第2話 坐月子《ズオユエズ》

 一方その頃第二王妃リリは布団に転がってうめき声を上げていた。


 ずっと坐月子ズオユエズが明けたら何をしようか考えていたのだ。


 後宮ハレムにある浴場で思い切り湯を浴びたかった。心行くまで湯を掻き回し、湯殿で手足を伸ばしたかった。


 味の濃いものを食べたかった。特に豚骨の汁物の麺類が食べたい。あるいは乾酪チーズのかたまりをかじりたい。塩気の濃いもの、体に悪そうなものを思い切り食べたい。


 何より蒼宮殿南の政治の場に赴きたかった。帝国の官吏との駆け引き、知的な会話、アルヤ語の詩の応酬で思い切り頭を回転させたい。


 ソウェイルの尻も叩きたい。あの男は放っておいたらぼさっとしている。見た目だけはリリが磨きに磨いて王らしく振る舞えるよう仕立て上げたが、しょせん体裁だけだ。どうせまた間抜けなことを言ってシャフラとオルティを奔走させているに決まっている。


 今のリリにはどれも無理だった。


 坐月子ズオユエズの三十日が終わっても、リリの体は元に戻らない。


「ひょっとしてわらわは一生こうなのではあるまいか……もう二度と政治の陰謀の場に出られぬのではないか……もう……おしまいなのではなかろうか……?」


 アルヤ人の女官がリリの嘆きを一蹴する。


「日柄ものです」

「何を根拠に申すか」

「双子の御子をご出産なさってぼろぼろになった内臓は三十日の坐月子ズオユエズではもとに戻りませんでしょうね」


 リリは布団に突っ伏してよよと泣き崩れた。


 坐月子ズオユエズ、延長戦である。


 坐月子ズオユエズとは、リリの実家である大華たいか帝国では一般的な産後の肥立ちのことである。産褥期にある女性を療養させる儀式の一種だ。


 お産直後の女性の体はとにかく弱い。出血多量で死ぬかもしれないし、内臓が引っくり返って死ぬかもしれない。それを防ぐのがこの坐月子ズオユエズである。

 じっと座った状態で――リリの場合は布団に寝転がっているが――一ヶ月おとなしくしている。

 皇族から田舎の貧民まで必ずやる、産後の女性を守るための儀式なのである。


 ところがこれがまた禁忌が多い。


 まず、起き上がってはいけない。かわや以外のすべての用事をひとつの部屋の中で済ませねばならない。厠も部屋のすぐそばにあるので、後宮ハレムの中の一区画から出ていない。


 次に、入浴してはいけない。頭を洗うことすら許されない。体を冷やしてはいけないからだ。さすがに着替えはするが、今リリは自分の全身から悪臭が漂っているのを感じていた。


 それから、味の濃いもの、特に塩辛いものを食べてはいけない。お産で弱った胃腸を癒すためだそうだ。それを一ヶ月も続けるのはまじないの類を嫌うリリからしたら意味不明だ――が、他ならぬ夫のソウェイルが「そういう儀式はちゃんと手順を踏まないと人間はすぐ死ぬから」と差し止めて厨房に鶏のささみと野菜をのせた卵とじの粥ばかり作らせていた。


 リリが双子を産み落としてからかれこれ三十日が経過した。

 二人もの赤子が入って異様に膨らんだ腹、長時間にわたる分娩、そして大量の出血、何もかも長男のジャハンギルの時とは違ってリリはもがき苦しんだ。自分は健康も取り柄だったし、長男が安産だったので、今度も何とかなるだろうと根拠もなく信じていたのに、である。

 出産とは何が起こるか分からないものだ。

 リリは、十回ぐらい、死、という言葉が脳裏をよぎっていくのを感じた。


 それでも人間の体とはよくできたもので、だらだらと続いていた悪露も昨日完全に終わった。どちらかといえば一ヶ月の坐月子ズオユエズで失った体力の方が問題のような気もする。しかしさすがのリリも女官の言うとおり一度に二人もの子を産んでおいて長男の時のようにあっさり回復できる気はしない。


「せめてあと一週間ぐらいはじっとなさいませ」

「悔しいがそうせねばならぬな……」


 敷布を握り締めてうめく。


「だがせめて……せめて豚骨を……豚骨の汁につけた麺を食べさせてたもれ……」

「陛下のご許可が下りれば厨房に申しつけます」

「何ゆえあの阿呆の許可を待たねばならぬ……」

「御子のお父上だからです」

「さようか……そなたまこと正論を吐きよるな……」


 噂をすれば影、である。


 扉の向こうから別の女官の声が聞こえてきた。


「リリ様、陛下がお見えです」


 リリは勢いよく上半身を起こした。隣で控えていた女官が「お元気ではございませんか」と呆れた顔をした。


「お加減がよろしくないのであればお顔をご覧にならずに帰られるとおっしゃっており――」

「すぐに通せ。もう三十日は過ぎた、すぐにでも顔を見せよと申せ」


 この坐月子ズオユエズ、三十日は男性とも会ってはならぬという掟もある。おそらく子宮が元に戻っていない状態のまま性交渉をもってはならぬという合理的な理由のためだろう。


 ソウェイルは律義に守ってこの三十日間顔を見せなかった。


 リリとしては、貴様の子のせいで死にかけたのだと文句を言いたい気持ちと、自分がいない三十日間何をしていたのかと問い詰めたい気持ちと、坐月子ズオユエズから解放するよう下々の者にお触れを出させたい気持ちとで、一刻も早くソウェイルに会いたかったが――先ほどまで冷静そのものの顔をしていた女官が袖で目元を拭った。


