第12話 私たちが育てた愛しい王

 翌日のことだ。


 アルヤ王国の財務大臣にしてサータム帝国の財務官でもあるサルマーンは、執政フサインの亡骸なきがらを見せつけられて愕然とした。


 猶予はまだあるものと思っていた。

 昨日の御前会議でのソウェイル王の怒りはいつになく激しかったが、フサインが素直に王の布告に従うとは思っていなかった。最低でも残り三日、フサインがいつものようにのらりくらりとかわしてくれればもう数日かあるいは半永久的に、互いに冷静になるための時間が設けられると思っていたのだ。


 ところが、そのフサインが死んでしまった。


 謁見の間、王は玉座について高みからサータム人官僚たちを見下ろしていた。サータム人官僚たちは驚きのあまり誰も何も言わない。


 その両者の間、一時的に据え付けられた簡単な寝台のようなものに、フサインの亡骸が横たわっている。


 全員がフサインの死に顔と致命傷になった胸の傷を確認すると、オルティ青年がフサインの遺体に白い布をかけた。これでとりあえず遺体を見つめ続ける苦行は終わった。現実と向かい合う覚悟が定まったわけではなく、動悸はいまだ収まらないが、この場にいるアルヤ王国側の人々は執政のむくろを宮殿の外に吊るして晒すほど感情的ではないことを知ってわずかに安堵も覚えた。


「誰か持って帰ってくれまいか」


 ソウェイル王が淡々とした声で言う。

 彼は昔から表情に乏しく声を荒げることも少ない青年だったが、今日もそうだった。まるでいつもどおりだ。


「この天候では乾燥するかと思うが、水分が抜けて軽くなると思えばそんなに苦ではなかろう」


 名乗り出る者はなかった。というより、この場にいる人間のうちの何人が現状を受け止められているのか。


 王が足を組み直す。


「余はかの者の首だけを返すような真似はしたくない。我々アルヤ王国はあくまで理性的に独立の交渉をしたいと思っておる。執政フサインがこのような形で亡くなったことについて哀悼の意は表明する」


 先ほどの話によれば、王は執政を暗殺した青年も死刑にする気ではなさそうである。拘束して宮殿の地下牢に入れてあるとは言ったが、帝国の反応次第では釈放する気だ。

 帝国が何事もなくアルヤ王国の独立を承認すればその青年は執政を暗殺した悪逆の徒として処刑されることになるが、承認しなければ、彼は英雄として昇進する。


 承認するわけがない。


 アルヤ王国ほどの金づるを今の皇帝が素直に手放すと言うはずがない。


 王国を下した偉大な皇帝はもうい。


 かつて王国で総督をしていた大宰相イブラヒムは後継者選びに奔走し、一時はそれなりの皇帝が立ったが、その者も二年前急逝した。


 今の皇帝は先帝の息子の中でも一番放蕩癖のある問題児だ。大宰相イブラヒムは、政治に余計な口出しをしないところで妥協し、今の皇帝が道楽にふけることに目をつぶっている。

 もちろん巨大な金食い虫である。

 皇室はもはやアルヤ王国の税金に養ってもらっているようなものだ。

 別れられない。


 戦争だ。


 今の皇帝には、このアルヤ王と戦うだけの力は、ない。


 サルマーンはその場に膝をつき、両手で自らの顔を覆った。


 もうお終いだ。


 涙が溢れた。サルマーンは齢五十六の初老の男であったが、恥も外聞もなくその場で嗚咽を漏らしながら泣いた。


 自分のこの十八年は何だったのだろう。


 彼は初代総督ウマルについてこの地に来た者の一人であった。派遣された帝国の官僚としては最古参の男である。

 砂漠の中の一輪の薔薇エスファーナ陥落を聞き、この世の楽園、美しい新天地を目指してこの都へやって来た。当時三十八歳だったがすでに帝国で財務官としての手腕を身につけており、自分に自信もあった。妻たちも子供たちもみんな引き連れ、意気揚々と長旅をしてきた。


 つらいこともあったが、面白いことの方が多かった。

 大通商路や中央市場といった無尽蔵に金の卵を産む鶏を手に入れた。王国の官僚たるべき貴族たちは皆逃げ出したか腑抜けているかのいずれかで、サルマーンは鶏を如何ようにもできた。どんどん仕事が進むのが楽しかった。ともに帝国から来た仲間たちの結束も固かったし、ウマル総督もイブラヒム総督もフサイン執政も自分を重んじてくれた。


 それに――十八年もここにいた。


 十五年前、初めて会った時は九歳だった少年が、二十四歳の青年に育った。


 サルマーンは知っている。


 十五年前、初めて彼に会った時、彼は赤毛の女兵士の後ろに隠れてひよひよと泣いていた。

 大きな目の整った顔立ち、華奢で小柄な体躯は少女にしか見えなかった。伝説の蒼い髪――『蒼き太陽』であることには驚いたが、サータム人である自分が彼を崇め奉る必要はない。ウマル総督がそれとなく可愛がっているのを見て、微笑ましく思って目を細めていただけだ。


 九年前、彼が双子の弟と王座を奪い合って殺し合った時、サルマーンは胸が痛んだ。

 皇帝の兄弟殺しはサータム帝国の慣習であり、必ず為すべき当たり前のことであったが、帝国内部でもあまり喜ばしい風習ではなかった。それをこの上なく残虐なやり方で強いたイブラヒム総督に嫌悪すら抱いた。

 同時に、サルマーンにはイブラヒムの感じている不安も伝わってきていた。イブラヒムは王子たちを潰し合わなければいつかどちらかが帝国を内側から食い破ることを予期していたのではないか。それを思うと、サルマーンは口を挟めなかった。


