第8話 親子三人横一列

 ある晩のことだ。


 リリはギルが布団に潜り込んでくるのを許した。


 彼には生まれた時点ですでに個室を与えていた。それに普段は乳母が寝かしつけをしてくれている。

 だが、彼は時々こうして実母のリリに甘えてリリの部屋にやってくる。

 リリはそんなギルを愛しく思い、できる限り応えるようにしてやっていた。

 過去には寝小便をして困らされたこともあったが、双子が生まれて以来どうやらなくなったようだ。彼はとうとう丸一日おしめなしで暮らせるようになったらしい。我が子の成長に感動する。


 もっとギルを傍近くに置いて育てたい、と思うことがある。リリはどうしても政治のことが気になって南に赴きがちだし、最近は双子もいるので、ギル一人に手を掛けることはできない。それが切なくも申し訳なくもあり、せめて夜眠る時くらいはともにいたいと思った。


 リリの隣に横たわり、おとなしく掛け布団をかぶるギルを見つめる。リリは体を横にしてギルの方を向き、彼の腹を優しく撫でるように叩いた。


「ギル。ギルや。ギル」


 こうしていると、世界で二人きりになったような気がして嬉しい。すべての憂いを忘れて我が子と二人きりの世界に耽溺する――こういう人生があってもいいかもしれない。というのは朝になると吹き飛ぶが、今だけはリリはひとりの母親であった。


 こめかみに口づけをする。


 この小さな王子がいつか玉座に座るのだ。

 リリはその日を夢見て暮らしていた。

 この子と双子の弟たちが争うことはありませんようにと祈るばかりだ。


 ギルが眠そうに自分の手の甲で目をこすった。


 その時だ。


「リリ」


 扉の向こう側から男の声が聞こえてきた。

 ソウェイルだ。


 リリは慌てて上半身を起こし、「何ぞ」と答えた。つられてギルも起き上がってしまった。


「部屋に入っていいか」


 掛け布団を引き剥がして唸り声を上げる。せっかくの息子との休息が台無しだ。


おとないをする時は必ず女官を通じて先触れを出すようにと言うておいたではないか」


 今日は何の連絡もなかった。ギルと二人平和に眠りにつくものだとばかり思っていたのだ。


 ところがソウェイルはこんなことを言った。


「いや、そういう用事じゃなくて。ギルと一緒にいると聞いて」


 目をしばたたかせる。


「俺もギルとリリと三人で寝たいな、と思って」


 彼はおとなしい顔と性格に反して夜はわりと盛んだ。リリの体調が安定してきたのを見てそういうことを求めてきたのだと思っていた。

 しかし今夜は違うらしい。ギルがここにいることを認識している。彼は息子のいるところでは夫婦生活についてまったく話題に出さない。


「ギルとわらわと三人で?」

「そう。三人横に並んで」


 そういえば、過去にも何度かこんなことがあった。ギルがまだ赤子の域を抜けぬうちは寝返りを打った拍子に潰れてしまったらと心配した結果避けていたようだったが、三歳になったくらいから時々そういう寝方を求めてくるようになったのだ。リリの二度目の妊娠が明らかになり、一時的ながらもギルと少し距離を置くようになってからはなくなっていたので、およそ一年ぶりのことである。


 長男が父王に溺愛されて育つというのは悪くない。庶民のようにともに寝るのもどうかと思うし少し鬱陶しくも感じたが、ソウェイルがそうと求めれば拒まないようにしている。


「構わぬ」


 そう答えると、扉が開き、寝間着姿のソウェイルがいそいそと部屋に入ってきた。


「ええ、ちちうえもいっしょなのですか」


 ギルが嫌そうな声を出す。彼は母親を独占したいのだ。リリに甘えたいギルにとって二人の時間を邪魔するソウェイルは父親と言えど邪魔者だ。


 しかしギルのそんな言葉を無視して、ソウェイルはリリを挟んで反対側、ギルの隣に移動した。


 横向きに寝転がり、リリと向かい合うようにして、ギルを挟み込む。ギルがむっとした顔で寝台に仰向けになる。


「いいだろ、親子三人、横一列」


 たいへん上機嫌だ。よほど嬉しいらしい。ギルは「べつに」と言うが、ソウェイルはそんな息子の腹を優しく叩いた。先ほどリリがしていたように、だ。


 リリも仰向けになった。


 きっと、ソウェイルは養父母の間でこうして眠っていたのだろう。こうして過ごすことを家族の愛だと思い込んでいて自分もそういう父親になろうとしているのだ。


 王室は庶民の家庭とは違う。王子であるギルには然るべき教育を施し、早くに自立できるように促すべきだ。


 そうは思っても、ソウェイルにとっては、これが家庭なのだ。


 否定しないでやろう、と思った。何度も同じことを考えてしまうが、王の寵愛を受けるのが王妃の務めであり、王の後継者として大事にされるのは王太子の務めだ。


 双子が大きくなれば双子にも同じように接したいと言い出すに決まっている。だが、さすがの蒼宮殿でも寝相の悪い子供たちを含めた五人で眠れる寝台はない。こんなことができるのも、双子が同じ布団に寝られるようになるまでであり、また、ギルが母の添い寝を求めなくなるまでだ。


