第5話 自分の乙女心を持て余してしまう話
鋼姫。
若い頃は無垢な乙女でありながらどのような罵詈雑言や嫌がらせにも耐え抜き、今は鍛え上げられた堂々たる態度で議員や法官と渡り合う。秘書官長として、アルヤ王のもっとも忠実な
彼女はどんな時にもけして泣かない。非常事態にも眉ひとつ動かさない。凍てついた表情は人形のように美しく、並み居る男たちを威圧し沈黙させることができる。
――と言われているのは一応知っているが、リリはたまにシャフラが本当にそんな女なのか疑問に思ってしまう。
部屋の隅に座り込み、幼子のようにしゃくり上げながら泣く女の後ろ姿を眺めて、リリとソウェイルは同時に溜息をついた。
「あの……、シャフラ?」
ソウェイルが名を呼ぶと、シャフラが振り向いた。大きな黒い瞳の周りは真っ赤に腫れ上がり、鼻も赤く染まっている。涙が幾筋も流れたためか白粉が乱れて変なしわを作っていた。ず、と
「とりあえず……、これ、使っていいからな」
箱に入った鼻紙を差し出す。シャフラが震える声で「ありがとうございます」と答えて受け取った。
派手な音を立てて洟をかむ。鋼鉄の人形とはよくぞ言ったものである。
「そなた、仕事のことになると泣くどころか笑いも怒りもせぬのに、オルティのことになるとよう泣くな」
リリがそう言うと、シャフラが泣き崩れた。
ソウェイルとリリの間でおとなしく座っていたギルが何を思ったか突然立ち上がった。ソウェイルが「どうした」と問い掛けるのも聞かずに廊下へ出ていく。用便だろうか、と思ったら、廊下の花瓶から引っこ抜いてきたらしい薔薇を一輪持って帰ってきた。
「なかないでください、シャフラ。おはなあげます」
シャフラが「あ、ありがとうございます」とどもりながら受け取る。ギルが得意げな顔をする。
「げんきがでましたか?」
「何ゆえ花を賜ったのです?」
「ちちうえが、おなごには、はなをおくるものだ、とおっしゃっていました」
リリは意地悪く笑った。
「わらわは父上から花を賜ったことなどないがな」
ソウェイルが「ええ」と大きな声を出す。
「誰が
「さようか、知らなんだ。気の利く女官かシャフラが手配しておるものだとばかり」
「花屋に注文しているのはわたくしでございます……」
「注文を指示してるのは俺だからかな。何度でも言う。俺!」
必死のソウェイルにギルが首を傾げている。
「まあよい。
「こういうこと言う人に花を送るのどんだけしんどいか知ってる?」
ギルが「はなではないのですか」と呟いた。
「ではぎゅーをしてあげます。おうじさまのぼくにぎゅーされたらもっとげんきになるでしょう」
そう言ってシャフラに抱き着いたギルを、シャフラは強く抱き締め返した。そしてギルの服の肩に顔を埋めてよりいっそう激しく泣き出した。ギルが困惑した顔をする。微笑んでくれるとでも思っていたに違いない。
「げんきにならないですか……」
「なんと
「シャフラがなきやんだら、ははうえをぎゅーします……」
不敬にもギルの服で涙を拭いつつ、シャフラが言う。
「申し訳ございません、取り乱してしまいました」
「見れば分かる」
口を尖らせ、「しかし」とシャフラをなじる。
「何ゆえそれほど泣く? たかだか花を受け取るように言われただけではないか。それこそ今ギルが花瓶から引っこ抜いてきたその薔薇と何が違うのか。受け取って持ち帰ればよかったのだ」
シャフラがギルを膝に抱え直してから答えた。
「それは求婚を受けた証となるでしょう。求婚されたのですよ? ただ愛を告白されただけではありません。今まで誰からも受け取ってこなかったのです。あのハーフェズという殿方だけ特別に受け取るということはできません」
「まさか今まで何度もこんなことがあったのか?」
「ええ。今年で四度目です」
想像以上に多かった。
「そなた……もてるのだな……」
「秘書官長になってからでございます。ただの秘書官であった頃には庇ってくださることすらなかった有象無象が、わたくしが秘書官長として働く覚悟を見せ他の秘書官どもより優位に立った途端態度を変えたのです。それでも大抵が白軍兵士ですが――文官の者にはいまだやっかむ者もございますゆえ」
「……有象無象……」
「それも、わたくしが秘書官長であることを考慮して、働かせてやってもいい、などと言うのです。働いていいし、家の管理はしなくてもいいし、子も望まない、と。いまさらになって、手の平を返したようにそのようなことを言うのですよ。なんと高慢な」
「ふむ」
ソウェイルの方に目をやる。ソウェイルと目が合う。
「それはつまり恋愛結婚ということではないのか? 当人同士の合意をもとに婚姻を結ぼうというのは」
「そういうことになるな」