 六年前、彼が酒色に溺れて自分を見失っていた時、サルマーンはとても悲しかった。

 帝国が望んでこう育てたとはいえ、ひとりの青年の人生をこんなふうに破壊するのはサルマーンにとっては胸が潰れる思いだった。病を得て宮殿を去った時は二度と戻ってこないのではないかと密かに案じた。イブラヒム総督はそう仕向けたかったようだが、サルマーンは無力感を覚えながら見送ったものだ。


 彼はいつの間にか目を覚まし、髪を切り、さっぱりした顔で宮殿に戻ってきた。


 それからだ。


 彼はイブラヒムについて勉強を始めた。イブラヒムの行く先々についていき、イブラヒムが休めばひとり深夜まで書物を読み解き、立ち居振る舞いにも気を配って、自分自身に王らしさを求め始めた。


 サルマーンにも近づいてきた。

 子供の頃は怖がって話し掛けても返事すらしなかった王子が、自ら近づいてきて財務諸表の読み方を教えてほしいと言ってきた。

 サルマーンは喜んだ。あの小さかった王子がついに本物の王になろうとしているのだと思った。イブラヒムには内緒で自分が培ってきた税知識を彼に教え込んだ。


 五年前、王の強引な後押しに勇気づけられたとおぼしき鋼姫が遠い東洋の帝国から花嫁を連れてきた。あの時は皆してやられたと困っていたが、文句を言ったのは新参者たちばかりで、外務大臣も目をつぶったものだ。

 皇帝はアルヤ王国をサータム帝国という男しか見えない依存体質の花嫁に育てたかったようだが、アルヤ王国は強く美しくたくましい女騎士だった。彼女は生来の気質をもってして同盟国を増やそうとしていた。いつの間にかたくさんの夫をもち我が物顔で大陸を闊歩するようになった。

 それが、アルヤ王国で大臣を務めている者たちにとっては、面白かったのだ。


 面白かった。


 自分たちが育てたアルヤ王国が世界中に愛され、自分たちが育てたアルヤ王がその頂点に立つ。


 可愛いではないか。


 フサインは嫌味としてそうと言っていた。事実彼は、イブラヒムにこの王国の根幹は王個人の特質によるもので、宗教的熱狂をもって支えられているものであり、王ひとりを押さえれば国を押さえられる、と教えられてやって来たようだった。


 フサインは何も分かっていない。


 彼を育てたのは――比喩ではなく、きちんと見守って、政治経済を教えて、妃を得て王子を得るまで待ったのは――自分たちなのだ。


 自分たちが育てた王がいとおしい。


 十五年も見つめてきて立派な青年に育った彼を、どうして裏切れようか。


「王よ」


 サルマーンは声を絞り出した。


「どうぞ私の首をお刎ねください」


 王が上半身を持ち上げ、「なぜ」と問うてくる。


「私には帰る場所がありません。帝国はもはや腐敗し堕落した皇帝の貧相な金庫に過ぎず、かといって私たちが精魂を傾けて育ててきた王はもはや私たちを敵とみなしている。もうどちらにもいられないのです」


 しばらくのあいだ、謁見の間にいる皆が沈黙した。


 同じようにすすり泣く声が聞こえてきた。何人かの同胞がサルマーンと同じ気持ちでいるらしかった。


 ややして、王が重い口を開いた。


「では、ここにいるか」


 その穏やかな声に怒りはもうない。


「余がここにいてもよいと言うのならば、そなたたちはここに残るのか」


 サルマーンは身が引き千切られる思いだった。


 それでも、自分はサータム人なのだ。サータム帝国臣民であり、アルヤ王国臣民ではないのだ。


「私はアルヤ人にはなれないのです」

「何ゆえ?」

「唯一絶対の神を信仰しているからです」


 どれほど王が愛しくても、神はそれを超越する存在であり、生きることの意味と言ってもいいほど大きなものだ。


「多神教を国教とするアルヤ王国に真の意味で馴染むことはできないのです。あなたさまを神と崇めることはできません。多神教は私にとって異教であり、相容れぬ他者です。もはや攻撃すべき敵対者であるとは思いませんが、同化はできません」


 王はすぐさま応じた。


「同化する必要はない」


 蒼い瞳を丸くする。


「何を愚かなことを言っている? アルヤ人とアルヤ王国臣民は同一のものではない。一神教を奉ずるサータム人がアルヤ王国に住めぬとは誰が決めた」


 彼が天使のように見えた。


「余を神と崇める必要はない。そのように言うアルヤ人に同調する必要もない」


 静かに立ち上がる。


「本音を言えば。そなたたちの力が惜しい」


 一歩ずつ、ゆっくり、近づいてくる。

 フサインの遺体を挟んで、向かい合う。


「もし。帝国を捨てて、王国のもとに来てくれると、約束するのならば――」


 蒼い瞳が、こちらを見つめている。


「そなたたちに今までと変わらぬ地位を用意する。もちろん、信仰も保証する。王都にあるたくさんの礼拝堂は今までどおりに保存される」


 光明が差し入る。


 神は信徒が望むことを何でも為される。

 生きるために膝を折る自分たちをゆるしてくださる。


 唯一絶対の神の力が太陽を蒼く染めたのだ。


 両手を挙げた。


「私は今までと変わらぬ愛と新たな忠誠をあなたさまに誓います」


 何人かの者が「私も」「私も」と続いた。


「よろしい。では、この骸は誰か別の者に運ばせよう」


 サルマーンは、ぬかづいた。


「神よ、彼に祝福と平安を賜い給え」






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