第20話 黄将軍ヴァフラム
どくん、と心臓が鳴るのを感じた。体じゅうを血が一気に巡っていくのを感じた。
目の前に、神剣がある。
ソウェイルが――アルヤ王が、抜け、と言う。
ヴァンは手を伸ばした。その手は震えていた。
でも、大丈夫だという確信はできていた。
何せ、他の誰でもなく神剣自身が、それでいいと言ってくれたのだ。
右手で黄金色の鞘を、左手で黄金色の柄を握った。
不思議と手に馴染んだ。何百年も前からずっと一緒にいたかのような錯覚があった。
抜けると、思った。
引いた。
それは日輪よりもまばゆく輝く刀身を見せた。
刃が、黄金色に輝いている。
刃が見えた。
「おめでとう」
ソウェイルが、笑った。
「新しい、黄将軍。十神剣へ、ようこそ」
どこからともなく拍手が聞こえてきた。
振り返ると、神剣の間の出入り口辺りに白軍兵士たちが詰めていて、ヴァンに向かって笑みを見せながら手を叩いていた。そのうちオルティも手を叩き始めた。
ずっと黙って見ていたホスローが、その顔面いっぱいで顔を作って叫んだ。
「お前将軍になれたじゃん!」
ホスローに言われてから、胸にじわじわと喜びが広がってきた。
叶わぬ夢だと思っていた。子供っぽい夢だと、大人になったら諦めないといけない夢だと思っていた。
夢ではない。
現実になった。
自分は、将軍になったのだ。
不意に肩を抱かれた。
腕の主を見るとソウェイルであった。香辛料のいい匂いがする。
「ホスローから聞いてたぞ。ヴァンは将軍になりたかったんだってな。俺もやりたい人にやらせたいと思っていたからちょうどよかった」
そしてからかうように言う。
「実際なってみて、どんな気分?」
ヴァンは涙の滲む声で答えた。
「最高の気分です!」
夢が叶ったのだ。
ところが、次の時だ。
「ヴァン」
呼ぶ声が聞こえてきたので、ふたたび出入り口の方を向いた。
そこで白軍兵士たちに守られて立っていたのはヴァンの両親であった。一張羅である民族衣装をちゃんと着た父と母が、今までに見せたことのない顔で――今にも泣き出しそうな顔でヴァンを見つめている。
「あんた、神剣を抜いたんだね」
母は「おめでとう」と言った。震える声で、だ。
「おめでとう……」
繰り返したその瞬間、彼女の目から涙がこぼれ落ちた。
ヴァンは戸惑った。なぜ泣くのか分からなかったからだ。めでたいことだと、喜んでくれると思っていたのだ。
しかし次に父の言葉を聞いた時、ヴァンは足元ががらがらと崩れていくのを感じた。
「黄の神剣かぁ」
ぽつり、ぽつりと、呟くような声だった。
「お前、東部に行っちまうんだな」
衝撃を受けた。
彼の言うとおりだ。
黄将軍とは東部守護隊の長、東部州州都メシェッドの守り神だ。黄の神剣を抜いたということは、生まれ育った王都エスファーナを離れて東部州に赴任しなければならない、ということなのだ。
エスファーナで八百屋を営む両親とは、ここでお別れだ。
まさかそんなことになるとは思っていなかった。自分は永遠に王都にいる気がしたのだ。ずっと王都で暮らして、王都を守っていくと思っていた。だから中央守護隊の蒼軍を希望していたというのもある。他の地方部隊など考えたこともなかった。
焦ってソウェイルの顔を見た。
ソウェイルは落ち着いた顔をしていた。
「どうしたい?」
「どうって――」
「ヴァンは東部州に行きたい?」
泣きたくなった。
ここで嫌だと言ったら神剣を取り上げられてしまうと思ったのだ。
黄の神剣を抱き締めた。離したくなかった。自分の剣だと主張したかった。誰にも渡したくない。この剣こそ自分を将軍にしてくれた剣なのだ。
でも、両親と離れて、遠い東部の州都に行かねばならなくなる。
奥歯をぐっと噛み締めた。
身を引き裂かれる、というのはこういう気分のことを言うのだ。
沈黙してしまった。
けれどそんなヴァンをソウェイルは責めなかった。彼は腕を伸ばして、ぽんぽんと、優しく撫でるようにヴァンの頭を撫でた。
「今すぐ決めなくていい」
その言葉が砂漠に撒かれた水のように心に沁み込んでいく。
「実は、ヴァンにはもう一個やってもらいたいことがある。それが済んでから、ゆっくり、どうしようか考えていこう。一緒に。俺も一緒にどうするのが一番いいのか考えてやるからな」
