第21話 その作品の名は
「――で、結局僕の家に戻ってきたのか」
「へへへ!」
翌週の土曜日、ヴァンは黄の神剣を背負ってラームテインの家を訪れた。
そこではホスローとラームテインが卓についており、ホスローは読書を、ラームテインは執筆をしていた。先週と変わらない。
ヴァンも先週と同じように本を開いて座った。
「どっちにしろ勉強しろって言われてさ! 今の寺子屋は卒業しなきゃならないし、上の学校に上がるにしても将軍として東部州に行くにしても兵法の勉強しろって。で、俺、それならやっぱり今までどおり師匠に教わるのが一番だな、と思ったんだ」
「誰に言われたの?」
「オルティさん」
ラームテインは一瞬黙った。
「まあ……、陛下に勉強しろと言われたと言われたらあなたも子供の頃まったく勉強していませんでしたよねと言えるところだけど、オルティ将軍代理は本当に少年の頃から苦労して努力してここまで上り詰めた人だから、言い返しにくいね」
ホスローが「めっちゃそれ」と呟いた。
「あんただからできるんでは? ってめちゃくちゃ思うけどな」
「それも間違いない。世の中には努力できる人間とできない人間がいるよ。努力も才能のうち」
そして溜息をつく。
「そういう意味ではフェイフュー殿下こそ才能に満ち溢れた人だったのに惜しいなあ。フェイフュー殿下は努力のかたまりだったよ。武術も勉学も何だってあの方は自分を磨いてこられた」
するとホスローもこんなことを言った。
「兄ちゃんもだ。兄ちゃんもリリ様と結婚する前後くらいからは頑張ってた。文字どおり血反吐を吐いて今のソウェイル王ってやつを作り上げたんだ。俺は兄ちゃんのそういうとこはほんとに尊敬してる」
ヴァンが感心して頷くと、彼はこうとも続けた。
「結局剣術は諦めてたけどな」
「だよね。そこはソウェイル殿下だな」
「まあ、あのお方ができなくてもオルティさんができるからいいんじゃん?」
「書き物の仕事もシャフラちゃんができるからシャフラちゃんにって振ってるから――なんか俺自分で言ってて兄ちゃんが本当に努力してんのか自信がなくなってきたな……」
三人で軽口を叩く。隠し事がなくなり人間関係が分かったので以前より話しやすい。
「で、憧れの十神剣になった感想は、どう? 何か変わったことあった?」
ホスローにそんなことを聞かれた。
ヴァンはこの一週間に起こったことを思い返した。
両親に泣かれたこと、姉たちにも泣かれたこと、学校で教師や友人たちが大騒ぎをしたこと、何度か宮殿に呼び出されて身体検査や今までの経歴について聞き取り調査をされたこと、ヴァンにあやかりたいと言って八百屋の客が激増したこと――いろんなことがあった。
正直に言うと不安になってきた。最初の二、三日こそ将軍になった喜びで舞い上がっていたが、周りの人間の態度があまりにも変わったので、自分が自分でなくなったような気がしてきたのだ。八百屋の子ヴァンから、黄将軍ヴァフラムに変わってしまった。激変だった。
そんな中でも変わらないものはある。
「父ちゃんと母ちゃんが、さ。最初のうちこそ、将軍、将軍って言ったり、なんかよく分からん時に泣いたりしてたけど。この何日かで元に戻って、いつもどおりになったんだ。朝は母ちゃんに起こされて飯を食い、学校に行かされ、昼にはみんなで飯を食い、午後は宮殿に行ったり神殿に行ったり何なりして、夜また帰ってきて喋りながら飯を食う、みたいな流れが、今までどおりになった気がして」
そしてそういう生活の基盤が整っているとヴァンは家の中で守られていることを感じるのだ。将軍として外界に放り出されている時間には感じない安心が家の中にあることを痛感するのだ。
「……そっか」
ラームテインが手を止めて息を吐く。
「僕は家族がいなかったからかな。住まいも変わったし、朝から晩まで将軍将軍と呼ばれて紫軍のみんなにちやほやされて、本当にすべてが変わったよ」
複雑そうな表情だ。
彼は今、自分とヴァンを比較して、何を思い、どんなことを感じているのだろうか。今のヴァンには何も分からない。ただ、いつかは分かりたいと思った。十神剣の同僚に――兄弟になったのだ。いつかラームテインのことを理解できる日が来ると思いたい。
ラームテインが紫の神剣を抜いた時、今のヴァンと同い年だった。
「黄軍の副長はこれから俺に会いに東部州から来てくれるらしいから来週会うことになってる。だから、それもあるのかな。なんか、黄軍の長、みたいな感覚もないんだよな。会えばまた変わるかなあ」
「それも地方将軍ならではだよね。アフサリーに自分の時はどうだったか訊いてみるといいよ。エルとは会う機会なさそうだからね」
他の将軍の名前が出てから、ヴァンは「あっ」と声を上げた。
「ユングヴィ将軍とサヴァシュ将軍には会った!」
ホスローが飲んでいた茶を噴き出した。
「聞いてねぇ! いつの間に!」
