第5話 タウリスまで、あと一日 1
それから先は大変だった。
ユングヴィはホスローの特別扱いを一切認めなかった。
ホスローは一般の少年兵たちと一緒にされ、上官たちからひどく乱暴な扱いを受けた。
重い銃と一緒に、自分の食料も背負わされ、運ばされる。
真夏の暑い中水を飲むことすら制限された状態で歩く。
からからに乾いたアルヤ高原の空気は兵士たちに汗をかくことも許さない。
ある時突然隣を歩いていた少年がばたりと倒れるという事件もあった。彼は先輩たちに引きずられてむりやり後方に下げられた。彼がその後どうなったのかはホスローは知らない。
遅れると容赦なく蹴られる。棒で叩かれる者もある。赤軍の上官たちは容赦ない。
その上で、わずかな休憩時間にはとにかく銃の手入れをする。火薬で手が真っ黒になる。その手で頬をこすると顔中が汚れた。
ずっと欲しかった銃だった。持ってみたかった。だが実際に触れてみると重い。
撃つ機会には恵まれなかった。行軍の最中だ、本格的な訓練はさせてもらえない。
ただひたすら銃弾を作る。いつ撃ってもいいように――それは同時にいつ撃たれてもいいように、を意味していた。
敵はいつどこから現れるか分からない。帝国の手の者が潜んでいるかもしれない。しかも赤軍は国内でもまだ嫌われていた。
でも、撃つ練習はさせてもらえない。
非常事態が起こったら、ぶっつけ本番だ。緊張する。
「ただでさえ俺たちは都のごろつきだと思われてんだよ」
ある上官が言った。
「将軍の作った規律を守れ。できないやつは今すぐ出ていけ」
赤軍の女王――今になって彼女がそう呼ばれていることを知った。
彼女は絶対だ。彼女の一声で首が飛ぶ。本物の王である義兄の方がずっと穏やかで寛大だ。
怖い。
だがこれに慣れることが兵士になるということだ。
自分は赤軍兵士になるのだ。
強くたくましい兵士になるのだ。
こんなことで負けてたまるか――その意志ひとつがホスローを支えた。
それに、タウリスが近づいてきている。
タウリス城に入城すれば待遇が変わることを、ホスローは予期していた。
タウリス城は戦争に備えて作られた城塞だ。今回の戦争の拠点となる城であり、この行軍の目的地である。辿り着けば兵士たちは戦争に備えて多少の休憩と本格的な訓練を施されるだろう。ひたすら重さと暑さに苦しむ行軍からは解放されるはずだ。
少し頑張ればなんとかなる。
あと少し頑張れば、なんとかなるはずなのだ。
王都を出てから一週間、ホスローは同世代の少年兵たちと道端で雑魚寝をしながら、己のしたたかさを確かめた。
頑張れる。
ここに至るまで、母の助けは一切なかった。
その状況に、ホスローは慣れることができた。
自分にはもう、母親は必要ない。
周りの少年兵と一緒だ――それがホスローにとって確かな自信になった。
自分は、できる。
みんなと一緒に、戦える。
一人前の兵士になる。
戦争に、出られる。
だからあと一日でタウリスに辿り着くという夜にユングヴィから呼び出された時、ホスローは逆に不安を掻き立てられた。
今のホスローにとって彼女はもうすでに母親ではなかった。赤軍の兵士たちを暴力でもって統率する恐ろしい女王であり、一般の兵士には軽々しく話し掛けることもできない女神だ。
ホスローはこの時すでに完全に赤軍兵士だったのだ。
いったい何の用事だろう。
命の次に大事な銃を背負って、これから路傍に
自分は何か失態を犯しただろうか。
どんな罪で裁かれるのだろう。
いったい何をされるのだろう。
宿屋に入ると、玄関先に幹部たちが勢揃いしていた。
そしてその中央に、一人腕組みをして立つユングヴィの姿があった。
長い一本の赤い三つ編みを垂らし、男物の服を着て、鋭い眼光でホスローを見つめている。
彼女はホスローの母親のユングヴィではなく赤軍の女王のユングヴィなのだ。
自分から話し掛けることなど許されない。ホスローは他の少年兵たちがするように首を垂れた。
次の時だ。
「来な」
背筋が震えた。
「顔を上げて、こっちに来い」
いったいどういうことだろう。
とりあえず、顔を上げた。
彼女は相変わらず冷たい目でホスローを見つめていた。
