第14話 もうそんなに緊張しなくてもいい

 左右には太い列柱が立ち並んでいる。釉薬の塗られた石片タイルには流麗な書体の文字で経典の文句が描かれていて、広間全体に特別なまじないが施されているかのようだった。


 目の前には金箔が貼られ蒼玉サファイアの埋め込まれた玉座がある。蒼い絹繻子の天蓋を縁取る金糸の刺繍も見事で、本もろくに読まないヴァンの語彙ではとても言い表すことができない。


 部屋の中央、床の毛足の長い絨毯に膝をつき、震えながら王の到来を待つ。


 どんな人なのだろう。

 そもそも人間なのだろうか。

 伝説の蒼い髪の王だ。アルヤ民族の頂点に立つ、世界のすべてを統べるにふさわしい、この世で至上の唯一の存在である。


 ホスローの物言いを聞いている限りでは、ヴァンはわりとのんびりとした穏やかな性格の青年の姿を想像していた。十歳年下で政治のことなどちんぷんかんぷんのホスローにも丁寧に自分の仕事の中身を説明している。面倒見のいい、優しい兄の様子が頭の中に浮かび上がる。

 だから、けして、恐ろしい存在であるはずがない。

 そう思ってはいるが、ホスローの兄が王のことを言っていると気づくまでは、ヴァンにとって王とは神だったのだ。


 まして、こんなすごいところに住んで仕事をしている。


 護衛の兵士たちが数人ヴァンの後ろに控えているが、誰も何も言わない。


 怖い。


 ヴァンから見て右前方、玉座からすると左の奥にある扉が、重々しい音を立てて開いた。


「国王陛下のおなり!」


 まず出てきたのは侍従官と思われる青年二人であった。二人とも制服なのか蒼い生地に白い襟の揃いの服を着ている。きちんとした縫製の厚い生地の服だ。王の従者ともなればいいものを着て仕事ができるのだ、と思うと木綿の平民服で来た自分が少し恥ずかしい。


 青年二人の後ろから、いよいよ国王陛下のお見えだ。


 ヴァンは息を呑んだ。


 まず目に留まったのは、艶やかな蒼い髪だ。宮殿の石片タイルの色、ヴァンはまだ見ぬ海の色、そして何よりアルヤ高原の蒼穹の色、万物を照らす蒼い太陽の色をしている。目の冴えるような伝説が、生きてそこに存在している。

 蒼い髪の上には白と赤の格子模様のターバンを巻いていて、その上から蒼玉がはまった金細工の鎖でできているターバン飾りをつけている。豪奢で華やかで、それがいかに高価なものであるかをヴァンに想像させた。

 長身痩躯を包むのは黒地に蒼で日輪と蔓草の大地を表現した衣装だ。黒い色とまっすぐの縫製の意匠が彼のすらりとした体躯を強調しており、やけに背が高く見えた。

 滑らかな白い肌にはしみひとつなく、はっきりとした二重まぶたの中に納まっているのはターバン飾りと同じ蒼玉だ。高い鼻にすっきりした顎は役者よりも整っており、これぞ神の被造物であるとヴァンは確信した。


 この、今目の前にいるのが、我々アルヤ人が神と戴いてきたアルヤ王ソウェイルだ。


 すさまじい存在感だ。美しいいでたちや顔立ちは涼しげですらあるのに、異様な圧迫感、威圧感がある。ヴァンのような小者には声ひとつ上げることを許さない超越者の空気だ。


 とんでもないところに来てしまった。今夜眠れる気がしない。親に何と説明すればいいだろう。混乱のあまり頭を下げることすら忘れた。


 王の後ろから白将軍代理のオルティが出てきた。彼は神剣ではなく金の柄に黒漆の鞘の剣を腰に携えている。ヴァンは先ほどまで彼に対しても畏れのようなものを抱いていたが、本物の神である王を前にすると少しかすんで見えた。


 アルヤ王ソウェイルは、左右に侍従官の青年たちを立たせたまま、玉座に腰を下ろした。

 右足を持ち上げ、左膝の上に乗せるようにして組む。肘掛けに右肘をつく。ターバンの上の飾りが、しゃらり、と音を立てた。


 侍従官の一人が言った。


が高いぞ」


 言われて初めて、呆然と王を眺めていたことに気づいた。我に返って頭を下げようとした。


 しかしそこで、王が口を開いた。


「よい。そのままでおれ」


 左手を掲げるように持ち上げる。金の指輪をはめた白い指は細く長くて、まるで楽士のようだ。通りの良い、低くも高くもなく落ち着いた雰囲気の若い男性の声も相まって、雰囲気に圧倒される。