「オメーユングヴィ将軍のことババアとかデブとかブスとかよく言ってくれたな!? ぜんぜんそんなことねぇふつーのお姉さんだったじゃねーかよ! 親不孝! 謝れ!」
「あのクソババア余計なこと言ってねぇだろうな」
「いつもうちのホスローがお世話になってるね、これからも遊んでやってね、って言ってたぞ。お袋さんをあまり苦労させんなよ、お前の母親だろ」
「あー聞こえない! 聞こえないぞーっ」
珍しく、ラームテインが忍び声で笑った。
「サヴァシュ将軍に会えたのめちゃくちゃ嬉しかったな。大陸最強だぜ? かっこよすぎる。すごい貫禄みたいなのあった。でも、めちゃ好きです、握手してください、って言ったらすぐしてくれて、気さくなところもあるんだなーって感じだった」
「俺にとっちゃあ家でごろごろしてるおっさんだから何が大陸最強なのか周りがどこに感動するのかよく分からんけど……貫禄って体型? ここ何年かちょっと太った気がするんだわ」
「違う! 気! 戦士の纏う空気!」
「まあ、よかったよ。楽しそうで」
ラームテインのそんな言葉を聞いた時、ひょっとして心配してくれていたのだろうか、というのが胸中をよぎった。ヴァンが将軍になったことを楽しめずにいるのではないかと思ったのだろうか。
「めっちゃ楽しいよ」
「そう」
ラームテインの時には何か楽しくないこともあったのかもしれない。訊いてみたい。
いつかはこの人を受け止められるようになりたい。
ヴァンがラームテインに問い掛けようと口を開いた途端、ホスローがこんなことを言い出した。
「すげーなぁ。ここにいるの、俺だけが将軍じゃないんだ。なんか変な感じ」
一瞬軽率にホスローも将軍になってはどうかと言いそうになったが、ソウェイルと一緒に聞いた神剣たちの主張を聞く限りホスローのために空けられそうな将軍の席はない。白の剣にはもう心に決めた人がいるようだし、蒼の剣は武家の名門にこだわる気難しさを見せたし、桜の剣は女性でないとだめだと言う。そしてそれ以外の剣にはもう持ち主がいる。
将軍が入れ替わる時は、先の将軍が死んだ時だ。
ホスローが将軍になるのなら、それは誰かが死んだ時なのではないだろうか。
「……何にも変わらねーよ」
ヴァンがそう言うと、ラームテインも「そうそう」と続いた。
「僕はまだ将軍として活動する気はないしね」
ところがその言葉にはホスローが「って言うけどさあ」と揚げ足を取った。
「でも一瞬帰ろっかなって思っただろ。将軍に復帰しよっかな、って思っちゃっただろ」
「何を根拠に――」
「兄ちゃんが言ってたじゃん、戦争になったら師匠が必要だ、って。それでめっちゃぐらついただろ」
ラームテインは唇を引き結んだ。
ホスローが意地悪く笑う。
「師匠、戦争大好きだもんなあ!」
「いや……まだ……僕はまだ屈しない……」
「素直になっちまえよ! 兄ちゃん怒ってないからいつでも受け入れてくれるぜ!」
「負けない。僕はまだ負けないよ」
そして、手元にある白紙の本を見る。
「この叙事詩もある程度区切りのいいところまで書きたいしな」
そういえば、ラームテインはフェイフューの生きた軌跡を残したいと言っていた。
「執筆進んでる?」
「いや、ちょっと書き直そうと思って前に戻って読み返してる」
「なんで? 後ろを振り返ってたら進まないぜ」
「おっしゃるとおりなんだけど――」
そこで、大きく、息を吐いた。
「フェイフュー殿下が死んで終わり、はやめようかと思って」
ホスローが体を起こした。
「フェイフュー殿下が亡くなった後、ソウェイル殿下が――ソウェイル王がどう生きてどう政治をしたか、まで書き記そうと思って。でも、そうなってくると、主人公はフェイフュー殿下じゃなくて陛下になってしまうかもしれないな、と思えてきたんだ。ソウェイル王を取り巻く人々の物語になるんじゃないか、と」
「すげえ壮大な話になってこない?」
ホスローの問い掛けに、ラームテインが苦笑する。
「もしかしたら、僕が生きている間には完結しない話になるかもしれないね。ソウェイル王の治世が終わるまで書き続けないといけなくなるかもしれないから」
「そんな大長編に取り組むんだ」
「でもやりがいはある」
それから少し遠くを見て、言う。
「フェイフュー殿下に捧げられる物語にしたい。ご自分がいなくなった後の世界がどうなったのか、いつかフェイフュー殿下に再会できた時手渡して読んでくだされば分かりますと言えるような本にしたい」
決意を新たにしたラームテインを見て、ヴァンも細く息を吐いた。
応援しよう、と思った。だいたい物を書くことなどヴァンにはできない。ラームテインはひとにはできない偉業に手を付けたのだ。
「ちなみにその本、題名は何になるの?」
ラームテインは「そうだなぁ」と呟き、しばらく唸ってから、こう答えた。
「蒼き太陽の詩、かな」
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