「私の部屋に来るんだよ」
背中がぞわりと寒くなる。
ユングヴィは踵を返した。一人で宿屋の正面にある大階段を上り始める。
「おら、行け」
幹部のうち一人に蹴られた。
みんなが見ている。
逃げられない。
「将軍が来いっつってんだよ。ついていけよ」
ホスローは唾を飲んだ。
ここは言うとおりにするしかない。
仲間たちが恋しかった。みんなと一緒に適当に扱われたかった。
ユングヴィと二人きりになるのだろうか。
しかし一介の少年兵であるホスローに選択肢などなかった。震える足取りでユングヴィの後ろをついていくことしか許されないのだ。
ユングヴィはそのまま自分の部屋に向かっていった。この宿屋で一番いい部屋だ。女王としてもっとも値の張る部屋を取っているのである。下っ端どもは道端に寝ているというのに――と思ったが今のホスローはそれを当たり前だと思っていて文句のひとつもない。
彼女は女王であり、女神だ。
部屋の扉を開ける。
大きな寝台が見えた。
「入りな」
ホスローは覚悟を決めて部屋の中に入った。
ホスローの後ろで、ユングヴィが扉を閉ざした。そして内側から鍵をかけた。
何が起こるのだろう。
次の時、予想外の言葉を言われた。
「寝な」
思わず「は?」と言ってしまった。
「いいから。横になるんだよ」
ユングヴィの顔を見上げた。
彼女の目が、優しい。今までの言うことを聞かない下っ端兵士を見つめる目とは違う目だ。
言うなれば――ここに出てくる前の、母の目だった。
ホスローがよく知っているユングヴィの目だったのだ。
ホスローはふたつの感情が同時に湧き上がってくるのを感じた。
まず湧き上がってきたのは、なぜ今、という疑念と不快感だった。
今までさんざん乱暴に扱われてきたというのに、あともう少しでタウリスというところで、なぜこういう特別扱いをするのだろう。ホスローはすっかり赤軍兵士の一人のつもりでいたのだ。
一人前のつもりでいたのだ。
もう甘やかされる必要などない。自分はもう、強くたくましい兵士だ。
しかし――それでも、ホスローはどこかで信じていたのかもしれない。
この人は、自分の母親なのだ。
どれほど厳しくても、どこかで自分を見ている気はしていたのだ。
それにしても、横になれ、とはどういうことだろう。
「どこに?」
「寝床に」
母に言われたことだと思えば反発できたかもしれないが、将軍に言われたことだと思うと逆らえない。
ホスローは部屋の真ん中まで行くと、寝台のすぐ傍で脚絆を外し、靴を脱ぎ、寝台に乗り上げた。
ユングヴィはその反対側に移動した。
ホスローがしたように靴を脱ぎ、寝台の上に乗り上げた。
どうする気だろう。
呆然としていると、抱き寄せられた。
そして、横に押さえつけられ、寝台の上に寝かされた。
掛け布団を引っ張る。
ホスローの肩に掛ける。
「よしよし」
そしてそのすぐ傍に横になる。
添い寝だ。
母の体温を感じる。
こんなのは何年ぶりだろう。
「よしよし、よしよし」
荒れた手で、頭を撫でられる。
今までの扱いは何だったのだろう。
だがホスローは逆らえなかった。
その手が、優しかったからだ。
その声が、優しかったからだ。
その目が、優しかったからだ。
慣れ親しんだ母の――と思うと、ホスローは泣きそうになるのを堪えた。
自分は強い兵士になれたはずだった。こんなことに屈するつもりはない。まして自分は十四歳、もうすぐ十五歳になる。十五と言えば成人だ。自分はもうほとんど大人と一緒で、母親に添い寝してもらって喜ぶ年頃ではない。見る人間によっては気持ち悪いとすら思うかもしれない。
「何だよ、これ。やめろよ」
赤軍の女王に対してなら、そんな口など利けなかっただろう。
だが今のホスローは、ここにいるのは自分の母親だと認識している。
この人の腹から出てきて、十四年間見守られて生きてきた。
自分の中がぐちゃぐちゃになる。
「何だよ、これ……」
ユングヴィはしばらく、無言でホスローの頭を撫で続けた。
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