第10話 この国は、俺の国だ
フサインの手が動いた。
リリは思わず灌木の上に頭を出してしまった。
できることなら叫びながらフサインにつかみかかりたかった。
フサインの手が、わざわざソウェイルの頭から帽子を外した上で、その蒼い髪を撫でたからだ。
「魔法も封印しましょうね」
ソウェイルは目を丸く見開き、沈黙している。その面からは血の気が引きつつあるのが分かる。
フサインは構わずソウェイルの髪を手櫛で梳きながら囁いた。
「アルヤ王国の蒼い魔術師。貴方様はもう戦う必要はないのです」
少し伸びた蒼い髪を、耳にかけさせる。
「物騒な神剣はしまってしまいましょう。もう次の軍神を探すのはやめて壁に飾っておきましょう」
リリはまだ見ぬ黄将軍の姿を連想した。確かソウェイルが自ら探し出して神剣を授けた少年だ。
ソウェイルがいつになく嬉しそうに言っていた。
曰く、初めて将軍になりたくて将軍になった将軍が現れる。神剣に求められるのではなく、神剣を求める将軍が生まれるのだ。
もう誰も、神剣に選ばれることで発生する悲劇を繰り返さなくてもよくなる。
「よいではございませんか、神剣は存在するだけで価値のあるもの。たいへん美しい。わざわざ所有者を見つけなくても、置いておけばいいのです」
楽しそうに、歌うように、「ねえ」と言う。
「あと三本、そのまま置いておきましょう。いつでも誰にでも愛でられるように」
だがしかし、それはソウェイルの悲願なのだ。
十神剣を十人揃えるのは、アルヤ民族の信仰を守ることであり、戦う勇気と希望を持たせることであり、また、アルヤ王自身をも安心させることでもあるのだ。
当事者たちも十人揃えばその重圧から解放されることだろう。十神剣は十人いてこそ意味を持つそうだが、それは彼らが不安を分かち合うことができるからだ、と言っていたのは誰だったか。それぞれがめいめいに務めを果たすことによって、十神剣は救われる。
ソウェイルは軍神の人生を背負う覚悟で次の将軍選びをしている。
「皆さん自由に生きられたらいい。そう思いませんか。事実宮殿に姿を見せぬ将軍もあるほどです。貴方様が無理をしてまで呼び戻そうとする理由は何でしょうか」
フサインの言葉こそ魔法の呪文のように聞こえる。
「貴方様が戦う機会などもう二度と来ない」
また、ソウェイルはしばらく沈黙した。
彼が密かに拳を握り締めたのが分かった。
怒っている。
珍しく、ソウェイルが怒っている。
当たり前だ。ここまで馬鹿にされて黙っていられるはずがない。
リリは、もういい、と言ってやりたかった。ソウェイルに、もう我慢しなくていい、と言ってしまいたかった。
その拳を振りかざして、フサインを殴ればいいのだ。勝手に触るなと、髪にも剣にも国にも何にも触ってくれるなと言ってぶっ飛ばしてしまえばいいのだ。
戦争になるならそれはもういい気がした。
これは一国の王の扱いではない。
王にこんなことをされて黙っている家臣たちも家臣たちだ、と思うが、彼らは王が黙っている限り何も言わないだろう。王に背いてはいけない。王が忍従を選択するのなら自分たちも黙っているべきだ。分かっているからこそ――理性的で聡明だからこそ苦渋を飲むのだろう。
シャフラが自分の服の裾を握り締めている。その手は力のこもりすぎで真っ白になっている。震えている。自分が肩を抱かれた時よりよほど怒っている。
とうとうオルティが口を開こうとした。立ち上がろうとしたのか、片膝を立てた。
それを止めたのはソウェイルだ。
「承知した」
そこかしこから溜息が漏れた。
「それが帝国への叛意だと受け取られかねないのならば。あくまでアルヤ民族の宗教的行為であって、けして敵意はないのだが。神剣は、これ以上――あと三本の持ち主は探さない。あのままあの部屋に置いておく」
シャフラよりオルティより先にアルヤ人の侍従官の長がすすり泣き始めた。
「アルヤ王国は、サータム帝国に従う。疑われるような真似は、けして、しない。誓ってもいい」
フサインが嬉しそうな声で「よろしい」と言った。
「誓ってくださるのですね、王よ」
「ああ」
「では最後にひとつだけ誓いの証としてお願いしたいことがございます」
「何だ」
次の時だ。
フサインが遠く目をやった。
リリの方を見た。
目が合った気がした。
一瞬のことだったし、大臣たちは皆ソウェイルを見ていたのでリリには気づいていないようだったが、リリは背筋が寒くなるのを感じた。
いったい何を企んでいるのか。
すぐに分かった。
「貴方様の王子を帝都でお育てしましょう」
空気が、止まった。
「どなたかお一人、皇帝陛下のお傍でお預かりしましょう」
それは、つまり、
「大丈夫です、心配はございません。大事に大事にお育てします。もちろん勉学も武芸もきっちりやらせていただきましょう。皇帝陛下のお傍で。皇帝陛下のお手元で」
人質だ。
「それこそ、次のアルヤ王にふさわしい立派な男性になるように」
フサインは、ソウェイルの次の
今度こそ我慢できなかった。
リリは歩き出した。
「そう……、せっかくだから蒼い髪の王子がいい。全アルヤ民族が王として仰ぐような、立派な王候補が。まだ生まれたばかりで愛着も薄ければ貴方様も寂しくないのでは? ギル王子はお父上にすっかり懐いてしまって可哀想だ」
ここでソウェイルが頷けば、引き渡されるのはリリが産んだ誰かだ。
許さない。
フサインの手が、ソウェイルの両肩を揉んだ。
「ご心配されることは何も――」
「嫌だ」
リリは足を止めた。
ソウェイルが立ち上がったからだ。
「やめだ、やめ」
ソウェイルの背後で膝立ちをしていたフサインが、想定外のことだったのか、手を止めてソウェイルを見上げた。
フサインを見下ろすソウェイルの蒼い瞳が、冷たい。
「今までの全部なし」
鼓動が高まるのを感じた。
ソウェイルがフサインの胸倉をつかむ。
強い力で引き寄せる。
フサインが「えっ」と呟く。
次の瞬間だ。
ソウェイルの拳が、フサインの左頬にめり込んだ。
フサインの体が吹っ飛んだ。
「何もかもお前の思うとおりになると思うな」
大臣たちが一斉に立ち上がった。アルヤ人の大臣たちは歓声を上げ、サータム人の大臣たちが悲鳴を上げた。
「この国は俺の国だ! もうお前らの好きにはさせない!」
シャフラとオルティの顔に笑みが浮かんだ。
「いいだろう、やってやる!」
リリも手を叩いた。
「サータム帝国に告ぐ! アルヤ王国はここに独立を宣言する! 承認しないのならば戦争だ!」
フサインが初めて不快そうな顔をして「なぜ」と問うた。
ソウェイルは即答した。
「家庭も守れない男には国も守れない」
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