「まこと仲睦まじいご夫婦でよろしゅうございます。そんなに陛下にお会いになりたいとは、さぞや恋しく思われておいでだったのでしょう」


 ぜんぜん違うが何となく好感度がよさそうなので問題ない。


 はたしてソウェイルはさほど間を置かず部屋を訪れた。


 息子のジャハンギルを連れて、である。


「ははうえさまー!」


 四歳のギルはまだ少年というのすら程遠い。産後の女が子守をするのは難しい。離れ離れになるのは身を引きちぎられる思いではあったが、乳母に託して一ヶ月距離を置いていた。顔を見るのは産気づいた三十一日前以来ぶりだ。


 ギルはリリの全身から立ちのぼる悪臭をものともせず抱き着いてきた。

 リリの平らになった腹に顔を埋め、擦り寄る。そして顔を上げ、半べそをかきながらも笑みを作る。


「おあいしとうございました!」


 顔を見るだけで涙が込み上げてくる。


「おお、おお、ギルや、わらわのギルや……!」


 この一ヶ月どれほどこの子のことが恋しかったことか。自分が坐月子ズオユエズに入って身動きが取れない間どんなに寂しい思いをしていたかと思うと胸が潰れる。もう引き離されることのないようにという気持ちを込めて抱き締める。


「少し大きゅうなったのではあるまいか?」

「はい、ははうえさまのおっしゃったとおり、たくさんたべてたくさんあそびました」

「なんとよい子なのであろう! ギルが健やかで母は嬉しく思うぞ」


 新しく赤子が生まれたら自分の母性はギルの分と赤子の分とで半分になってしまうのではないかと思っていたが、そんなことはなかった。上の子は上の子で、下の子は下の子で可愛い。三等分ではなく、また下の子へ偏ることもなく、三倍だ。

 あるいは、ギルが兄らしく振る舞うようになれば、ギルへの愛しさはさらに増すかもしれない。自分はギルの成長を嬉しく思うはずだ。死ぬ思いをして産んだ赤子たちへの愛情はもちろん強いが、赤子たちの世話をするギルを見るのはまた格別のことだろう。


 もっといえば──リリはまだ何も知らぬ小娘であった頃、自分には赤子の世話などできないと思っていた。乳幼児との接し方が分からなかったし、他人の汚物に触れることを不潔に思っていたし、母乳を与えることは家畜のすることのように思っていたのだ。

 ところが実際に産んでみると何をしても可愛い。子に慣れぬリリにできることは少なく、基本的な世話は乳母に託さざるをえなかったが、坐月子ズオユエズの間の乳を与えることのほかに何もしない生活は、赤子と一緒にいる時間に限っては、幸福だ。坐月子ズオユエズは母と子の結びつきを強くするためにも必要な儀式なのだ。


「このひと月、何をしておった?」


 訊ねると、ギルは大きく頷いた。


「ちちうえと、おふろにはいったり、ごはんをたべたりなどしました」


 リリは枕をひっつかんだ。そしてソウェイルの顔面に投げつけた。ソウェイルは冷静な顔で枕を受け止めた。


「王の仕事ではない! 何ゆえ乳母にさせぬ!?」

「絶対そう言うと思ったから坐月子ズオユエズのうちにギルといちゃいちゃしないといけないと思って……」


 ソウェイルは一ヶ月前とは何ら変わらない様子である。ギルの顔を見た時ほどの感慨は湧かなかった。たかが夫だ。


「なんぞ、そなた父上といちゃいちゃしておったのか」

「べつに、しておりませぬ。ちちうえがかってにべたべたしてきたのです」

「そ、そうかあ。俺の一ヶ月何の役にも立ってない感あるなあ」


 ソウェイルがギルのそばにしゃがみ込む。


「でも、ギルはお父さんのこと好きだよな?」


 ギルが首を横に振った。ソウェイルが沈黙した。リリは声を上げて笑った。


 扉の外からまた別の女官の声がした。


「リリ様、陛下」

「なんぞあったか」

「せっかく陛下がいらしているのですから、シャーザード殿下とシャーダード殿下のお顔をお見せした方が、と思ったのですが」


 シャーザードとシャーダードは双子の名だ。リリが知らないうちにソウェイルが勝手につけたのである。特にこだわりはないので何とつけてもいいのだが、何となく腹が立つ。


「まあ寝てるところいつも勝手に見てるけど」


 知らなかった。とはいえ男性に会ってはいけないのは産婦であり赤子ではないので、乳母たちと予定を合わせれば不可能ではない。リリが知らないところで勝手なことをされるのが嫌なだけなので歯ぎしりするにとどめておく。


「起きておいでですよ」

「見たい。部屋に入れてくれ」


 ソウェイルが言うと、女官が扉を開けた。そして二人の乳母がそれぞれに赤子を抱いて部屋に入ってきた。


 赤子はギルが生まれた時より一回り小さかったが、二人とも五体満足で元気である。よく乳を飲みよく眠る。きっとあっと言う間に大きくなるだろう。


 ただひとつだけ、気がかりなことがった。


「ザード、ダードや」


 呼びながら、リリは両腕に――右腕にザードを、左腕にダードを受け取った。


 ギルが生まれた時と同じように愛しいはずだというのに、姿を見るたび複雑な心境になる。


 双子の髪の色がどう見ても二人とも蒼いからである。




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