 ヴァンはぽかんと口を開けたまま王を見つめた。


 王はまっすぐヴァンを見下ろしていた。その蒼玉の瞳は穏やかというより静かで、はつらつと輝くホスローとはまったく雰囲気をことにしている。感情の色が見えない。ただ、ただ、見下ろされている――怖い。


「そなた、ヴァフラムと申したな」


 返事をするのさえ忘れた。


「オルティから余に物申したいことがあると聞いた。特別に聞いてやる。申してみよ」


 しばらくの間、何を言われたのか分からなかった。ただ呆然と王を見つめていた。

 王は眉ひとつ動かさなかった。


「残念だが余が平民であるそなたに割ける時間はそうない。く話すがいい」


 ヴァンが沈黙しているので、オルティが言った。


「お前、王に会ってホスローの話をしたいんじゃなかったのか?」


 ホスローの名前を出されて、ヴァンは我に返った。


「聞いてくださると仰せだ。言え」


 改めて、今度こそ意識して頭を下げた。


「申し上げます!」


 自分は、ホスローを助けるためにここまで来たのだ。

 友達であるホスローのために、ホスローの兄に会いに来た。

 この人は、ホスローの兄なのだ。


「ホスローを助けてください! 陛下はユングヴィ将軍の養い子でホスローのお兄さんなんですよね!? ホスローが危ないことをしようとしてるんです、兄として止めて、説教してやってください!」


 大声で言った。床に向かって、ではあったが、高い天井にも響くようにはっきりとそう言った。


 ホスローのためなら、頑張れる。


 相手はホスローの兄だ。怖くない。畏れることは――恐れることは、ない。


 次の時だ。


 しゃらん、という、金細工がこすれる音がした。


 顔を上げた。


 王が玉座から立ち上がって、ヴァンのすぐ目の前に降りてきていた。


 ヴァンが驚いて後ずさりをしようとしたところ、腕が伸びてきた。

 王の左手が、ヴァンの右肩をつかんだ。


 王はその場に膝をついた。

 目線が近づいた。


 王からいい匂いがする。肉桂シナモンだ。甘くて優しくてほんの少し苦い味はアルヤの家庭料理によくある香りで、ヴァンはようやくほっとするのを感じた。国内最高位の王も乳香だとか龍涎香だとか名前だけは一応知っている何かものすごい高価な香を焚き染めているわけではないらしい。


「悪かった」


 ヴァンは目を丸く見開いた。


 王が、ふ、と笑みを漏らしたからだ。


 その笑みは優しく、柔和で、ひとを安心させる、どこか女性的でもある美しいもので、ヴァンは見ているだけで体から力が抜けていくのを感じた。


「意地悪なことをしたな。少し試してみたかったんだ。ごめんな。もうそんなに緊張しなくてもいい」


 そう語り掛ける言葉遣いは先ほどの高貴な身分の人間特有の物言いとは違い、平民のわりには上品かもしれないが下町でもいいところの若旦那にはありがちな、優しく穏やかなものだった。


「ずっと会いたかった、ヴァフラム。……俺も、ヴァンと呼んでいいか?」


 その言葉が彼から出てきた瞬間――


「はい」


 ヴァンはすべてが丸く収まったような気がして、自分の両目からぼろぼろと涙がこぼれていくのを感じた。


 王の言うとおりだ。自分はずっと緊張していた。どうしてもホスローのために頑張りたいという気持ちと、蒼宮殿という大それた場所に立ち入らなければならない緊張感で、ずっと、ずっと、擦り切れそうな葛藤を抱えていたのだ。


 直感的に悟った。

 この方は、そんな自分を助けてくださる。


 アルヤ王ソウェイルは、ヴァンの前で片膝をついたまま、言った。


「お前の話はホスローからよく聞いている。いつもホスローと遊んでくれてありがとう」


 やっと、ホスローのお兄さんに会えたのだ。

 ヴァンは声を上げておいおいと泣いた。

 そんなヴァンを、ソウェイルは包み込むように抱き締めていてくれた。



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