ソウェイルに抱きつきたくなったが堪えた。ホスローの兄だが、国王陛下だ。そんな気軽に触れてはならない。
そう思って我慢したヴァンを、ソウェイルの方から抱き締めてくれた。
「まだもう少し時間が必要だ。何せヴァンはまだ十四歳だもんな」
泣き声が聞こえてきた。ヴァンの母親の声だ。彼女がこんな風に声を上げて泣くのを聞くのは初めてだった。娘たちの結婚式でさえもっと静かに泣いていたのだ。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ」
後頭部を、撫でられる。
「ヴァンにはもう一個大事な頼み事がある」
ソウェイルの背中に腕を回し、服の後ろをつかみながら、「何ですか」と訊ねた。
「学校を作ろうと思っている」
予想外の言葉に、ヴァンは目を丸く見開いた。
「砲術の学校だ」
体を起こしてソウェイルの顔を見た。
ソウェイルは真剣そのものの顔をしていた。
「ヴァンと、それからホスローにも。その、新しい軍学校の一期生になってもらう」
ホスローの「えっ」と言う声が聞こえてきた。ソウェイルがちょっと笑って「そんな驚くことじゃないだろ」と言う。
「これからの時代戦争は火器が中心になっていく。軍隊の上に立つ者には砲術のことを分かってもらわないといけない。この国にはそのための教育機関が必要だ」
そして、「白軍の軍学校ではなく」と付け足された。ヴァンはホスロー経由でソウェイルに自分が以前白軍の軍学校の受験を熱望していたことが伝わっているのではないかと思った。顔から火が出そうだ。
「ヴァンとホスローにはまだまだ勉強してもらうからな。次の世代を担う軍人として、武官として」
そこで前に出てきたのはヴァンの両親だ。
「何年制ですか」
「まだ決めていない。でも、まあ、だいたい二、三年くらいがちょうどいいかな、と思う。今から頑張って勉強してもらって、試験に通ってもらって、ヴァンが今十四歳だから、十五から三年で十八か」
「その学校というのは、王都に作られるんですか」
「そう」
二人の表情に安堵の笑みが浮かんだ。
「ヴァンにはまだあと三年くらいは親御さんのもとから勉学のために施設に通う生活をしてもらわないとならないな」
ヴァンも全身から力が抜けていくのを感じた。神剣を抱き締めたまま床にへたり込んでしまった。
その分猶予ができたということだ。
「兄ちゃんそんなこと一言も言ってなかったじゃん」
床に座っているヴァンには見えないが、こういう物言いをするということはホスローだろう。
「父ちゃんと母ちゃんそれ知ってる?」
「知らないだろうな。オルティたち一部の軍上層部とシャフラたち一部の書記官にしか言っていない」
「そんなもの勝手に作ったら――」
安心して緩んだはずの心臓が、ふたたびぎゅっと握り締められる。
「サータム帝国が何て言うか」
「それなんだよな」
ソウェイルの顔を見上げた。ソウェイルもまた、いつになく険しい顔をしていた。
「下手をすれば謀反の準備をしていると思われる。だから今ここにいるみんなは俺がこういうことを計画しているというのを黙っていてほしい。戦争をしたくなかったら、な」
場が、しんと静まり返った。
ヴァンも何と言ったらいいのか分からなかった。
「いずれにせよ、永遠に今のままでいられるとは思えない」
王は断言した。
「戦争をしたくないからこそ、戦争に備えないといけない。いつ何が起こってもいいように。対応できるように。守れるように」
黄の神剣を、抱き締める。
「十神剣をできる限り揃えないといけない。今のアルヤ王国には軍神に守られているという心の安寧と軍隊に守られているという身の安寧が必要だ」
それから、彼は苦笑した。
「ヴァンとホスローには、何としてでも、ラームを宮殿に呼び戻してほしい。万が一戦争になった時、この国の軍隊には、彼が必要なんだ」
元気な返事が聞こえてきた。
「はい!」
ホスローのそんな返事に、ヴァンも笑って続いた。
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