第4話 俺が母ちゃんを守ってやるのにな

 もちろんすぐバレた。


 タウリス行きの馬車に乗って三日目、まだ王都とタウリスとだと王都の方が圧倒的に近いところでホスローはユングヴィに見つかった。


 ホスローは逃げられなかった。


 千人近い赤軍兵士に加えて蒼軍の一部同じく千人を連れていると宿場町の内部に普通に宿泊することはできない。一般兵士たちは町の外で天幕テント暮らしだ。

 だが、ユングヴィと幹部たちといった一部の人間だけは、そこそこの宿泊代のかかる宿屋に泊まっている。十神剣に野宿させるわけにはいかない、という配慮の結果らしい。


 だからこそ、一般兵士に紛れているホスローが見つかるはずはない、と思っていたのである。


 ところが残念ながらホスローは育ち盛りの食べ盛りだ。


 せっかく年長の少年兵たちが気を回して食事の支度をしてくれたのに、彼らがこっそり持ってきてくれる一人前の料理だけでは足りなかった。密かにおかわりをしようと思って赤軍の料理番のもとへ行こうとしたところ、これである。


「あれ、ホスローじゃん。お前こんなところで何してんの?」


 しまった。仲良し以外の人間に自分の存在を知られてしまった。

 自分はユングヴィとサヴァシュという超有名人たちの子供だ。しかも、顔立ちや髪の色はユングヴィそっくりなのだ。ごまかしようがない。


 ホスローの存在はあっと言う間に知れ渡った。


 今まで世話をしてくれた少年兵たちには迷惑をかけないという約束だ。いつか全容が明らかになったら彼らも何らかの罰を受けると思うが、ホスローは彼らに恩返しをするためにも全力で母に言い訳をしなければならない。


 しかし――ここまでホスローは母のことを侮っていた。


 しょせんうちの母親だ。もう、だめでしょ、と言われて小突かれたら終わりだろう。

 彼女はいつもそうだった。子供たちを厳しく叱責することはないし、体罰などはとんでもない。妹のアイダンは師事している知人の女性から厳しい教育を受けているようだったが、ホスローはこれまでへらへらした母親とへらへらして生きてきたのである。


 多少怒られても、なんということもないだろう。いつものように受け流せばいい。


 そう思っていたのが間違いであった。


 幹部たちに左右の腕をつかまれ、宿屋の玄関の壁に叩きつけられた。


 ちょうどその時、ユングヴィが階段の上からおりてきた。


「どうします? 将軍」


 ホスローはおりてきた母の顔を見てぞっとした。


 目が、冷たい。


 彼女にこんな目で見られたのは初めてだ。

 いつも能天気な彼女からは想像もつかなかった目だった。


 自分と同じく黒い瞳が、ホスローを斜め上から見据える。

 その表情は凍りついている。


 ホスローは背中を悪寒が駆け抜けていくのを感じた。


 怖い。


 この母に対してそんな感情を抱くのは、人生で初めてのことだった。


「このクソガキが」


 吐き捨てる声がとげとげしい。


 ホスローの腕をつかんでいた幹部二人が、手を離した。解放されたはずだったが、ホスローはなぜか逆に不安を感じた。幹部たちに見放された気分になったのだ。彼らのことも兄か何かだと思っていたからかもしれない。彼らに酷い目に遭わされることはないと思っていたからかもしれない。

 それくらい、ホスローにとって赤軍兵士は家族だったのだ。


 ついてくるくらい、万が一バレても、大したことはないと思っていた。


「顔を上げな」


 言われるがまま顔を上げる。


 ユングヴィの左腕が伸びてくる。


 ホスローは最初のうちこそそれを何とも思わなかったが――次の時だ。


 彼女の手が、ホスローの胸倉をつかんだ。


 引きずられる。


 強い。


 とんでもない力だった。ホスローももう十四で、身長は母とそう変わらないくらいの大きさに育っている上腕力には自信があるはずだったが、何もできなかった。


 否、本気で抵抗しようと思えばできたのかもしれない。彼女はそれでもここ何年もただの主婦として暮らしてきた。本気で抵抗できれば、これからどんどん力が強くなっていくホスローの方がたくましいかもしれなかった。