「そういうのはアルヤ王国ではどうなのだ? 政府の高官がするものか。家のことも考えず、政治的立場もわきまえず、文官である娘と武官である男が結婚するなど。わらわからしたらなかなかはしたなく卑しいことのように思うが――そういうのは庶民のすることぞ」
「いいだろ別に」
即答であった。微塵も悩んでなどいない様子だ。
「そりゃ、家同士の合意がある結婚の方がいいに決まっている。親同士で決めた相手を互いに気に入るのが一番幸せな結婚だろうな。でも気に入らないなら離縁してもいいし、そもそも結婚しなくてもいい。俺は結婚したい子が結婚できて結婚したくない子は結婚しなくてもいい国であったらいいと思っている」
「なるほど」
「白軍兵士ということは貴族の三男四男だ、もともと家のことなんか知ったこっちゃないんだろ。だったら惚れた女に命懸けで結婚を申し込んだ方が、何と言うか――浪漫?」
「吟遊詩人か」
「それに、シャフラに働くことを認めて家のことは考えなくていいと言ってくれてるんだろう?」
シャフラが頷く。
「条件はいい。家のことをしなくてもいい、後継者を産まなくていい、これはもう文官として出世したいシャフラちゃんにとっては破格の条件だ」
「さようにございます」
「でも、そういう条件を出してくれる男だったら誰でもいいわけじゃないんだよなぁ」
ソウェイルがそう言った途端、シャフラがまた泣き出した。
「誰でもいいわけじゃないんだよなぁ。なあシャフラ。あえて誰とは言わないけど、どうせ家のことを気にしないでくれるって言うんだったら、なあ?」
「はい……あえてどなたとは申しませんが……はい……」
「それが他の男の求婚を受けろだなんて最低だよなぁ?」
小さな声で呻く。
「最低ですけど、お慕いしております……」
リリは「あいやー」と言いながら自分の額を押さえた。
「あの男が花束を送ってよこすことなどないぞ」
「分かっております。あの方はもとより食べ物と着るもの以外のものに価値を見出しませんし」
「根っからの遊牧民だのう……」
「それでもいいのです。それでもわたくしは構わないのです」
白い頬に透明な雫が幾筋も伝う。
「それこそ、他に妻を持ったとて構わないのです。わたくしとは結婚できなくても。ですが、わたくしが想うことすら許してくださらないとなると、それは……、それは――」
ソウェイルが分かっている顔で「つらいなあ、つらいなあ」と頷く。
「そなたに乙女心の何が分かるか」
「リリに乙女心とかいうものがあるのか疑問だし、俺も失恋した回数なら結構あるから」
「さようか、難儀だのう。あと確かにわらわはさほど愛だの恋だのにぴんと来ぬな」
ギルがシャフラの膝の上から立ち上がる。
「ギルはおおきくなったらははうえとけっこんします!」
「おおーなんと愛い子であろう! こちらに来てたもれ!」
たまらなくなってギルを抱き締めた。ギルがくすぐったそうに笑った。
「大丈夫だシャフラ、あいつもそこまで冷たい男じゃない。いや、だからこそだ。優しいからこそお前の幸せを望んでる。他の、気の使える男と結婚して、昼は働き夜は家族と過ごす生活をすることがお前の幸せだと思ってるんだ。俺からしたら、いっそシャフラの代わりに俺が拳で殴るか、と思うくらいのひどい話だけど。お前を不幸にしたいわけじゃないんだと思うんだ」
「そのような幸せなど押しつけがましい!」
「そう、そのとおり。そのとおりなんですけど……」
「あの時だって」
女の直感だろうか。リリはその言葉を聞き、黙った。シャフラが何かを言おうとした――特別な時のことを口にしようとした。
シャフラは黙った。彼女は賢い女だ。この場にふさわしくないと思ったのだろう、口を閉ざした。普段の落ち着いている彼女ならこんな失態は犯さなかったに違いないが、今の彼女は言い掛けてしまったのだ。
「どの時だ」
「……何でもございません」
「申せ」
「何でもございませんと申しております」
「どの時ぞ。申せと言うておる。わらわに背くのか、王妃たるわらわに」
ソウェイルが小声で「王である俺の百万倍職権乱用」と呟いたが無視した。
シャフラが長い睫毛を伏せた。観念したのだ。
「実は、オルティさんが、わたくしが求婚される場に居合わせたのはこれが初めてではないのです」
今度はソウェイルもすっとんきょうな声で「へえ」と言った。
「えっ、いつ誰に?」
「一ヶ月と少しのことだったでしょうか。その時は今回のように花を贈られたわけでもなく、立ち話の延長線上のことだったので、わたくしも本気にとらなかったし、オルティさんも冗談はよせと間に入ってきてくだったのですが――」
「誰!? 誰、そんな勇気あることをした男!」
シャフラが上目遣いでソウェイルとリリの顔色を窺いながら答えた。
「……フサイン卿です……」
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