「どうしてちちうえまでいっしょに……」


 そうは言ってもギルも強いて抵抗する様子でもなかった。まんざらでもない、といったところか。掛け布団をつかんで、顔の下半分を覆っている。案外喜んでいるのかもしれなかった。


「お父さんと、お母さんと、ギルと、三人いっしょ。安心だなあ」


 安心しているのは他ならぬソウェイル自身だ。皇帝の娘として生まれ育ったリリにこんな経験はない。

 しかしいいだろう。郷に入っては郷に従え、だ。アルヤ王のお求めとあらばやむを得ない。


「三人いっしょかあ」


 ギルが呟いた。


「ははうえ、ちちうえ。おやすみなさい」


 それを最後に、ギルは目を閉じたようだった。


 しばらくの間、リリとソウェイルは無言で過ごした。ギルが眠りに落ちるのを待ったのだ。


 ギルの寝息が聞こえてきた。規則正しく胸が上下する。


「――寝たか」


 ソウェイルが言うと、リリは「そのようだな」と答えた。


「そなたも寝るがいい。追い出しはせぬ」

「寝るけど、その前に。リリと少し話をしたいと思って」

「何ぞ」


 小声で言葉を交わす。


 窓掛けの向こう側から感じるほのかな月光だけが唯一の明かりだ。目が慣れてきたので何となくどこに何があるかは分かるが、ソウェイルの瞳の色までは見えなかった。


「俺、自分は相当我慢強い方だと思ってたんだけど。そろそろ、我慢できなくなるかもしれないなあ」


 リリもソウェイルは我慢強い方だと思う。ありとあらゆる局面で彼は穏やかで落ち着いていて、何を言われようが何をされようが無表情で受け流してきた。だから何も考えていないと思われがちだが、こうして話すと繊細な部分もないわけではない。


「何が?」

「フサインのこと」


 少し間が開く。


「……サータム帝国のこと」


 リリはあえて何も答えなかった。相槌として「おお」と言っただけで、ソウェイルに続きを話させることにした。


「イブラヒム総督じゃないけどさ。帝国はたぶんまた王位継承に口を挟んでくるんじゃないかという気がする」

「わらわもそのような気がする」

「実は、今だから言うけど。ナイショにしてほしいんだけどさ。自分の時は、弟と喧嘩するのも、わりとそんなもんかと思ってたんだよな」

「ほう」

「弟がすごい血の気が多くて。オルティも殴り合えとか言うし。俺は弟のことも守ってやるつもりだったけど、言うこと聞かないから、ちょっとぐらいはぶつからないとだめだとも思ってた」


 ますます第二王子がどんな男だったのか気になってくる。誰に聞いても違う答えが返ってくるので謎は深まるばかりだ。


「でも、俺、いざ自分が親になってみるとさ。ギルとザードとダードが喧嘩するのやだな、と思って」


 リリは密かに頷いた。


「まあ、自主的に喧嘩するなら、ある程度のところで仲裁してやればいいか、とも思わなくもないけど。兄弟喧嘩のひとつやふたつした方がたくましくなると思うしな。ただそれを、外部の人間が煽って、賭け事みたいに利用するのは嫌なんだ」

「さようか」

「だからフサインが口を出してきたら俺がフサインと喧嘩しちゃうかもしれない」


 珍しいことだった。初めてのことかもしれない。ソウェイルは好戦的どころか、自分が多少不利益を被ってで争いごとを避ける人間だ。


「軍学校のこととか。十神剣のこととか。そういうことも、あれこれ言われるのやだし、フサインにナイショにしててバレたらヤバいなあと思うこともすごい抱えてるけど。その辺は、一時的に頭を下げてなんとかしのごうと思ったりしてる」

「ふむ」

「ただ、王位継承のことだけは、突っかかってしまうかもしれない」

「……ふむ」

「もちろん、ぎりぎりまで我慢するつもりなんだけどな」


 ソウェイルが自ら争いを望むことなど、おそらく、これが最初で最後だ。


「フサインと本気で喧嘩になったら、帝国との対立、決裂が決定的になる。そうなった時は――だいたい予想がつくよな」


 戦争だ。


 しかしリリは平気だった。


「よいぞ」


 どのみち、王位継承に干渉するということは、国の存亡に干渉するということだ。

 サータム帝国というやつはソウェイルを傀儡の王にして喜んでいる連中だが、その息子まで同じように支配できると思っているのなら大間違いだ。何せその息子は三人の誰であってもみんなリリの子である。


 彼はいよいよ反撃のために牙を剥く気になった。


 残念ながら、リリは血沸き肉躍った。


「やれやれ。おおいにやれ」


 それがひとの子の親になるということなのかもしれない、と思うと、頼もしくも、心強くもある。


「……おやすみなさい」


 ソウェイルがそう言ったので、リリも「おやすみ」とだけ返して目を閉じた。



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