 抵抗できる雰囲気ではなかったのだ。身をよじることすら許されない気がしてしまったのだ。


 目が、怖い。


 ホスローは本能で察していた。

 ここで逆らったらもっと酷い目に遭う。


「歯ァ食いしばりな」


 何を言われたのか分からなかった。これが他の人間だったら俊敏に対応できたが、ホスローは今ばかりはきょとんとしたまま次の反応を待ってしまった。


 ユングヴィが拳を振り上げた。


 何が起こっているのか、さっぱり、分からなかった。


 左頬に、ユングヴィの拳がめり込んだ。


 歯茎が揺れる。鉄錆の味が口の中いっぱいに広がる。


 体が平衡感覚を失った。勢いに押されるまま横に吹っ飛んだ。


 床に両手をつく。

 中が気持ち悪くて口を開いた。頬の裏側が切れたのだろうか、赤い唾液がぼたぼたと流れ出た。


 すぐには状況を呑み込めなかった。


 自分は誰に何をされたのだろう。


 だが、ユングヴィはホスローが自分の置かれている状況を理解するまで待ってはくれなかった。


 また、腕が伸びる。ユングヴィの腕の影が自分の身に迫っているのが見える。

 でも、動けない。

 どうしよう。


 混乱しているうちに髪の毛をつかまれた。

 上に引っ張られる。強制的に顔を上げさせられる。

 目と目が合う。


「ごめんなさいは?」


 目が冷たい。

 怒っている。


 今まで叱られてきたのなど、大したことではなかった。

 自分は今、生まれて初めて、母を本気で怒らせている。


 呆然としていると、髪をつかんだまま揺さぶられた。頭皮が痛い。


「お母さんごめんなさい。僕はもうおうちに帰ります。って、言いな」


 幹部たちがその様子を見つめている。やはり皆冷たい目だ。誰一人味方をしてくれそうにない。


 こんな状況は初めてだ。


 ホスローは思い知った。

 自分はよくいじめっ子たちに囲まれて叩かれている気がしていたが、あくまで同世代の、自分より弱くて強がっている少年たちとしかぶつかり合ったことがなかった。喧嘩に負けたことはなかったし、最悪大人たちは自分の味方をしてくれるものだと思い込んでいた。


 もしかしたら、母の威光を笠に着ていたのかもしれない。

 赤軍の中にいれば、母の息のかかった大人たちに庇ってもらえる気になっていたのかもしれない。


 大人が誰も、助けてくれない。


 黒い瞳で、にらむように見つめられている。


 どうしよう。


「あんたの手に負える事態じゃないんだよ」


 ユングヴィの冷たい声が聞こえる。


「いい子でお留守番してるって約束したよね。なんで言うこと聞けないの?」


 ホスローはしばらく黙った。混乱していて、何と答えたらいいのか分からなかった。

 ユングヴィは回答が欲しいわけではないのかもしれなかった。責め言葉であり、引き出したいのは謝罪なのかもしれなかった。


 でも、ここで自分の罪を認めたら――


「俺、マジ、帰らなきゃだめ……?」


 せっかくここまで来たのだ。

 戦争に行けると思ったのだ。

 戦場を間近で見られると思ったのだ。


 追い返されてはだめだ。ここで負けたら、何にもならない。


 唾を飲み込む。血の味がする。本気で殴られた痛みの味だ。


 本気で怒っている。


 それでも、ユングヴィは自分の母親で、きっと最後は許してくれるはずなのだ。


「戦争って、それくらい、ヤバくて大変なんだろ」


 大きく息を吸い、吐く。

 ここはひとつ、大きな嘘をつかなければならない。あくまで彼女のためだったと、言い訳をしなければならない。


「俺、ついていきたかったんだ」

「なんで?」

「母ちゃんが危ない目に遭うんだったら、チビたちの世話をしなきゃいけない父ちゃんに代わって、俺が母ちゃんを守ってやるのにな、と思って」


 次の時だ。


 一瞬のことだった。


 腹にすさまじい衝撃を感じた。


 体が半分に折れ曲がり、強烈な吐き気を覚えながら床に昏倒した。


 少し遅れてきたから気づいた。


 ユングヴィに、腹を蹴られた。


「テメエなんぞに守ってもらわなきゃいけない女だと思われたくないな」


 逆らえない。


 それ以上何も言えなかった。

 何も考えられない。


 だが逆に言えば、それは、帰るという選択肢のことも考えなかった、ということでもある。

 この期に及んでもまだホスローは謝罪して逃げ帰ることを考えていなかった。どうやってごまかしてこの場から逃げ出し仲間のところに帰るか、だけを考えていた。


 どうしても、どうしても、戦争に行かないという選択肢はない。


「ユングヴィ」


 隻腕の副長が言う。副長と言っても、入れ替わりの激しい赤軍は平均年齢が若いので、彼もまだ四十前と他の部隊の副長よりはずっと若い。ユングヴィの兄のような存在で、片腕になる前は一流の狙撃手だったと聞く。


 ユングヴィが副長の方を振り向く。


「帰れっつっても無理だろ。ここで放り出してもついてくるに決まってるからな。もう三日分も西に進んじまったし。王都に帰るまで見張りをつけることにしたらそれこそ人手不足の今迷惑だ。だったら連れていって現実というものを分からせてやった方がおとなしくするんじゃねぇのか」


 大きな溜息をつく。


「誰に似たんだか」

「お前だろうよ」


 副長に言われると、彼女も何か思うところがあったらしい。しばらくの間、何かを考えた。


「――誰か。そう、そこの」


 ユングヴィが比較的若い幹部の青年を指し、手招く。青年が「俺?」と呟きながら寄ってくる。


「銃」


 青年が背中に負っていた銃を取り、ユングヴィに向かって差し出した。

 その銃を、彼女はまだ床に這いつくばっているホスローの方に向かって投げた。

 一回顔面で受け止めるはめになったが、すぐに慌てて腕を伸ばしてつかまえた。


 重い。鉄のかたまりだ。手にずっしりと来る。


 だが、なぜ、今この時に――


「あんたにやるよ」


 ユングヴィが、冷たく、吐き出すような声で言う。


「あんたを赤軍兵士に加えてやる。その銃を命の次に大事にしな。あんたの相棒として何があっても守って丁寧に使うんだよ」


 そう言われた瞬間、ホスローはこの状況でも胸の中に温かいものが広がっていくのを感じた。


 認められた。

 やっと、自分も兵士になれたのだ。

 やっと、やっと、銃を持てる。


「戦うんだよ」


 ユングヴィの声は今なお厳しい。

 けれど、ホスローは赤軍に加えられた喜びで胸がいっぱいで聞こえなかった。


「何があっても、最後まで戦え。本気で戦争に来るんなら、覚悟見せろや」




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