持ちもあって」
意外な言葉に、ホスローは母の顔を見上げた。
「今回は予定とは違ってあんたがついてきちゃったけど、いつかの機会にまたホスローに会わせたいな、とは思ってたんだ。だから今回会わせることができそうで、それはちょっと、よかったかな、と思わなくもないんだよ」
「なんで俺が、エルナーズさんに?」
「あんたがお腹にいた時すごくお世話になったからさ」
小さく笑った。
「タウリスの闇市を駆けずり回って妊婦の私のために物資を集めてくれてさ、妊娠してることを秘密にしてくれてさ。お父ちゃんやベルカナさんにもすっごくすっごくお世話になったけど、それは妊娠も半分くらいになってからなんだよ。今思えば、初期の頃はエルしか頼れる人がいなかったんだよね」
前言撤回、怪物などと言って申し訳なかった。
「タウリスの地理とか一番勝手が分かってるのはエルだったからさ、エルがあれこれ手配して私のことを守ってくれたんだよ。私の、っていうか、私のお腹にいるあんたのことを」
「そうだったんだ……」
「だから毎年、
「へえ」
人は見かけによらない。そう言われると、ホスローも改めて挨拶しなければならないような気がしてくる。
「まあ、でも、それはお母ちゃんの勝手な話だよ」
また、優しくホスローの頭を撫でる。
「タウリスは良くも悪くも思い出の地だよ。あんたがお腹にいることが分かったところ」
その話は何度も何度も聞かされた。自分は戦場の中でもたくましく母の胎内で育った強い子だ。両親の都合など無視して大きくなって、皆の心配もよそに五体満足の頑丈な子に生まれて、自分は育ったのである。
「そのタウリスにあんたを連れていくなんて、奇妙な巡り合わせだね。これも何かのお導きなのかもしれないね」
そこまで言うと、ユングヴィは「さあもう寝なさい」と言った。
「えっ、ここで?」
「そう」
「このまま母ちゃんと?」
「そうだよ」
慌てて上半身を起こした。
「やだよ! なんでこの年になってまで母ちゃんに添い寝してもらわなきゃならねぇんだよ! 俺は仲間たちと一緒に外で寝る!」
「だめ。母ちゃんがそうと決めたんだから言うこと聞きなさい」
「だってさ、俺もう十四だからって――」
「言うこと聞きなさい」
腕をつかまれ、引っ張られた。強い力で引きずられて、布団の中に戻った。
「いいの、今日が最後なんだから。明日からはもうタウリスについて親子らしいことはできなくなるんだから」
「ったってさ」
「あんたもたまには素直に甘えなさい」
「甘えたいと思ったことねぇよ」
「またまた、生意気な」
そして、笑うのだ。
「ごめんねえ。私が、あんたに、あんたはお兄ちゃんでしょ、って言って育てたからだね」
意外なことを言われた。
「私自身子供の頃あんたはお姉ちゃんでしょって言われて嫌な思いしたのにねえ。あんたが一番上だからって、あんたに甘えてたところいっぱいあるから」
胸の奥が、熱くなる。
「今のうちだよ。家に帰ったらまた弟や妹と争奪戦になるんだから。お母ちゃんを独り占めできるの、今だけなんだからね」
そう言われると、ホスローは逆らえなくて、ユングヴィの隣に身を横たえた。
砂漠の夜は寒い。けれど二人で布団にくるまっていると温かい。しかもここ数日ホスローは野宿ばかりでこんなに柔らかい寝台に寝たことがない。いつの間にか、すとん、と眠りに落ちていた。
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